31:出来心
次々と入る注文をこなしながら、俺は意識の半分以上をフロアの小動物に割いていた。
朝、ガロンが店の流れ等を教えている間、ミオは神妙な顔で頷いていた。その姿はどこか微笑ましいが、同時に危うい。
(随分と楽しそうにしてるねぇ。でも、あまり調子に乗ってると落とし穴に嵌まるよ)
忙しなく動き回る彼女がぶつからないのも、躓かないのも、俺がそれとなく介入している結果だ。
先程は、棚が倒れそうになっているのに気付き即座に支えたが、まさか帳尻合わせのように今度はカップが壊れるとはね。
あれには笑いを堪えるのが一苦労だった。なぜああも綺麗にもげるのか。不運の神様に愛されすぎている彼女が可笑しくてしょうがない。
俺は一頻り愉しんだ後、困惑するミオと別れて厨房へ戻り、作業を再開した。
「カシム、お前。ミオちゃんのことがよっぽど大事なんだな」
隣で包丁を振るっていたガロンが、ニヤつきながら声を掛けてきた。その視線は、フロアで動き回るミオに向けられている。俺は手を止めず、微かに目を細めて見せた。
「……そう見えますか? 彼女、世間知らずで放っておけない性分なもので」
「ははっ、隠したって無駄だ。お前の目、あの子を追う時だけ据わってやがる」
俺は小さく息を吐き、まな板の上の魚を捌きながら、即興のデタラメを語る。
「実は、あいつは商家の箱入り娘だったんです。けれど、冷酷な親によって無理やり年の離れた商売相手の後家へ嫁がされそうになって。実家で働いていた俺が、彼女の涙に耐えかねて手を取り、夜逃げ同然に駆け落ちしたんですよ」
「……ああ、そういえば昨日も駆け落ちって言ってたな。しかしそんな過去が……」
「ええ。何度も死にかけながらここまで来ました。だから、あいつには笑っていてほしいんですよ」
俺の誠実な男の演技に、ガロンは鼻を啜りながら深く頷いた。朝のミオとの会話でも思ったがこの男は見かけに寄らずチョロい。ある意味ミオと同じ匂いがする。
そこへ、カランカランと音が響き、金髪の若い男が入店してきた。
いかにも女受けしそうな優男面だ。注文を取りに向かったミオを観察していると、あろうことか、彼女がその顔に見惚れたのがわかった。
(……あ?)
知らず、眉間に深い皺が寄る。横にガロンがいなければ、今すぐにでも彼女を呼び戻し、その視線を俺だけに固定してやりたい。
苛立ちを紛らわせるように男を睨めつけると、違和感に気づいた。毛質の不自然な光沢、額の生え際に見える微かな境界線。
……なるほどな。だが、一瞬とは言え見惚れたのは事実。この男も捌いてやろうか。
「おいおい、そんなに睨むなよ。お前の嫁さんは可愛らしい顔してるからな、男が寄ってくるのは仕方ねぇさ」
ガロンに揶揄い混じりに肩を叩かれ、俺は一度深く息を吐いた。
(落ち着け。ミオがあんな男に本気で揺らぐはずがない。ーーだが、万が一そうなった時は……)
注文を取り終えたミオがこちらへ戻ってくる。だが、彼女は頑なに俺と目を合わせようとしない。
その事実が、また少し俺を苛立たせた。
(もう少し待とうかと思ったけれど、やっぱりやめようかな。誰が一番ミオの傍にいるのかしっかり自覚してもらわないとね)
余所の男を眺める暇はあるのに、俺とは目を合わせない。その態度が、俺の中の質の悪い悪戯心を刺激した。
仄暗い今夜の予定を考えていると、喜劇は唐突に幕を開ける。
ミオの背後の椅子が引かれ、エプロンの紐がその角にガチリと噛み合う。体勢を崩しながらも踏ん張ろうと藻掻くが、そのせいで余計にくるくると回る彼女。
俺は指先を僅かに動かし、店内の空気に極めて微弱な指向性を持たせた。
パニックに陥り、必死に空を掻く彼女の手。その指先が見事な金髪へと吸い寄せられるように、ごくごく弱い風でその軌道を優しく、自然に、かつ確実に誘導してやる。
あとは慣性と重力が仕事をするだけだ。
(……さあ、手を伸ばして。それが君の助けだよ)
俺はミオの手の行先を期待を込めて見守った。
ーーーその結果。鮮やかに剥ぎ取られる黄金の塊。
俺はあえて脱力し、手にしていた包丁をまな板の上に落とした。
静まり返った店内に、「カラン」と、乾いた音だけが響き渡る。
「あ……え……?」
手の中の毛束を凝視し、真っ白な顔で硬直するミオ。
俺は厨房を抜け出し、ゆっくりと彼女の元へと歩み寄った。そして、彼女が震える手で握りしめている黄金の亡骸をひょいと取り上げると、それを無惨に露わになった客の頭頂部へと、わざと前後逆にして乗せた。
「……うちの妻が、すみません。あまりにあなたの髪が美しかったもので、つい触れてみたくなったようです」
フォローにすらなっていない言葉を淡々と吐き捨て、俺は呆然自失のミオを抱き寄せた。客の男が自我を取り戻す前に、彼女を逃がすように奥へと促す。
さて、残ったのは秘密を暴露された被害者だ。男が屈辱に顔を歪め、怒鳴り声を上げようと息を吸い込む。その瞬間に被せるよう、俺は至近距離で男の目を覗き込み、低く有無を言わせない声で告げた。
「本日の飲食代は結構です。どうかそのまま、速やかにお引き取りを」
「ふざけるな! 俺の誇りを汚しておいて――」
「……このまま騒ぎを大きくして、他のお客さま方にも、あなたのその『秘密』を詳しく観察していただくことになっても?」
俺が男の頭部へ視線を向けると、彼は弾かれたように口を噤んだ。これ以上ここに留まることが、自身のさらなる社会的死を意味すると理解したようだ。
「……っ、二度と来るか!」
男はズレた金髪を必死に手で押さえながら、逃げるように店を飛び出していった。カラン、とまたベルの音が響きようやく店内には平和が戻る。これで邪魔者は消えた。
嵐のような騒動が一段落し、客の残骸を片付け終えた頃。俺は、厨房の隅で未だ絶句し立ち尽くしているガロンへと向き合った。
俺は「苦労を背負った献身的な夫」の仮面を被り、沈痛な面持ちで声を落として語り始める。
「……ガロンさん、すみません。彼女のあんな醜態を見せてしまって。実は、ミオは幼い頃に重い病を患ってから、極端に足腰が弱いんです」
「足腰……? だからあんなに、あられもなく振り回されちまったのか」
「ええ。本当は外で働くのも医者に止められているんですが、本人がどうしても俺を助けたいと言って聞かないんです。そのせいで時々、ああやって踏ん張りがきかなくなってしまうんですよ」
淀みなく溢れ出すデタラメ。何度も倒れながらも俺を支えようとする「健気なミオ」を想像したのか、ガロンはみるみる涙ぐみ、太い腕で俺の肩を力強く叩いた。やはりミオと同じ匂いがする。
「なんてことだ……。そんな体で、ミオちゃんは必死に頑張ってたんだな。カシム、もう無理はさせるなよ。この店にいる間は俺もしっかり見ててやるからな!」
狙い通り。これでミオが何を言おうと、ガロンには「無理をして強がっている、健気で可憐な奥さん」にしか映らないだろう。
ちょうどそこへ、騒動のショックから立ち直れないまま、魂の抜けたような足取りでミオが向かってきた。
「あの、ガロンさん……本当に申し訳ありませんでした! 私、私……」
ガロンは彼女の肩に優しく手を乗せると力強く宣言する。
「ミオちゃん、全部聞いたぞ!もう、無理して笑わなくていいんだ。お前が転びそうになったら、旦那だけじゃない、この俺もいつでも支えてやるからな!」
ガロンの励ましを聞きながら、俺は彼女にだけ見える角度で、口角を上げた。
ーーさて、ミオはどんな反応をするかな?




