1:不幸の致死量
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「……ん、……う……」
まどろみの中から、少しずつ意識が覚醒していく。
重たい瞼を押し上げようとするが、粘着質な眠気がそれを邪魔した。まだ寝ていたい。意識が浮上しては、また暗い海の底へと沈んでいくような感覚。
あれから、どれくらい寝ていたのだろう。
遠くの方で、誰かの声が聞こえた気がする。けれど、鉛のように重い身体が、まるで重りのように私の意識を深く深く沈めていくのだ。
頭の中の冷静な一部が「起きろ」と警報を鳴らしている。だが、無理だ。抗えない。
それからも何度か、あやふやな意識の中で、誰かの低い声と、私の頭を優しく撫でる大きな手を感じていた。
(……おやすみなさい……)
そんな断続的な微睡みを繰り返し、幾日か経った頃。
私はようやく、焦点の合わない視界で「それ」を捉えていた。
「…………何、アレ。……シミ?」
天井。木目の中に、妙に主張の激しい大きなシミがある。
なぜ私は、こんな見ず知らずの部屋で天井のシミを眺めているのだろうか。
思考の霧が晴れてくるにつれ、嫌な記憶が鮮明に蘇ってくる。分かっていることは二つ。私は確かにあの時、死んだはずだということ。そして――盛大に失恋したということだ。
思い返せば、昔から私は微妙に運が悪かった。
限定品は私の前で売り切れる。
何もない平坦な道で躓く。
駅の階段はよく踏み外す。
人数分用意されたはずの授業プリントは、なぜか私の分だけ足りない。
スマホは謎の電波障害で通信不全になり故障。
その他にも、あらゆる「小さい不幸」が日常茶飯事だった。
ただ、取り返しのつかない大惨事や、命に関わる大怪我には至らない。この絶妙に中途半端な不運っぷりは、友人曰く「ある種の才能」だそうだ。誰が嬉しいんだ、そんな才能。
――閑話休題。
私はあの日、死んだのだ。いや、正確には「あの状態で助かるはずがない」状況だった。
その日はクリスマス。
同じクラスの片想い相手――通称「癒し系王子」の彼に、勇気を出して告白しようと、私は人生最大級に気合を入れて準備していた。
彼は毎回、ツイてない私を優しい笑顔で、嫌な顔一つせずフォローしてくれる素敵な人だった。
この日のためにバイト代を叩いて用意したクリスマスプレゼントのブレスレット。それを鞄に入れたか三回確認して、私は家を出た。
……今となっては、なんであんな奴のためにプレゼントなんて用意したのか。あの時の自分に戻れたら、回し蹴りでも食らわして止めてやりたい。無理だけれど。
待ち合わせ場所の歩道橋に向かうと、彼は一足先に到着していた。
私の乙女心は、馬鹿なことに彼を驚かせたくて、後ろを向く彼にこっそり近づいたのだ。
本当に馬鹿だ。そんなこと、しなければ良かったのに。
こっそり近づくにつれ、彼が電話中であることに気づいた。そして、聞こえてきたのは聞き慣れたはずの、けれど全く知らない「声」だった。
『……まぁね。てか、これからアイツと会うんだわ。そーそー、デート。アイツ、顔は良いんだけど運ないじゃん? ウケる。連れ歩く分にはいいけど、付き合うのはちょっとねー。セフレならまだしも、こっちまで運下がりそうだし、ないわー』
……え、誰のこと?
『いっつもクソめんどくせぇフォローやってやってんだから、一発くらいやらせろっての。まぁ今日あたり押せばいけるかもな。誘ったら犬みたいに尻尾振って喜んでたみたいだし……あ、そろそろ時間だしアイツ来るかも。あぁ、じゃあな』
……。
うん。やらなきゃ良かった、サプライズ。
これが「後悔先に立たず」というやつか。
会話の流れから、誰の話をしているかは十中八九……いや、百パーセント私だ。
優しくされただけでコロッといって、プレゼントまで用意して、犬みたいに尻尾振ってたのは誰だ。
私だよ!! ちくしょう!!
だってカッコ良かったんだもん! 笑顔が可愛かったんだもん! そりゃ惚れるでしょうよ!
私のバカヤロー!!
怒りと悲しみと羞恥心で脳内がパンクしかけていた、その時。
タイミング悪く、彼が振り返った。バッチリ目が合った。
彼は一瞬だけ目を見開いた後、すぐに、傍目からは人畜無害に見える「いつもの優しい癒し系笑顔」を私に向けた。
さっきの通話を聞いた後だと、その笑顔がドロドロに腐ったヘドロか何かにしか見えない。
「びっくりした! 澪、いつ来たの? 声掛けてくれればいいのに。……今日も可愛いね」
流れるようにサラッと「可愛い」とか宣うこの男は、どうやら先程の電話を聞かれていない方に賭けたらしい。
残念でした。バッチリ、高音質で、一言一句漏らさず聞いていましたよ。フザケンナ。
だが、反射的に顔を強張らせた私に、彼はなおも「優しさ」という名の厚化粧を塗りたくる。
「さっき……電話、してたみたいだったから。声掛け損ねちゃって。……友達から?」
「いや、親からだよ。家の醤油が切れたから、帰りに買ってこいだってさ。困るよね、デートなのに」
……はい、ダウトー!! フザケンナ!
醤油? 醤油だあ? どんな家庭だ。さっき「一発」とか「セフレ」とか醤油の概念を超えたワードが飛び交ってただろうが。
私は彼を問い詰め、彼は白々しくシラを切り、気づけば私たちは大きな川に架かる歩道橋の上でもみ合いになっていた。
「離してよ!」
「待てって、誤解なんだよ澪!」
不運というのは、こういう時にこそ本領を発揮するらしい。
振り払おうとした腕の勢いと、履き慣れないヒールの不安定さ。そして、何故かその場所だけ、欄干の一部が老朽化でガタついていた。
「あ、」
視界が、ぐわんと回る。
冬の冷たい空気と、眼下に広がる黒い水面。
最後に見たのは、助けの手を伸ばすどころか、自分の保身のために一歩引いた「王子様」の引きつった顔だった。
(……あー。これ、死んだわ。私の人生、最後の最後まで、本当にツイてない……)
そうして、極寒の川に叩きつけられた衝撃と共に、私の意識は途絶えたのだ。
それなのに。
「……生きてる、んだよね。これ」
シミのある天井を見つめたまま、独り言ちる。
指先を動かしてみると、わずかに感覚がある。全身が酷い筋肉痛のような怠さに包まれているが、間違いなく「生」の感触だった。
「お、起きた? おはよう、お嬢さん」
唐突に、横から声がした。
びっくりして首だけを向けると、そこには一人の男が座っていた。
椅子に深く腰掛け、足を組んでこちらを眺めている。
その男は、私の視線に気づくと、ふわりと軽薄そうな笑みを浮かべた。
「いやぁ、死んでるかと思ったよ。あんな冷たい川をどんぶらこって流れてくるんだもん。てっきり、とびきり上等な酒樽でも流れてきたのかと思ったけど。蓋を開けてみたら、中身はボロボロの女の子だったわけだ」
男はニヤニヤと笑いながら、手元のナイフでリンゴの皮を器用に剥いている。いや、どんぶらこって……。
その手つきは驚くほど淀みなく、それでいてどこか慣れすぎている不気味さがあった。
「ここ、どこ……?」
「俺の隠れ家。見ての通り、ボロいけど静かでいい場所だよ。……ま、とりあえず生きてたことに乾杯でもする? リンゴしかないけど」
男の銀色の瞳が、面白そうに私を射抜く。
私は悟った。
助かったのは嬉しい。嬉しいが、この男も、この状況も、私のこれまでの人生で起きた「小さな不幸」のどれよりも――圧倒的に、ヤバい。
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