23:国境を越えて
何度目かの馬車を乗り継ぎ、カシムの目指す目的地まであと一歩――というところで、私たちは国境手前の宿場町で一夜を明かすことになった。
「今夜はここに泊まるよ。明日はいよいよ関所越えだからね。しっかり休んでおかないと」
カシムは慣れた足取りで古びた宿屋に入ると、受付の台帳にさらさらとペンを走らせる。
横から覗き込めば、そこには流麗な筆致で2人分のエヴァンスの文字。
設定だと分かってはいるけれどソワソワと身体が過剰に反応する。
「はい、部屋の鍵。いやぁ、仲が良くて羨ましいねぇ」
「ええ。あまりに可愛くて、一秒も離したくないんですよ」
カシムが主人の冷やかしに平然と、しかも少し熱っぽく応えるものだから、私は顔から火が出るかと思った。
隠れ家で二人きりの時は、ただの家事スキルの高い同居人だったはずなのに。一歩外に出て、こうして『夫』を演じる彼を見ていると、なんとも言えないむず痒さを覚える。
夕食時、一階の食堂は旅人や商人たちで賑わっていた。
食欲をそそるシチューの匂い、ジョッキがぶつかる豪快な音。そこは私が想像していた以上に賑やかな場所だった。
夕食の食堂でも、カシムの「夫」としての献身は止まらない。
私の肉を切り分け、野菜を多めに皿に盛り、飲み物を注文する。その隙のない完璧な振る舞いに、周りの客からは「お熱いねぇ」なんて揶揄う声が飛ぶ。
衆人環視の中での過保護。逃げ場のない羞恥に、私のキャパシティは限界を迎えていた。
(……やってらんない! 女は度胸!)
私は、目の前のジョッキをひったくるようにして煽った。
勢いよく、二杯、三杯。
カシムの「ミオ、飲み過ぎだよ」という呆れた声を無視して飲み続けた結果、私の意識はふわふわと頼りなく浮き上がった。
「――そろそろ、限界だね。部屋に戻るよ」
カシムに支えられ、ふらつく足で階段を上がる。
案内された部屋には、申し訳程度の机と、そして――。
「……ベッド、ひとつじゃん」
どう見ても一人半、せいぜい二人でぎりぎりの、大きさのベッドが一台。
「夫婦なんだから当たり前でしょ?」
カシムは私をベッドに沈めると、呆れたように笑いながら私の靴を脱がせる。
私は酔った勢いで、ベッドにあった予備の枕をひったくると、マットの真ん中にドンと置いた。
「こりぇ……っ、国境! ここかりゃ、こっちは、私の国! 入国禁止!」
「はいはい。ミオの国の法律に従うよ」
カシムの楽しげな声を聞きながら、私の意識はそこでぷっつりと途切れた。
翌朝。
差し込む朝日の眩しさに目を覚ますと、真っ先に感じたのは、心地よい重みと包み込まれるような温かさ。
(……あれ? ここどこだっけ…?)
……。
…………!?
(…… 枕!!国境は……!?)
私の防衛線だったはずの枕は、無惨にも足元に蹴り飛ばされていた。
代わりに私を包んでいたのは、カシムの長い腕だ。私は彼の胸にすっぽりと収まり、あろうことか自らも彼に足を絡めて、密着しきっていた。
「おはよう、ミオ。……よく眠れた?」
耳元で聞こえる、甘い腰に響く低い声。声から逃げようと顔をあげるとカシムはニヤニヤとこちらを見下ろしていた。
カシムは目が合うと私を離すどころか、さらに腕に力を込めて抱き込み、満足げに目を細めた。
「ちょっ!?あんた……っ、国境越えてるじゃない……!」
「違うよ。自分から越えてきたのはミオの方。……これじゃあ、密入国で俺に捕まっても仕方ないね」
逃げようにも、カシムの囲い(物理)から腕一本抜けない。細身の癖にどんな筋肉してんのよ!?というか、絡めた足まで解けない。これだけしっかり拘束されてるのに全く痛くないのも意味がわからない。
(……お酒、怖い。異世界のアルコール、マジで凶器すぎる……!)
カシムの腕から逃げられないまま、私は二度とお酒は飲まないと爽やかな朝日に向かって誓った。……今度こそ!!本気で!
なんとかカシムの腕から這い出し、朝から疲れた体で身支度を整える。鏡に映る自分の顔は、二日酔いと羞恥心でなんとも言えない色をしていた。
対するカシムはといえば、朝日を浴びて「あー、よく眠れた」と爽やかに伸びをしている。その鋼のメンタルを分けてほしい。……いや、やっぱりいらない。乙女心が死滅する。
手早く朝食を済ませた後、宿を出て私たちは国境へ向かう馬車に乗り込んだ。
揺れる車内、私の頭の中では「二度とお酒は飲まない」という誓いがリフレインしている。けれど、隣に座るカシムが私の手を握り、指先を絡めてくるせいで、正直それどころではなかった。
「……ねえ、手。離してよ」
「ダメだよ、ミオ。関所が近い。あそこの兵士たちは目敏いからね。『愛し合っている夫婦』に見えないと、その瞬間に牢屋行きだ」
珍しく真面目な顔のカシムに言いくるめられ、私はぐぬぬと黙り込むしかなかった。
ついに馬車が止まり、「身分証の提示を!」という大きな声が響く。
順番が回ってきて、強面の警備兵が私たちの前に立った。心臓が口から飛び出しそうだ。カシムは顔色一つ変えず懐から、あの偽造パスポートを取り出し、あっさりと差し出す。……は、鋼メンタルゥゥゥ。
「カシム・エヴァンス。それと、妻のミオです」
「……ほう。随分と若い奥方だな。どこから来た」
「北の領地からです。親の反対を押し切って出てきたものでね。……ほら、ミオ。あまり緊張しなくていいんだよ」
カシムが私の肩を抱き寄せ、優しく微笑む。その完璧な愛妻家の表情に、私はあたふたするばかりで言葉が出てこない。
「え、あ、はい。北の……その、寒かったところから、来ました……!」
「……? 随分と、挙動不審だな」
兵士の目が細められる。やばい、不審者全開だ。
私の背中に冷や汗が流れた瞬間、カシムがくすっと低く笑って、私のこめかみに軽く唇を寄せた。
「すみません。妻はひどく内気な上に、初めての長旅で少し……いえ、かなり疲れているんですよ。昨夜も宿で、俺から離れるのが怖いと朝まで強請られてしまって」
「カ、カシム……っ!?」
「あぁ、そんなに真っ赤になって。……役人さん、お恥ずかしいところを見せました」
カシムが困ったような、けれど幸せで堪らないといった風に肩をすくめる。
兵士は毒気を抜かれたのか、「……やれやれ、勝手にやってろ」と吐き捨てて、証書に無造作にスタンプを押した。
セーーフ!……でも、確実に何かが削れていく気がする。主に羞恥心とかそんな感じのやつが。
関所を越え、再び動き出した馬車の中で、私はようやく深く息を吐き出した。
「……あんた、本当に演技は天才的ね。心臓止まるかと思った」
「演技? 嘘は言ってないよ。今朝のミオ、俺にしっかり足を絡めて離そうとしなかったじゃない」
「っ……! それは、お酒のせいで……!」
「あはは、そうだね。そういうことにしておこうか」
カシムが楽しそうに肩を揺らす。……色々と負けた気がする。
でもこれ以上反論してもやぶ蛇になりそうで私は口を閉じるしかなかった。
関所を越えてから、さらに数時間。
私たちが揺られているのは、壁も窓もない、大きな布を被せただけの馬車。これが所謂、幌馬車って言うのかもしれない。
開放的な車内に流れ込んできたのは、懐かしく、どこか肌にまとわりつく湿り気を帯びた空気。
(……え? この匂い……)
鼻腔をくすぐる、少し生臭くて、けれど胸の奥を揺さぶる特有の香り。
それは、この世界に来てから一度も嗅ぐことのなかった、けれど私の身体が深く記憶している「海の匂い」だった。
「……潮の匂い? もしかして、海?」
思わず、座席から身を乗り出す。
日本にいれば当たり前のようにそこにあった海。夏の湿気、家族や友人と過ごした記憶、そして二度と戻れない場所の象徴。
「正解。この丘を越えた先にあるのが、巨大交易港リマングスタだ。……長距離、頑張って揺られた甲斐があっただろ?」
カシムが私の隣で、満足げに目を細める。
彼は身を乗り出した私の腰に腕を回し抱き寄せた。
「ここが、俺たちの新しい住処だよ。人の出入りの多い港町なら、色々と都合が良いからね」
カシムの現実的な言葉に、私のセンチメンタルが一気に吹き飛んだ。
やがて馬車がなだらかな坂を登り詰めると、視界が一気に開けた。
夕日に照らされ、黄金色に輝く水平線。そして、海岸に面して広がる、白壁の建物が立ち並ぶ街並み。
(うわあ……すごい……!)
森の隠れ家も風情があったけれど、ここはもっとずっと、色彩と生命力に溢れている。
潮騒の音、遠くに見える船の帆、そして夕刻の活気に沸く人々の気配。私は、美しい異国情緒溢れる街並みに逃亡中ということも忘れて、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
「ねえカシム、見て! あの時計塔、すごく綺麗!」
身を乗り出して指差す私を、カシムは「はいはい、危ないよ」と苦笑しながらも、どこか楽しげに引き留める。
これからどんな生活が始まるのか。
どんな美味しいものに出会えて、どんな景色が見られるのか。
不安よりもずっと大きなワクワクが、潮風に乗って私を包み込んでいく。
新しい街、リマングスタ。
私は、期待に胸を膨らませて見つめていた。




