32:どうも給料ドロボウです
初日から大失態をブチかました私は処刑台に登るつもりでガロンさんの元へ向かった。
流石に人の良さそうなガロンさんでも、あんな騒動を起こした私を許してくれるはずがない。……クビかなぁ、クビだよね。せっかく雇ってもらえたのに、明日からどうしよう。
絶望に足を震わせながら厨房の入り口に立つと、そこにはガロンさんと、いつの間にか隣に並んでいるカシムの姿があった。
「あの、ガロンさん……本当に申し訳ありませんでした! 私、私……」
絞り出すような声で謝罪する私を遮り、ガロンさんの地響きのような力強い声が店内に響いた。
「ミオちゃん、全部聞いたぞ! もう、無理して笑わなくていいんだ。お前さんが転びそうになったら、旦那だけじゃない、この俺もいつでも支えてやるからな!」
大きな手から伝わってくるのは、疑いようのない純粋な善意と、深い同情だった。
……え、何を聞いたの?
っていうか、この状況で「笑わなくていい」って、どういう意味?
私は、手に残る「黄金の毛束」の感触に震えながら、ゆっくりとカシムの方を確認する。
そこには、眉を下げ、いかにも「心優しい苦労人の夫」といった風情で佇むカシムの姿がある。
彼は私と目が合うと、ガロンさんからは見えない角度で、すっと口角を持ち上げた。
その三日月のような笑みを見た瞬間、嫌な予感が確信に変わった。……この男、私の知らない間にまた何か設定を上乗せしたはずだ。
(嘘でしょ……。駆け落ちの次は、一体何を吹き込んだのよ……)
カシムがどんなデタラメを並べたのかは分からないけれど、ガロンさんのあの「すべてを悟った」ような顔を見る限り、私のイメージはすでに、完膚なきまでに固定されてしまったらしい。……ガロンさんごめんなさい。私は無力です。
「いえ、全然、大丈夫です……」
私の口から出たのは、自分でも驚くほど平坦で、感情の抜け落ちた声だった。
否定したくても、何と否定すればいいのか分からない。
目の前では、カシムが「あいつ、ああやって強がるところがあるんです」と言わんばかりに困り顔で首を振っている。
「……いいんだ、ミオちゃん。お前さんの苦労はよくわかった」
ガロンさんがハンカチで目頭を押さえながら、丸太のような腕で私の肩を力強く叩いた。
「そんな体で、カシムと一緒に逃げてきたんだってなぁ……。今日までよく、一人で耐えて頑張ってきた。俺は、俺は感動したぞ!」
(苦労? 私が……? それに、そんな体って……どんな体?)
ガロンさんの目は、今にも涙が溢れ出しそうなほど情に満ちていて、まるで私が不治の病を隠して働く悲劇のヒロインであるかのような、熱い視線を送ってくる。
「さあ、突っ立ってちゃいかん! ほら、この椅子に座るんだ。夜の営業が終わるまで、お前さんはここでじっとしてるのが仕事だ。いいな!」
「えっ、あ、あの! ガロンさん、本当に大丈夫なんです。さっきのはただエプロンが引っかかっただけで……」
「ミオ、ダメだよ。君のそういう無理するところが目が離せないんだ」
カシムが、いかにも心配です、と言わんばかりに私の言葉を遮った。彼は私の肩を優しく、けれど抗えない力強さで抱き寄せ、用意された椅子へと強制連行する。
「ガロンさんのご厚意を無下にするな。……ほら、座って」
有無を言わせぬ圧に押され、私はすとんと椅子に腰を下ろした。
視界が少し低くなり、忙しなく立ち働く二人の腰のあたりが目に入る。……何、この状況。初日のバイトで「座っているのが仕事」なんて、もはや給料泥棒どころの騒ぎじゃない。
あっ………そういえば、日本で短期のバイトをしていた時も、似たようなことがあったっけ。
あの時も店長が「顔色が悪いから座ってなさい」と椅子を持ってきてくれたけれど、あれ、絶対身体の心配じゃなかった。私が元気よくフロアに出ようとすると、店長も先輩も「お願いだから座ってて!」「君が動くと何が起こるか分からないから!」って、必死の形相で私を椅子に隔離したんだっけ。
要するに、私の不運が周囲に被害を出さないための「封印」だったわけだ。懐かしいけれど、思い出しても涙が出るくらい申し訳ない記憶だ。クビにされた方がまだ救いがあった。その節は迷惑掛けてすみませんでした。
夜の営業が始まると、カシムの動きはさらに冴え渡った。
フロアと厨房を縦横無尽に駆け回り、注文を取り、料理を運び、空いた皿を片付ける。その動きに一切の無駄がなく、まるで最初からこの店にいたかのような馴染み方だ。ガロンさんも「お前、本当に筋がいいな!」と大喜びで、カシムへの信頼は数時間で天を突き抜ける勢いだった。
一方の私は、隅の椅子に座らされたまま、手持ち無沙汰に指を弄んでいる。
時折、客席から「あの奥さんは大丈夫か?」と心配の声を掛けてくるのが、針の筵どころではない。さっきの「尊厳強奪事件」の衝撃が、カシムの嘘のせいで「病弱な妻の悲劇」へと見事にロンダリングされている。
客足が少し落ち着いた頃、カシムが汚れたグラスを持って厨房へ戻ってきた。
すれ違いざま、彼はガロンさんが奥の倉庫へ向かったのを確認すると、私にだけ聞こえる低い声で囁く。
「いい子にしてるね、ミオ」
「カシム……! ガロンさんに何を言ったの? 私、病気なんかじゃないし、足腰だって……!」
カシムはグラスを置くと、私と目線をあわせるように片手で椅子の背もたれを掴んだ。逃げ場のない至近距離。
「嘘は言ってないよ。君はあんなに派手に回って、客のカツラを剥ぎ取った。普通の人間なら足がもつれる前に止まれるはずだ。……それができなかったのは、足腰が『脆い』から。そうだろう?」
「それは……!」
「おっと、声が大きいよ。……ガロンにはこう伝えてある。『あいつは幼い頃の病で、時々自分の体の制御が利かなくなる。だから、俺がずっと側にいて支えてやらなきゃいけないんだ』ってね」
カシムの瞳が、面白くて仕方がないというように細められる。大袈裟な追加設定に言葉を失う。
「これで君は、俺から離れられない『か弱い妻』だ。ガロンも、君を一人でどこかへ行かせたりはしないだろう」
カシムは椅子の背もたれから手を離し、私の首のチョーカーへ手を伸ばした。トップの銀細工を指先で転がす。
「だから、あんなゴミみたいな男に目を奪われるのはもうやめな。……君が視線を向けていいのは、俺一人で十分なんだから」
……やっぱり、バレてた。厨房から刺さるような視線を感じた時、嫌な予感はしてたけど。
カシムの視線と指先が私の首筋のある一点をなぞる。途端、心臓がドクリと跳ね、胸が苦しくなる。急激に体温が上がった気がした。
「……あ、あのねカシム。あれは別に、その、変な意味じゃなくて! ほら、珍しい髪色だなーとか、顔立ちが整ってるなーとか、そういう造形美を眺めるような、ほんの好奇心というか……!」
自分でも驚くほど早口で、必死に弁明の言葉を並べていた。カシムはそんな私を冷ややかな、けれどどこか楽しげな瞳で見下ろしている。
(……って、なんで私がこんなに必死に言い訳しなきゃいけないのよ! これじゃまるで、浮気がバレた人みたいじゃない!?)
自分で自分にツッコミを入れながら、あまりの情けなさに顔から火が出そうになる。自分の顔色が鏡を見なくてもわかる。間違いなく真っ赤だ。
彼の執着に、恐怖と「勘弁してよ」という気持ちが同時に押し寄せる。……けれど、逃げ場を塞がれるようなその重さに、どこか甘い安心感を覚えてしまう自分がいた。誰かにこれほどまでに「自分だけを見ていろ」と、なりふり構わず求められたことなんて、これまでの人生になかったから。
(でも、やっぱり怖いし重い! )
私はカシムの視線から逃げ出し俯くことしかできなかった。カシムの顔が見れない。
彼は体勢を戻し、最後に私の髪を一房指先で弄ぶと、何事もなかったようにガロンさんのいる倉庫へ「お待たせしました」と声を掛けた。
その完璧な切り替えの早さに、私は開いた口が塞がらない。さっきのあの重すぎる嫉妬も、全部演技なの!? 本気なの!? どっち!?
「おっ、すまんなカシム! よし、ミオちゃんに温かいスープでも持ってってやれ。今日はもう、奥の部屋で二人でゆっくり休ませてやるからな」
「……ありがとうございます」
「ありがとうございます。……さあミオ。俺が飲ませてあげるからね」
厨房の方へ戻ってきたガロンさんは、カシムが今まさに私の心臓をバクバクにさせた犯人だとは露知らず、善意百パーセントの笑顔で器をカシムに渡した。……ガロンさんが良い人すぎて辛い。




