22:愛の逃避行()
深夜。消えかかった暖炉の残り火が、爆ぜる音を立てる。
俺は静かにベッドで寝息を立てるミオの顔を覗き込んだ。
(そろそろ良いかな。……準備を始めるとしようか)
音もなく外へ出れば、冷えた夜気が肺を満たす。
向かったのは、家の外れにある崩れかけの石蔵だ。ここには、万が一の時に使える道具をいくつか放り込んである。
埃を被った木箱をどかし、中から特殊なインクと、真鍮製の印判を取り出した。各国の公印を精巧に模したこれは、かつて仕事で必要に迫られて自作したものだ。
二枚の革綴じの証書を淀みなく書き進めていく。
一枚は、俺の名。もう一枚は、ミオの名だ。
二人の関係を示す欄には、迷わず「夫婦」という文字を刻み込んだ。
(木を隠すなら、森の中……。逃亡者を隠すなら、世界で一番ありふれた幸福な単位の内側が一番だ)
仕上げに、書き上げたばかりの証明書をわざと汚し、使い込んだ演出して懐にしまう。
そのまま夜明け前の街へ足を向け、御者に銀貨を握らせた。一般人が利用する乗合馬車なら、紛れ込むのは容易い。
一番混み合う時間の席を二つ。
準備は整った。
朝日が昇る前に隠れ家に戻り、俺は温まり始めたポットを見つめ、ミオの反応を想像し目を細めた。
「――ミオ。引っ越すよ」
朝食後。私がようやく人心地ついたところで、カシムが軽い調子で、なんて事ないようにいきなり宣言する。あまりに唐突な言葉に、ティーカップを口に運ぶ手が止まる。……え?
「……引っ越し? ……え、今日?いきなり?」
「急じゃないよ。ミオが寝込んでる間に、俺の中では決まってたことだし」
カシムは鼻歌混じりに早々と荷物をまとめ始めた。その手つきは速く、迷いがない。まるでこの場所への未練など、最初から一欠片も持ち合わせていないみたい。
待って、待って。展開に着いていけない。
「……理由を聞いてもいい? それに、カシムここ結構気に入ってたみたいだけど」
「んー。ミオを迎えに行った時に、ちょっと張り切りすぎちゃって。あの時、口止めもしなかったし、俺が生きてるのが広まると思うんだよねー。……ま、自業自得だね」
カシムは振り返り、何でもないことのように片目を瞑っておどけてみせた。
あ……私がスプラッタ計画を止めたから?いや、流石に見たくなかったし……。それでも、結果として私のワガママに折れ、カシムは隠し通していた自分の存在を広めることになったのだ。
「……ごめん。私が止めたせいで、バレちゃったんだよね」
私の考えなしのせいだと、罪悪感に潰れそうになる。そもそも、私が攫われなければ、彼が表舞台に姿を晒すことも、こうして住処を失うこともなかったはずなのに。
「助けてくれて、ありがとう。……でも、本当にごめんなさい」
消え入りそうな声で告げると、カシムの手が止まった。彼は私のそばに歩み寄ると、椅子に座る私の目線に合わせて腰を落とす。
「お礼は受け取っておくけど、謝罪はいらないよ。元々は、俺が原因だしね。ミオはただ、そのとばっちりを受けただけ。俺の一番大事なものはもう持ってるからね」
そう言って、カシムは揶揄うように私の鼻先を指で弾いた。その指先がいつになく優しく感じる。
「それに、迷子を迎えに行くのは保護者の責任でしょ? それでも気になるなら今後、俺の傍から離れないこと」
「……迷子じゃないし。でも、約束するわ」
「あ、そうだ。これ身分証。一応、中身を確認しておいて」
そう言ってカシムが胸ポケットから手帳サイズの冊子を取り出す。渡されたのは、古い質感の革綴じの証書だった。……え、いつの間に用意したの?
嫌な予感がしつつ開いたその紙面に、私は眉間を寄せた。
『ミオ・エヴァンス』
「……エヴァンス?誰? え……これってもしや偽造パスポート的なやつ?」
……犯罪の匂いがする。
「正解。俺得意なんだよねぇ、こういうの作るの。……あ、俺のも見てみる?」
紛れもなく、犯罪だった。……やっぱりか。バレたらヤバすぎない?
パラリと捲られたカシムの冊子には私と同じ名字。
「……えっ。同じ!? なんでカシムと同じ名字になってるのよ」
「前にも言ったでしょ。偽装には『夫婦』が一番だって」
さらりと言ってのけるカシムに対し、私の心拍数は一気に跳ねる。この動悸が、犯罪行為への不安なのか、それともカシムのせいなのか、今の私には決めることが怖かった。
ただ、彼の笑顔を見ると今はもう消えた痕がチョーカーの裏で熱を帯びた気がした。
―――数時間後。私たちが乗り込んだのは、街と街を繋ぐ、乗合馬車だった。カシムの説明によると目的地まで何度か馬車を乗り継いで向かうらしい。
車内は、大きな荷物を抱えた買い物帰りの女性や、賑やかにお喋りを楽しむ老人、退屈そうに窓の外を眺める子供たちで埋まっていて、思っていたよりもずっと生活感に溢れている。
(……なんだか、路線バスって感じ)
似てないはずなのに日本での生活を思い出し懐かしい気分になる。今は遠い平和で穏やかな日本での記憶。……あ、よく考えたらいつも足踏まれてたわ。満員電車で舌打ちされたり、傘の先をぶつけられたり、全然穏やかじゃなかった。
「ミオ。そんなに端っこにいたら、落ちちゃうよ」
懐かしいけれど、若干もやもやとする記憶を手繰り寄せていた私をぐいっと引き寄せるカシム。
二人掛けの狭い木製ベンチ。カシムは当然のような顔をして私の肩に腕を回してくる。彼の腕が私の肩をしっかりと抱き込み、その重みが体温と共に伝わってくる。
「……ちょっとカシム、近いってば。周りの人も見てるし」
「何言ってるの。俺たちは実家を飛び出してきたばかりの、熱烈な新婚さんなんだよ? むしろ離れて座ってる方が、不自然で怪しいでしょ」
私の耳元に唇を寄せて囁いた。カシムが……口許がっっ近い!!
「それって駆け落ち……!? 設定盛りすぎだってば!」
「完全な嘘ってわけじゃないでしょ。事実、ミオは俺と一緒に逃げてるんだから」
なんとか抗議しようと顔を上げた瞬間、カシムの顔が至近距離にあった。
「新婚らしくしないとね」
耳元で囁かれる低く甘い声。おばさまたちが、こちらを見て「あらあら、お熱いわねぇ」なんて顔でクスクス笑っている。……恥ずかしすぎて、今すぐこの馬車から飛び降りたい。
「ほら……俺の胸、貸してあげるから大人しくしてな」
ガタゴトと一定の速さで揺れる馬車の振動。近くの席から聞こえる、誰かの穏やかな話し声。
私の視界は引き寄せられた彼のシャツで塞がれた。……カシムには私の指が震えていたことがバレていたのだろうか。
外の世界はこんなに賑やかで平和なのに。
カシムの体温と、微かに漂うリンゴの香りだけが、私の感覚を塗り潰していく。
―――二度目の馬車は、少しも怖くない。




