3:『手続き』は穏便に
絶望に震える私の背後で、再びドアが開く音がした。
「……あ、もう窓まで行けたんだ。意外と元気だねぇ」
戻ってきたカシムの手には、湯気の立つボウルが載ったトレイがあった。
私は窓枠を指差したまま、震える声で彼に詰め寄った。
「ねぇ……あの月、なんなの。なんで二つあるのよ。あんなの、私の知ってる空じゃない!」
「なんなのって言われても。月は赤いのと青いのが一つずつ。昔からそう決まってるだろ? ……もしかして、君のいた場所には一つしかなかったのかい?」
カシムは心底不思議そうに首を傾げた。その、あまりにも当たり前だと言わんばかりの反応に、身体が氷みたいに冷たく固くなった。これは、夢じゃない。そして、私の知っている場所ですらない。
「……日本じゃないのね。地球ですらない。私、本当に異世界に来ちゃったんだ……」
「イセカイ? まぁ、君の言葉で言うならそうなるのかな。俺たちはここを『グラン・アステラ』と呼んでるけど。……ほら、座りなよ。スープ、冷めちゃうよ」
促されるまま、私はよろよろと椅子に座った。
出されたのは、見たこともない紫色の野菜が浮いているスープ。毒々しい色に一瞬怯んだが、一口飲むと、意外にも優しいコンソメのような味がした。
(……いや、落ち着け私。まだワンチャンある。GPSとか、電波さえ入れば現在地が……!)
私はすがるような思いで、枕元に置いてあった鞄をひったくった。中から取り出したのは、私の相棒、愛用のスマホ。
「お願い、動いて……!」
必死に電源ボタンを長押しする。だが、バックライトが灯ることはなかった。何度も、何度も、指が痛くなるほど押し続けても、画面は黒いままだ。いつまで待ってもリンゴのマークは出てこない。
「あ……そういえば、川に落ちたんだっけ……」
充電器もない、電波もない、そもそも電源すら入らないスマホの死骸。
この瞬間、私の唯一の希望――世界と繋がっていた「生命線」が、完全に断たれたことを理解した。文明の利器が………。
落ち込んだ心のままにスマホを抱えて机に突っ伏す。
「……ねぇ、カシム。あんた、何者なの。その傷、絶対ただの怪我じゃないでしょ。古いのから新しいのまでよりどりみどりじゃない」
机に突っ伏したままの私の問いに、カシムはナイフでまたリンゴを剥きながら、思い出したように口を開いた。
「俺? ああ、言ってなかったっけ。俺さ、つい最近まで『掃除屋』をやってたんだよね。でも飽きちゃったから、職場ごと全部ブッ壊して辞めてきた」
「……そうじや?」
「そう。でも後腐れが嫌だったからさ、上司から新入りまで一人残らず『退職手続き』してあげたよ。その時のお土産かな、この傷は」
そう言って彼は、今日の天気を話すような軽い調子でまだ新しい傷跡を指差す。
「ま、その分、退職金代わりにあるだけ貰ってきたけどね。金庫の中にあった金も、高そうな宝石も、全部。……あいつら、もう使わないだろ?」
掃除屋。職場を壊滅。一人残らず退職手続き。おまけに身ぐるみ剥いで略奪。
……お願いだから、比喩表現であってほしい。ブラック企業の備品を全部叩き壊して、上司に辞表を叩きつけてきた、とかそういうワイルドなやつ希望。
「…あれ?…引いた? 引いちゃったかな。でも大丈夫、今はただの無職だからさ。君の看病くらいしかやることないし」
そう言って、彼はまたヘラヘラと、嘘くさいほどに明るい笑顔を浮かべた。
だが、その瞳だけはやっぱり笑っていない。
……うん、知ってた。そのままの意味だよね、これ。
暗殺者(仮)が組織を皆殺しにしてきたってことだよね!完全に死神じゃん!物騒すぎるわ!
(不運にも程がある! 今までの人生の不運なんて、これに比べたらお遊びみたいなもんだったわよ……!!)
「ま、そんな俺を関連の組織が放っておくはずもないから、死んだことにして今はここで隠居中ってわけ。……そして、君も今のままだと俺と同じ、いや、それ以上に悲惨な『手続き』をされる運命にあるよ、ミオ」
「……どういうこと?」
「君みたいな『天人』はね、この世界じゃ『生きた叡智の書』なんだよ。文字が読めて、計算ができて、この世界にはない知識を持っている。それだけで、国を一つ傾けられるほどの価値がある」
カシムの銀色の瞳が、怖いほど真剣に私を射抜く。
「国に見つかれば最後。君は豪華な城の奥に囲われて、死ぬまでその知識を絞り取られることになる。……もちろん、自由なんて言葉はそこにはない」
「知識って言っても、私、ただの女子高生よ!? 数学だって赤点ギリギリだし、特別なことなんて……!」
「…君が天人。それだけで、ここでは『選ばれた人間』なんだよ。君自身が何者でも、ここでは関係ないんだ」
……あ、終わった。
私の不運は、まだ底を打っていなかったらしい。
絶望の上書き。
スマホは死に、帰り道は分からず、隣にいるのは職場を殲滅してきた暗殺者(仮)。そして自分は、国から指名手配のレアポケ〇ン扱い。…え、嘘でしょ…待て待て。ちょっと待って。不穏要素全部乗せの欲張りセットじゃん!ハッピーセットどこよ!?
「……俺が隠してやるよ、お嬢さん」
カシムが私の髪を、壊れ物を扱うような、優しい手つきで、ゆっくりと撫でた。
「君を国に売れば一生遊んで暮らせる褒美が出るけど、今の俺は金より『退屈しのぎ』が欲しくてね。どうだい、俺の飼い猫になってみる気はある? 外の世界は、俺よりもっと恐ろしい連中が、よだれを垂らして君を探してるよ」
誰かドッキリ大成功のプラカード持ってきて!今ならまだ一発殴るだけで許すから!
「…………ねぇ、カシム」
「ん?」
「私、今すぐどんぶらこしてきた川に飛び込み直してきてもいいかな?」
「あはは! いいね、その感じ。……でもダメだよ。せっかく拾った『退屈しのぎ』なんだ。死なれるのは困る」
カシムは私の髪をまた一度、今度は乱暴に撫でた。
その仕草はどこまでも軽いのに、そこから逃げ出す術を、私は何一つ持っていなかった。
不信感しかない提案。普通なら絶対受け入れるはずがない。
けれど、窓の外に浮かぶ赤い月と、目の前にいる銀色の瞳を見れば、私には最初から一つも、選べる道なんて残されていなかった。
私の前世どんな悪行積んだのよ!疫病神でも殴ったのか!? バッカじゃないの!?
「……拒否権、ないんでしょ」
叫ぶ元気もなく私は項垂れるように分かりきった質問をする。
「あはは! 正解。物分かりが良くて助かるよ。やっぱり天人は賢いねぇ」
………デスヨネ。……褒められても嬉しくないわ。
私は椅子に座ったまま、魂が抜けたように動けなくなっていた。
窓の外に浮かぶふたつの月を眺めているうちに、視界がじわじわと滲んでくる。
「……あーあ、泣いちゃった。やっぱり天人って言っても、中身はただの子供だねぇ」
カシムが呆れたような、けれどどこか楽しそうな声を出す。
言い返す元気もなかった。ただ、溢れそうになる涙を堪えて俯く私の視界に、彼の手元で剥かれたリンゴの欠片が差し出された。
「ほら、食いなよ。泣いてると腹減るぞ」
「……いらない。もう、全部やだ」
蚊の鳴くような声で零すと、カシムは「はいはい、わかったから」と短く応じ、ナイフを鞘に収めた。
次の瞬間、ふわりと体が浮き上がる感覚がした。
「……えっ?」
「そのままここで寝られると、明日の朝に体がバキバキになって、また俺が看病する羽目になるだろ。それは流石に面倒なんだよね」
カシムは私の体を、まるでお気に入りのクッションでも運ぶような軽々とした手つきで横抱きにした。いわゆるお姫様抱っこ、というやつだろうけれど、そこに甘いムードなんて欠片もなかった。
彼の腕は、細身な見た目からは想像できないほど硬く、体温もどこか人肌より冷たい気がした。
「……下ろして。自分で歩けるから」
「嘘ばっかり。膝、ガクガクだよ?」
彼は笑いながら、私をベッドへと運ぶ。抵抗する気力も湧かず、私はただ彼の肩越しに、部屋の景色を眺めていた。
カシムは私をシーツの上に下ろすと、手際よく毛布を肩まで掛けた。
「おやすみ、お嬢さん。……大丈夫だよ、国に見つかるまでは、ここが世界で一番安全な場所だからさ」
その言葉が、彼自身の過去を含めた皮肉なのか、それとも純粋な守護の約束なのかはわからなかった。
私はただ、彼が部屋から去っていく音を聞きながら、いつの間にか深い泥のような眠りに落ちていた。
……いや、でもね。せめてスマホの充電くらい、この世界の魔法(?)とかでなんとかならない!?
魔法あるかどうか知らないけどね!




