24:食べ歩きって楽しい
ゆっくりと速度を落とした馬車が、リマングスタの入り口にある広場で停まった。
(……わあ、すごい……!)
肺に飛び込んできたのは、懐かしい潮の香りと、炭火で焼かれた魚介の香ばしい匂い、そして人々の凄まじい熱気だ。
「ミオ、そんなにキョロキョロしてると、段差に足を取られるよ」
「だって、見てよカシム! すっごい活気……! みんな、生きてるって感じがする!」
石畳を行き交う人々は、日に焼けた肌で快活に笑っていた。
巨大なカゴいっぱいに銀色の魚を担いだ漁師たちが、通行人を避けることもなく豪快に笑い飛ばし、色鮮やかな布を広げた商人たちが、聞いたことのない調子で歌うように客を呼び込んでいる。
「ミオ、いい時間だしお腹空いたでしょ。何か食べたいものある?」
手を引かれ、彼の方を見上げると、いつになく楽しそうな表情をしている。はしゃぐ子供を見守るような余裕たっぷりな表情。何だか恥ずかしくなった私は思わず視線を逸らしてしまう。
熱を持った頬を誤魔化すように顔を背けた先、そこには海沿いの通りに並ぶ、色とりどりの天幕。
どこからか漂ってくるたまらなく食欲をそそる匂い。
「……カシム、あ、あれ。あっちの、赤いソースがかかったやつ!」
「はいはい、わかったから。そんなに引っ張らないの。逃げやしないよ」
気恥ずかしさを振り切るように指差した私に、カシムは苦笑を漏らす。
彼と手を繋いだまま、私は吸い寄せられるように屋台の前へと足早に向かった。
「お熱いねぇ、旦那! べっぴんさんの奥さんに一本どうだい!」
炭火の前で、長いトングで串を器用にひっくり返している店主が、威勢よく声をかけてくる。奥さんという響きに顔がさらに熱くなったけれど、それ以上に網の上で弾けるエビのバター焼きの匂いに抗えなかった。
「……カシム、一本だけ!」
「はいはい。火傷しても知らないよ」
カシムが代金を渡し、熱々の串焼きを受け取る。
彼は「ほら」と言って、軽く息をふきかけて冷まし、串の先を私の口元へ向けてくれた。
(……いや、そこまでされなくても火傷なんてしないし!)
子供じゃないんだから落とさない、とか。自分で持てる、とか。
喉元まで出かかった文句はいくつもあったけれど、漂ってくる香ばしい匂いに理性が一瞬で白旗を上げた。結局、私は差し出された大きなエビを勢いよく頬張った。
口の中に広がったのは、ぷりぷりとした弾力と、濃厚な味噌の旨み。そして、鼻を抜けるスパイシーな赤いソースの刺激。めっちゃ美味しい!
「おいひい……っ! なにこれ、最高……!」
「べっぴんさんに褒められると嬉しいね! 気に入ったならもう一本おまけしとくよ!」
店主の豪快な笑い声が、オレンジ色の空に響く。
おまけの串を二人で分け合いながら歩き出すと、視界に入るものすべてが輝いて見える。
「カシム、見て! あっちの、貝殻の上でグツグツしてるやつ!」
「カシム、こっちの青い果物がのったタルトも気になる!」
気恥ずかしさなんて、気付けばどこかへ吹き飛んでいた。私はカシムの手を引いて、人混みを縫うように次から次へと屋台をハシゴした。
カシムはその都度、文句ひとつ言わずに付き合ってくれる。香ばしい香りのする白身魚の包み焼きに、甘い蜜がたっぷりかかった揚げ菓子。私が足を止めるたびに、彼は「仕方ないなあ」と肩をすくめながらも、甲斐甲斐しくそれらを買ってくれた。
(……なんだか、贅沢すぎて怖いかも)
食べ歩きなんて、元の世界では当たり前の楽しみだったはずなのに。
街の夕暮れ時、賑やかな喧騒に包まれて、こうしてカシムが隣にいて美味しいものを頬張る。その事実が、たまらなく贅沢で、そして安心感に満ちていた。
「ふぅ……。もう、お腹いっぱい……」
ようやく足が止まったのは、港全体が濃いオレンジ色から、深い群青色へと溶け込み始めた頃だった。
両手に持った包みを片付け、ふと、自分ばかりがはしゃいでいたことに気づく。
「……あ。ねえ、カシム」
私は繋いだ手を少しだけ引いて、後ろを歩いていた彼を振り返った。
「ん? どうしたの、ミオ」
「私ばっかり選んでたけど……カシムは、何か食べたいものとかなかった? 私、自分のことばっかりで……」
申し訳なくなって彼の顔を見上げると、そこにはどこまでも穏やかな笑みを浮かべるカシムがいた。
夕日に照らされた彼の瞳は、いつになく優しくて、この街の黄金色に溶け込んでいるように見えた。
「俺? 俺はもう、十分すぎるくらい堪能したよ。ミオがあれだけ美味しそうに食べるんだから、隣にいるだけで満足だよ」
彼はそう言って、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「それに、半分こしただろ? 君と一緒に食べたんだから、それで十分。……それとも、 俺が倒れないか心配してる?」
「……っ、そうじゃないけど。せっかく屋台が沢山あるんだから、カシムの好きなものも食べればいいのにって思っただけよ」
からかうような口調に、私は慌てて視線を逸らした。カシムの手が、私の唇の端を指先で優しくそっとなぞる。
「大丈夫だよ。俺が一番食べたいものは、また今度ゆっくり味わうから」
その言葉が、食べ物のことなのか、それとも別の何かなのか。
私が微かな違和感を覚えた瞬間、カシムは、悪戯っぽく瞳を細めた。
「もちろん、その時はミオにもしっかり付き合ってもらうからね?……約束だよ?」
「……? ええ、もちろん。約束よ。その時は私が奢ってあげるわよ。……だから、遠慮なく言いなさいよね」
これだけ買ってもらったんだから、そのくらい当然だ。
それに、いつまでもカシムのお財布に頼りきりでいるわけにはいかない。今はまだ無職だけど、ここに住むなら、私にだって何かできる仕事があるはずだ。
バイトで接客とかしてたんだし。きっと何とかなるはず。
(……この街でちゃんと働いて、少しずつ恩返ししていかなきゃ)
そんなちょっとした決意を込めて胸を張った私に、カシムはなぜか「あはは!」と、今日一番の愉快そうな声を上げて笑った。
「そっか、奢ってくれるんだ。それは楽しみだね」
彼は満足げにそう言うと、「さあ、冷えないうちに宿に行こうか」と、軽やかな足取りで歩き出した。
(……なによ、そんなに笑わなくてもいいじゃない)
また彼の手のひらで踊らされているような気がして少しだけ癪だ。
けれど、繋がれた手から伝わる体温が心地よくて、私は彼に引かれるまま広場を抜け、白壁の家々がひしめく細い坂道を登っていく。
道端では、仕事終わりの男たちが大きなジョッキを片手に笑い合い、二階の窓からは夕食の支度をする鍋の音が聞こえてくる。
(……なんだか、不思議。つい数日前までは、森の中にいたのに)
追っ手への恐怖。自分がこの世界の人間ではないという孤独。
けれど今、カシムの大きな手に引かれて歩いていると、この賑やかな街の一部に自分が溶け込んでいるような錯覚さえ覚える。
「ねえ、カシム。私……ここでなら、ちゃんとやっていける気がする」
思わず口から出た言葉に、カシムがふと足を止めた。
彼は振り返り、少しだけ目を見開いた後、すぐにいつものヘラヘラとした笑みを浮かべた。
「へぇ、自信満々だね。……まあ、君がその気なら、俺も頑張って君を養わないといけないかな。……『夫』としてね」
「……っ、もう。その設定、まだ続ける気?」
「設定じゃないよ。ここではそれが『真実』なんだから」
私はもう、あの森で守られるだけだった頃のままじゃないんだから。お腹はいっぱい。隣には……まあ、性格は悪いけど頼りになる夫(仮)
(きっと大丈夫!)
根拠はないけれど女の勘を頼りに、私は彼の手を少しだけ握り返した。
――まあ、その勘が「ベッドはひとつ」という宿の洗礼で粉々に砕け散るまで、あと数分。
ちょっと、異世界にはツインルームっていう概念はないの!?




