33:やれば出来る子……のはず
「ほら、口を開けて。熱いから気をつけてね」
カシムが、慈愛の微笑みを浮かべて、木製のスプーンを私の口元に差し出してくる。この男、絶対面白がってる。
「あ、あの! カシム、自分で食べられるから。その……あ、足はアレだけど、手は元気だから!」
私は必死にスプーンを奪い取ろうとしたけれど、カシムはそれを鮮やかによけると、私の唇にそっとスプーンの端を押し当てた。
「ダメだよ、ミオ。もし急に力が入らなくなって、ガロンさんが丹精込めて作ってくれたスープをこぼしたらどうするんだ? せっかくの厚意を台無しにするつもりかい?」
「うっ……それは……」
「そうだぞミオちゃん、遠慮はいらねぇ! カシム、しっかり食わせてやってくれ。俺はあっちの片付けをやってるからな」
ガロンさんはそう言い残すと、気を利かせたつもりなのか、少し離れたカウンターの掃除へと向かった。ガロンさん、行かないで! 今はふたりきりにしないで……。
店内に響く、ガロンさんが皿を片付ける規則的な音。その遠さが、カシムの至近距離からの圧をより一層強く感じさせる。
「さあ、ミオ。どうぞ?」
カシムが丁寧にフーフーと冷まして、赤ん坊に食べさせるような手つきで運んでくる。私は観念して、小さく口を開けてそれを受け入れた。
……おいしい。ガロンさんの作ったスープは、野菜の甘みが溶け込んでいて優しい味がする、と思う。けれど、カシムが口元を凝視していて、味が半分も分からない。普通に食べたかった。
「おいしい? 」
「……おいしいです」
甘やかすような声。ガロンさんからは「妻を慈しむ夫」にしか見えないだろうけれど、私にはわかる。これは介抱という名の、悪ふざけだ。結局、私は最後のひとくちまでスプーンを握らせてもらえないまま、カシムに食べさせられた。
「よし、今日はもう店を閉めるから、二人でゆっくり帰りな。ミオちゃん、無理して歩くんじゃないぞ!」
ガロンさんの温かい見送りに、私は罪悪感で胸を痛めながら店を後にした。……あ、取っ手のこと忘れてた。重ね重ね申し訳ない。ガロンさんには明日、心を込めて謝ろう。
夜の帳が下りた帰り道。人通りの少ない住宅街で、カシムは「足腰が弱いんだから」という建前を盾に、必要以上に身体を寄せてくる。
最近、手を繋ぐことには少しずつ慣れてきた。けれど、こうして腰を抱かれ、肩がぶつかるほどの距離で歩くのは、心臓に悪い。
「……あの、カシム。もう人目もないし、離れてもいいんじゃない?」
「ダメだよ。もしまた急に足がもつれて転んだらどうするの? ちゃんと俺が支えてあげないと」
そう言ってニヤリと悪い顔をするカシム。店とは大違いだ。店では、というか人がいるところではこの男かなり外面がいい。ギャップが酷い。今更だが。
そんな彼の二面性を思い返しているうちに、ふと、私は今日の騒動に妙な違和感を覚えた。
……そういえば。
今日は、ここしばらく鳴りを潜めていたはずの「不運」が、立て続けに起こった気がする。
エプロンの紐が椅子に引っかかるタイミングも、あんなに派手な回転をしたのも。そもそも、取っ手ってあんなにピンポイントで取れるもの? あのカツラを掴んでしまったのも、本当にただの偶然?
(いや、待って。あれは私の不運じゃなくて、あのお客さん自身の不運に私が巻き込まれただけ……よね?)
考えれば考えるほど、ドツボにハマるような気がする。やめよう。これ以上は危険だ。
隣で私の腰を抱き、満足げに夜道を歩くカシムを見上げながら、私は懸命に「ただの偶然」だと自分を納得させようとした。
帰宅すると早々にカシムは、私の内心を知ってか知らずか、甲斐甲斐しくお風呂の準備を済ませ、夕食の用意もしてくれる。今日もむちゃくちゃ美味しかった。
設定上だけとはいえ、これではどちらが新妻か分からない働きぶりだ。カシムの家事力が留まるところを知らない。このままでは何も出来ない子になるまで秒読みな気がする。
私が食事をしている間に「先に済ませてくるよ」と短時間で入浴を終えたカシムと入れ替わりで、私は浴室へと向かった。
(……とりあえず、温かいお湯に浸かって落ち着こう。考えすぎよ、全部たまたま。そう、家事も……私だってやれば出来るはず)
自分に言い聞かせ、たっぷりのお湯で一日の疲れを洗い流す。湯船に浸かって少しだけ冷静さを取り戻し、私はパジャマ代わりのワンピースに着替えてリビングへ戻った。
よし、明日は今日みたいな失態をしないように、ガロンさんにしっかり謝って、配膳のルートを頭の中で予習しておこう。そうやって前向きに考えようとした私だったけれど、リビングへ一歩足を踏み入れた瞬間、その甘い考えは打ち砕かれる。お風呂上がりのリラックスタイム、一瞬で終了のお知らせだ。
そこにいたのは、すでに寝支度を整え、ソファに深く腰掛けたカシムだった。
お風呂上がり特有の熱を帯びた銀髪が、少しだけ湿って月明かりに光っている。
彼は私が戻ってくるのを静かに、けれど「逃がさない」という確固たる意志をその瞳に宿して待っていた。
……明日の予習どころか、今夜を無事に生き抜くので精一杯になりそうだ。
(私が何したっていうのよ!?)




