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災いの招き猫、『元』掃除屋に拾われる~不運をすべて引き受けると笑った死神は、今日も私のために料理する~  作者: サハラ


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30:黄金の命綱

「……よしっ」


 私は小さく拳を握り、自分に気合を入れた。

 正直、怖くないと言えば嘘になる。

 けれど、今のままじゃダメだ。いつか彼が私に飽きて、どこかへ消えてしまった時――あるいは、あの夢のように彼がいなくなってしまった時、私は一人で立たなければならない。


「ほら、準備はいい? 俺の奥さん」


 耳元で聞こえる低くて甘い声。腰に回った腕で彼の方へ引き寄せられる。体温が伝わってきて身体がソワソワして落ち着かない。


「……っ、もう、外では離してってば!」


 私は顔を真っ赤にして抗議した。けれど、口では拒否しながらその手は真逆だった。拒否どころか、カシムのシャツを掴んで離せずにいる。


「……? なに、その顔」


「いや?なんでもないよ」


「……まぁいいわ!見てなさい、カシム。私ができる女だって証明してみせるから」


 ――今度こそシャツから手を離して、勢いよく扉を開ける。カランカラン、と乾いた鐘の音が、私の新しい人生の始まりを告げた気がした。



 ーーーーー


「いらっしゃいませ!」


 開店から二時間。店内は昼食を求める港の男たちや旅人で活気に溢れている。私はエプロンの紐を締め直し、テーブルの間を縫うように歩いていた。


『いいか、ミオちゃん。うちは港の男たちがメインだ。細けぇ注文より、まずは早さと威勢の良さ。これさえ外さなきゃあ、連中は機嫌よく酒を流し込んでくれる』


 開店前、店主のガロンさんがその強面を崩して丁寧に店の流れを教えてくれた。

 注文は厨房へ大声で通すこと、空いた皿は溜めずにすぐ下げること。ガロンさんは一見怖そうに見えるけれど、言葉の端々からは良い人オーラが出ている。昨日は忙しくてイライラしていたそうだ。彼は「悪かった」とわざわざ謝ってくれた。


「まぁ、気負わずにやってみな」


 その言葉通り、今のところはかなり順調だ。

 今までなら、これだけ人がいれば躓いたり、あるいは転んだりしたのが私だ。

 けれど、それは過去のこと。

 料理を持っていてもひっくり返さないし、狭い通路ですれ違う客の肘が当たることもない。まるで世界が私を避けて、道を作ってくれているようなーーーこれが全能感っ!


(ぶつからない!躓かない!お皿が飛んでいかない!!)


 厨房の方へ視線を向けると、カシムがガロンさんと何やら話し込みながら、魚を捌いていた。

 カシムは時折こちらを見て、満足げに目を細める。彼の手を借りなくても、私はちゃんとやれている。素晴らしい。このまま社会復帰だ!


「ミオちゃん! すまんが、そこの棚にある予備のカップを、あっちのカウンターに出してくれ!」


 ガロンさんの大きな声に「はい!」と威勢よく答え、私は棚へ向かった。


「……これね」


 手前のカップの取っ手に指をかけ、持ち上げようとした、その時だった。


 ――パキッ。


 私の指先には、陶器の取っ手だけが残っている。本体は、まるで接着剤でテーブルに固定されているみたいに、微動だにせず棚に残ったまま。


「……え?」


 一瞬、思考が停止した。


 気を取り直して、隣のカップに手を伸ばした。今度はもっと慎重に、優しく。


 ――ポロリ。


 触れた瞬間に、もげた。

 力を入れたわけではない。ただ、指先がかすめただけなのに、取っ手は潔く本体から離脱した。


「ちょ、ちょっと待って……」


 偶然だ。二回続けて偶然が重なっただけ。

 私は三つ目のカップの前に立ち、もはや祈るような気持ちで、指先を伸ばした。


 ……パカッ。


 私が取っ手をつかむよりも早く、三つ目の取っ手が静かに、けれど容赦なく床へと転がり落ちた。


「いやいやいや。え?……これ、どうなってんの?」


 私はもはや本体だけになった三つの「湯呑みのようなもの」を凝視した。その時、すぐ後ろから、聞き慣れた低い声が降ってきた。


「手が止まってるよ、ミオ」


 わずかに笑いを含んだカシムの声だ。

 いつの間に後ろにいたのか、振り返ると至近距離に彼の胸元があった。見上げれば、彼は私の手元にある「取っ手のない陶器」を眺め、満足げに目を細めている。


「……カシム。これ、なんか変なの。触っただけで取れちゃうのよ」


「へえ、不思議だね。罅が入ってたんじゃない?」


 カシムはそう言って、私の頭をポンと叩くと、軽やかな足取りで厨房へと戻っていった。


(大丈夫……大丈夫よ。これは、ただの不良品。不運とかじゃない。よくあることよ)


 私は壊れた取っ手をポケットに突っ込み、顔を引き攣らせたまま、新しいカップを探しに足を進めた。

 棚のさらに奥、埃を被りかけていた古いストックの中から、ようやく「取っ手がしっかり付いている」カップを見つけ出し、執念でコーヒーを注いでカウンターへと運ぶ。


「お、お待たせいたしました……」


 ようやく出せた。コーヒーを出すだけで精神的な疲労がすごい。


(取っ手どうしよう……後でガロンさんに謝らないと)


 私は一度深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。

 その時だった。

 カランカラン、とドアのベルが鳴った瞬間、私は条件反射で扉へ向かって声を掛けた。


「いらっしゃいませ!」


 入ってきたのは、見事な金髪をなびかせた若い男。


(わあ、イケメンだ……)


 線の細い整った顔立ち。服装は清潔感があって、万人受けするタイプだ。カシムも顔はいいけれど、彼とは違って、毒のない爽やかさがある。

 男はカウンターへ向かって歩きながら、私にふっと爽やかな笑みを向けた。笑顔が可愛い人だなぁ。


「やあ、新しい子かな? 驚いたな、こんな食堂にキミのような可愛い子がいるなんて」


 ……見た目は文句なしに良い。私だってイケメンは嫌いじゃない。それなのに、その言葉選びや気障な態度がちょっと受け付けない。


 カシムとは何かが違う、軽薄で浮ついた甘ったるさ。私の顔をじろじろと眺めてくる視線に背筋がゾワッとした。愛想笑いが引き攣るのが自分でもわかる。


「……ありがとうございます。ご注文は何になさいますか?」


 私は引き攣りそうな笑顔をなんとか維持して、手元のメモを握りしめた。

 厨房の方から、ガロンさんの「カシム、そっちは上がったか!」という声と、それに応えるカシムの低い声が聞こえる。

 カシムの方を振り返れない。なぜなら視線を感じるからだ。待って、これ視線が刺さるって意味わかんない。でも、確かに後頭部に刺さっている気がする。


 私はなんとかワインの注文を取り、一度厨房へ下がる。カシムが何か言いたげに見ていた気もするけれど、今は無視だ。だって目を見れないから。

 ワインを準備し、再びカウンターへと向かう。慎重に、慎重に。ボトルを傾けようとした、その時だった。


「キミ、本当に可愛いね。今度食事に行こうよ。こんな店じゃなくてもっと君に似合う素敵な場所があるんだ」


 男が身を乗り出し、私の身体に手を伸ばそうとしたた。


(え、やだっ!ほんっとに無理なんだけど!)


「会計してくれ!」


 ガタンッ!と背後から激しく椅子が引かれる音がして、咄嗟にボトルを死守しようと反射的に身体を捻る。けれど、逃げようとした身体が、後ろへ強く引き戻される。


「あ……っ!えっ、わ……っ!?」


 何とか首だけで背後を確認するとエプロンの紐が、椅子の背もたれの角に引っかかっていた。

 無理にねじった体勢のまま、さらに首を捻ったことによりバランスを崩し私の身体は独楽みたいにぐるぐる回る。


 (あ、ヤバい!止まらない……!)


 抗う術もなく、視界が激しく回る。

 遠心力でボトルが手から滑り落ちそうになり、それを防ごうと無理な体勢で踏ん張ったことにより自分の足を自分で引っ掛けてしまった。

 私の身体は重力に引かれ、身を乗り出していた男の方へと倒れ込む。


(目が回る!カシムっ!誰か――!)


 私は何とか支えになるものを掴もうと必死に空中に手を伸ばした。

 指先に何かが触れる。私は掴んだその()()を離すまいと、渾身の力で握りしめ、最後の力を振り絞って踏ん張った。


 グッ、と力を込めた直後、支えは呆気なく消失した。


「え――」


 手応えを失った私は、自分の手にした支えを握りしめたまま、派手にお尻を強打した。


「痛たた……」


 床へと尻餅をついた衝撃と回る視界で頭がクラクラする。

 こんなに派手に転んだのはいつぶりだっけ?派手に転んだ恥ずかしさと気まずさで現実逃避したくなった。


 …………

 ……

 ……静寂。それはもう圧倒的なやつ。せめて笑ってくれた方がまだ助かるのに。

 痛むお尻をさすりながら、私は握りしめた自分の命綱だったものを確認した。


「……!?」


 恐る恐る顔を上げると、そこには寂しくなった頭頂部を晒し、口をパクパクさせて固まっている「爽やか系イケメン」の姿があった。


 手の中の金色の塊。目の前の剥き出しになった地肌。


(あああああやっちゃった! ! 私、この人の尊厳をごっそり取っちゃった! 違うの、これは不可抗力で、エプロンの紐が、足が絡まって……いや言い訳なんて通用しない! 誰か時間を巻き戻して! )


 私は、このイケメン()の、絶対に触れてはいけなかった秘密を、よりにもよって衆人環視の中で晒してしまったのだ。

 これ、私の不運かな!?それとも、この人が不運の神様に愛されてない!?どっちなの!?


 店内の誰もが、石化している。

 当然だ。私だって動けない。

 時間が止まったように誰もが動きを止める中。

 ――厨房の方から「カラン」と、乾いた音が虚しく響いた。

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