2:死神はヘラヘラと笑う
「……あーあ、暇すぎて死ねるな」
誰かを殺すことにも、誰かに狙われることにも飽き飽きしていた。
かつては誰かの息の根を止めるタイミングを計っていた指先が、今ではただ、手持ち無沙汰にナイフでリンゴの皮を剥くだけ。
所属していた組織を壊滅させ、返り血を浴びた服を焼き捨ててから、およそ一ヶ月。潰した理由は何か劇的なきっかけがあった訳じゃない。ただ、そろそろ潮時だなってふと思い立っただけだ。
その時の脇腹を深く抉っていた傷は、今では赤黒い不恰好な痕を残して塞がろうとしている。人里から少し離れたこの森の隠れ家で、俺は文字通り「死んだように」生きていた。
だが、運命という奴は、退屈した俺を誘うように「それ」を流してきた。
暇に飽かせて何となく、川辺へ向かった時、上流から妙に大きな塊が流れてきた。
最初は、どこかの馬鹿が落ちたか、あるいは誰かが捨てた死体袋だと思った。
だが、岸辺の岩に引っかかった「それ」を気まぐれに引き揚げた瞬間、俺の心臓が、まるで他人のもののように跳ねた。
「……は?」
そこにいたのは、見たこともない奇妙な衣服に身を包んだ、一人の娘だった。
肌は抜けるように白く、濡れて張り付いた黒髪が、死人のような青白い頬を縁取っている。
普通なら、迷わず放置しただろう。関われば面倒なことになるのは火を見るより明らかだ。
けれど、動けなかった。
背を向け見捨てようとしたが、足が地面に縫い付けられたみたいに動かない。
心臓の鼓動が、うるさいほどに耳元で鳴り響く。
数多の修羅場を潜り抜けても一度も乱れなかった俺の指先が、その娘の呼吸を確認しようとした時、わずかに震えていた。
(……なんだ、これ。毒か? 呪いか?)
自分でも理解できない衝動に突き動かされ、俺は彼女を抱き上げた。
驚くほど軽くて、そして――消えてしまいそうなほど、儚い熱。
それからの数日間は、我ながら滑稽なほど必死だった。
ずぶ濡れになった服を脱がせ、泥と血を拭い、俺の予備のシャツを着せた。
意識のない彼女の口に、無理やり滋養剤を流し込む。
時折、うなされる彼女の頭を撫でていると、不思議と俺の傷の疼きまで和らぐような気がした。
「……起きてよ、お嬢さん。このまま死なれたら、俺の努力が水の泡じゃない」
殺すために使ってきた俺の手を、初めて「生かすため」に使った。
そんな自分に吐き気がするほど嫌気がさしながらも、俺は彼女の枕元を離れることができなかった。
そして三日が過ぎた頃。
夕陽が差し込む部屋で、その長い睫毛が、ようやく微かに震えた。
その奥から現れたのは、磨き上げられた黒曜石のような瞳だった。
「……酒樽? 私、そんなに丸まって流れてたわけ?てか、あんた誰?隠れ家って何」
私は思わずカサカサに乾いた声で疑問を次々にぶつけた。
酒樽。よりによって酒樽。せめて溺れる美女とか、もう少しマシな例えはなかったのだろうか。そこまで丸くないわ。
「質問責めだなぁ。ま、命の恩人に向かって『あんた』はひどいけど。俺はカシム。ここは人里離れた……そうだね、『隠居先』って呼んでる場所だよ」
男は――カシムは、剥き終わったリンゴの一片をナイフの先に刺し、ひょいと自分の口に放り込んだ。サクリ、と小気味いい音が部屋に響く。……てか、リンゴ自分が食べるんかい。いや、要らないけども。結局ここがどこかも分からないし。
改めて彼を観察する。
年の頃は二十代半ばくらい。整った顔立ちには常に薄ら笑いが張り付いていて、銀色の瞳は楽しげに細められている。だが、その瞳の奥には、ガラス玉みたいな空虚さがあった。名前も顔立ちも、少なくとも日本人ではないことは確定。……全てが怪しすぎる。
カシムは椅子をガタリと鳴らして立ち上がると、私の枕元まで歩み寄ってきた。
間近で見ると、彼の首筋や手の甲には、無数の傷がある。古いものから比較的新しいものまで。それも、転んで作ったようなものではない。鋭利な刃物で切り裂かれたような、あるいは何かに貫かれたような――。それらが、この男の「堅気じゃない感」をこれでもかと主張していた。
(……隠居先って、その若さで? つまり……ニート?てか、どんな過酷な人生送ったらそんな傷だらけになるのよ。そもそもなんで病院じゃないの)
様々な疑問が浮かんでは、音にならずに消えていく。何から聞けばいいのか聞きたいことがありすぎる。
そこで私は、自分の身体に違和感を覚えて視線を落とした。
……あ。
「………………ちょっと待って。なに、これ」
自分の腕を見る。着ていたはずの、お気に入りのブラウスじゃない。
袖が余りすぎて指先さえ見えない、白くてシンプルな――明らかに男性用のシャツだ。
……しかも、毛布で見えないけれど恐らく下半身に至っては何も穿いていない。シャツの裾が太もものあたりまで隠しているだけ。生足がスースーして落ち着かないどころの騒ぎじゃない。
「あ、それ? 俺の着替え。君の服、泥と血でドロドロだったからさ。そのままベッドに転がしとくわけにもいかないでしょ? 汚れるし」
カシムは事も無げに言って、またリンゴを齧った。
「……着替え、させたの?」
「うん。他に誰かいると思った? ここ、俺しか住んでないよ。三日間、ずっと俺がお世話してあげてたんだから、感謝してほしいくらいだね」
「…………」
三日間。お世話。着替え。
………えっ…?私の乙女的尊厳が、起きて早々に大崩落を起こした音がした。
「ああ、安心しなよ。死体みたいな顔した女の子の着替えなんて、作業以外の何物でもなかったから。……ま、意外と肌が白くて綺麗だなーとは思ったけど。あと、あの胸当て? あれ外すの構造が複雑で苦労したよ」
「外すな! 構造を理解しようとするな! 変態! デリカシー皆無! 訴えてやる、最低!!」
私は余りまくった袖を振り回しながら、精一杯の力でシーツを胸元まで引き上げた。
身体が鉛のように重いのは、数日間寝込んでいたせいか、それともこの最悪すぎる現実のせいか。
「あはは! 本当に面白いね、君。……でもね、その服は捨ててないから。洗って乾かしてあるよ。あ、その……胸当て?だったっけ。あれ、紐が一本切れてたけど、不運だねぇ」
「不運のレベルを超えてるんだよ! セクハラどころの騒ぎじゃないわよ、このド変態!!」
「おっと、厳しいなぁ。でもさ、お嬢さん――君も相当『ただ事じゃない』よ?」
カシムの低い声につられるように部屋の空気が重くなる。
彼は私の枕元に膝をつき、私の髪をゆっくりと、慈しむように撫でた。その仕草はあまりに丁寧で、まるで壊れやすい宝物でも扱っているかのよう。
「君さ、名前は?」
「……天野、澪」
「……あまの、みお。……へぇ、もしかして君、噂に聞く『天人』ってやつ?」
「あまと……? なにそれ。天野なら、私の苗字だけど」
カシムは私の反応を見て、ふむ、と楽しげに顎を撫でた。
どうやら私が自分の名前を言っているだけだと察したらしいが、その瞳の奥には、獲物を値踏みするような光が宿っていた。
「名前じゃなくて、存在の呼び名だよ。何十年かに一度、空の向こうから落ちてくる『客人』のことさ。……まあ、俺も実物を見るのは初めてだけどね。……なるほど、これは高く売れそうだ」
「売……っ!? 何言ってんの? 誘拐? 人身売買!?」
「あはは、冗談だよ。冗談。……たぶんね」
カシムは空になった皿を持って立ち上がった。
「ちょっと! 冗談になってないんだけど!?」
彼は立ち止まり、背中越しにこちらを振り返った。
その瞬間、窓から差し込んだ夕陽が彼の瞳を真っ赤に染めた。
「すぐ戻るから少し待ってて、お嬢さん」
そう言い残して、ドアが静かに閉まる。……たぶんって言った!絶対言った!!
部屋に残されたのは、私と、沈みかけた夕陽が作る長い影だけ。
「……なんなのよ、あの男」
私はベッドに深く沈み込んだ。
頭が重い。でも、それ以上に心がざわついている。
カシムという男の不気味さもそうだが、彼が言った「天人」という言葉が、不吉な予兆のように胸にこびりついて離れない。
(……とにかく、まずは状況把握よ)
私は重い身体を無理やり引きずり窓枠に手をかける。外の景色を眺めた瞬間――私は息を呑んだ。
「…………嘘でしょ」
目に飛び込んできたのは、見慣れた街のビル群でも、歩道橋のある住宅街でもなかった。
どこまでも続く深い、昏い森。
その先に霞んで見えるのは、二つの月が並び始めた夕暮れの空だった。
「……日本じゃない。っていうか、地球ですら……ない?」
膝の力が抜け、その場にへたり込む。
……いやいやいやいや。……まさかまさか、ソンナコトアリエル?
あの日、あの歩道橋から落ちた瞬間、私はどうやら三途の川ではなく「次元の壁」を突き抜けてしまったらしい。
(最悪……。私、本当に、とんでもない不運を引いちゃったみたい……)
異世界。ラノベやアニメで散々使い古された概念。
でも、実際にそこへ放り込まれて分かるのは、チート能力への期待感なんかじゃない。
「トイレどうしよう」「シャワー浴びたい」「帰りたい」という、地を這うような切実な絶望だけだった。……生きててラッキーで済む問題を通り越してるんだけど。
絶望に震える私の背後で、再びドアが開く音がした。




