29:やっぱり始末しておけばよかった
違和感、異変、予兆―――そんなものを薄々感じていた。彼女は普段、なんてことない様子を見せていたが、時折暗闇を怯えた目で見る。この街へ向かう馬車の中でもそうだった。本人は隠していたつもりだろうが指先が微かに震えていた。ただそれが臨界点を超えて噴出したのはリマングスタに到着した最初の夜のことだ。
宿屋の主人が案内したのは、またもやベッドがひとつの部屋だ。ミオは「またなの!?」と顔を真っ赤にして抵抗していたが、結局、長時間の移動の疲れと、俺の「新婚夫婦なんだよ?」という圧に押し切られて、同じベッドに潜り込むことになった。
ミオの体温が、すぐ隣にある。
川で拾った時とは違う、柔らかくて、温かなぬくもり。
俺は、寝る気にもならず隣で眠りにつくミオの寝息を数えていた。この腕の中に、誰にも触れさせたくないほど大事な女がいる。その充足感で満ち足りていた。
だが、深夜。
その静寂は、ミオの細い呼吸の乱れによって破られた。
「……っ、やだ……っ、カシム……!」
うなされていた。
夢の中で、彼女は何かを強く拒絶している。
周囲に人の気配はなく、毒や呪いではない。だが、ミオの呼吸が苦しげに乱れ、彼女の手が宙を掻いている。
「ミオ、起きろ」
俺は慌てて彼女の肩を掴み、揺さぶった。
いつもなら「仕方ないな」と余裕を演じる俺も、この時ばかりは少し焦った。彼女がこれほど追い詰められた表情をするのは、さすがに想定外だったからだ。
「……っ!?」
大きく目を見開き、ミオが弾かれたように跳ね起きる。
その瞳には、恐怖が色濃く滲んでいた。涙が、寝汗で濡れた頬を伝って落ちる。彼女は俺の顔を確認すると、喉が引き攣ったような声を上げて、俺の胸元に飛び込んできた。
「……ううっ、ああ……っ!」
「ミオ? 何を見たの」
彼女は何も答えない。ただ、全身を震わせて俺に縋り付いてくる。
彼女の脳裏に焼き付いているのは、恐らく攫われた時の記憶だ。彼女はあの夜からここまで酷くないものの度々魘されている。今思い出しても忌々しい一夜の出来事。
彼女が攫われ、俺がそれを追いかけ、そして――。
「……俺が死ぬ夢、か?」
小さな身体が、びくりと跳ねた。
図星か。自分を助けようとした男が、目の前で命を散らす。そんな夢を見たのだと、彼女の震えが伝えてくる。
その光景を、彼女は……この臆病で優しいお嬢さんは、恐れているらしい。
かつての俺なら……いや、今だって彼女以外の誰かなら夢ごときで泣くなんてと鼻で笑っていただろう。死は仕事の一部であり、俺自身の終わりも遠いようでいて、常に手の届く場所にあると思っているからだ。
だが、今は違った。
「あはは。……バカだな、ミオは」
俺は彼女の背中を、乱暴に、しかしできるだけ優しく撫でた。
俺は死なない。死にたくない、などという馬鹿げた感傷ではない。俺がこの手で彼女を拾い、手懐け、ここまで連れてきたのだ。そんな簡単に死ぬほど、俺の命は安くない。
「俺は死なないよ。……ミオが何処へ行こうとも必ず迎えに行くし、川でもどこでも一緒に落ちていくから」
ミオは俺の胸に顔を埋めたまま、嗚咽を漏らしている。
この温もりを、俺が離すはずがないだろう。
やがて、嗚咽が小さくなり荒い呼吸が規則的なものへと変わっていった。
翌朝になれば、彼女はこの夢のことなんて忘れたふりをして、また俺に食ってかかるだろう。
だが、それでいい。
彼女の負けず嫌いで、可愛いわがままを囀る日常が何より優先される。
俺は彼女をまた腕に閉じ込め、暗闇の中で静かに微笑んだ。今度はいい夢を。
この日からミオをひとりで眠らせるわけにはいかなくなった。
カーテンから漏れる朝日と海鳥の鳴き声に、徐々に意識が覚醒していく。腕の中にはまだ気持ちよさそうに眠る彼女がいる。このままふたりで寝てしまいたいが、ミオのことだ、初日から遅刻なんてしたらうるさいだろう。
「ミオ。……起きて、仕事行くなら準備しないと」
ゆっくりと目を覚ましたミオが、寝惚け眼で俺のシャツを握りしめている自分の指先の方へ視線を送った。
「……おはよう、ミオ」
俺が再び声をかけると、彼女は「うわっ!」と小さく跳ねて、身を引こうとする。相変わらず、初心な反応をする彼女を揶揄いたくなる。離れようとするミオを腕の中に閉じ込める。
「その反応は酷いなあ。……ミオから俺のシャツを掴んで離さなかったのに」
ニヤニヤと笑みを浮かべると彼女はみるみる頬を赤く染める。耳まで真っ赤になった彼女を一頻り堪能すると俺は腕を緩めベッドから立ち上がった。
「早く起きないと遅刻するよ。大事な仕事の初日でしょ?」
「……っ、誰のせいよ!?」
キッチンに向かった俺は手早く朝食の用意をする。買っておいたパンと果物。あとはミオが好みそうなハーブティー。俺の家事能力はここ数ヶ月で無駄に洗練されてしまった。味も材料も彼女の好みに合うかどうかが今の判断基準だ。
着替えを済ませ部屋から出てきたミオはまだ耳の端が赤いものの気持ちを切り替えたのか、いつもの強気な彼女に戻っていた。視線は俺の顔と胸元を行ったり来たりしているが。本当に揶揄いがいのあるお嬢さんだ。
「――お待たせっ。ご飯ありがとう、いただきます!」
「はいはい。……急いで食べると喉に詰まらせるよ?」
俺はコーヒーカップを傾けながら、頬を膨らませてパンを頬張るミオを眺めた。食欲はあるらしい。
「もしかして緊張してる?昨日はあんなに張り切ってたのに」
ヘラヘラ笑いながらミオの様子を観察する。彼女は変なところで強がるクセがある。もっと俺に依存して家から出なくなれば簡単なのにと昏い考えが頭を過る。
「……別に緊張なんてしてないわよ。ただ、この世界の食堂がどんなシステムなのか不安なだけ」
分かりやすい強がりを言いながら、彼女はハーブティーを一口含んで息を吐いた。
「システムねぇ。……基本は『注文を聞く』『料理を運ぶ』『金を回収する』。それだけだろ?まさか、皿を店主に向かって飛ばすのもミオの世界のシステムなの?野蛮すぎない?」
俺がコーヒーカップを傾けながらニヤリと笑うと、ミオが勢いよくハーブティーを噴き出しそうになった。
「……ぶっっ、げほっ! ごほっ!な、なんで今それを言うのよ!」
彼女は咳き込みながら真っ赤になって俺を睨みつける。
ミオはニホンとかいう国でとんでもない武勇伝を残してきたらしい。皿を宙に舞わせ、激辛料理で常連客の鼻詰まりを治す……。不運というより、もはや呪いに近い。
「心配でね。愛しい妻が今度は店を消し炭にしたりしないかと」
「……ううっ。あの時は、色々と……タイミングが悪かったのよ!」
「タイミング? 店主の頭を狙うのが?……やっぱり恨みでもあったの?」
俺は笑いながら、肩をすくめてみせる。彼女の過去の災難劇は、何度聞いても飽きない。
「もう! いちいち蒸し返さないで! 今の私は違うんだから。熱と一緒に不運もどっかにいったのよ!」
「はいはい。頼もしいことだね」
彼女は相変わらず、不運は卒業したと思っているようでなによりだ。
「まあ、安心しなよ。俺も一緒に働くんだから。……愛しい妻を、不慣れな場所に一人で放り込めるわけないでしょ?」
「……っ、演技だってわかってるけど、それ、恥ずかしいからやめてってば」
ミオは顔を背けながらも、どこか嬉しそうに俯いた。
演技――?
俺は内心でクスリと笑う。本当にそう思っているのか、それとも思い込もうとしているのか。もどかしい距離感だが、ミオが自分で気付くまでもう少しだけ待っててあげるよ。今はまだね。
その後、賑やかに朝食を済ませた俺たちは家を出た。
朝の爽やかな空気が、彼女の揺れ動く感情を少しずつ平穏へと変えていくのがわかる。
「ほら、準備はいい? 俺の奥さん」
店先で、俺は彼女の腰に手を回した。ミオは「もう、外では離してってば!」と赤くなって抗議するが、その指先は俺のシャツをしっかり掴んだままだ。
……外では、ねぇ?そんな言い方したら、逆に家なら良いって事になると思うんだけど彼女はちゃんと気付いてるのかね。
そんなことはおくびにも出さず、俺と彼女は『潮風の亭』の扉を開ける。




