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災いの招き猫、『元』掃除屋に拾われる~不運をすべて引き受けると笑った死神は、今日も私のために料理する~  作者: サハラ


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21:舞台裏では

 病み上がりの首筋に残されたのは、熱く、ひどく生々しい感触だった。


(……信じられない。あいつ、本当に……)


 ピリッとした小さな痛みと、腰の奥が疼くような、経験したことのない熱。

 今まで彼が口にしてきた「ハニー」だの「俺の愛しい」だのといった甘い言葉は、すべて私を揶揄い、反応を楽しむための演技だと思っていた。

 なのに、あの時だけはいつもの冗談と流すにはカシムの様子が違った気がする。


 ただ私は、恥ずかしさと混乱に耐えきれず、彼の腕の中から逃げ出して布団の中で蓑虫状態になることしかできなかった。

 カシムが何を考えてあんなことをしたのか、その本心を確かめる勇気もなくて、まともに顔を見ることすらできない日が続いた。




 けれど、あれからカシムは特に変わった様子もない。私はようやくベッドから出る許可が出て、数日が過ぎた。


 鏡の前で、カシムから贈られた黒いリボンのチョーカーを首に巻く。指先が触れるたび、あの日の熱が蘇るようで心臓がうるさい。けれど、これを着けていないと、まだ薄く残っている(キスマーク)がカシムの目に触れてしまう。皮肉なことに、彼から逃げるための言い訳を、彼から貰ったもので隠しているのだ。


 相変わらず飄々として、何もなかったように過ごすカシムにつられて、あの日のことは私の中で「犬に噛まれた」と思うことにした。あれは、そう、ただの気の迷いだったに違いない。


 隠れ家での生活は、驚くほど平和で、そして……度を越して過保護に再開されている。


「お嬢さん、起きたの。ちょうどいい、今起こそうと思ってたところだ」


 リビングへ向かうと、カシムがエプロン代わりのシャツを軽く捲り上げ、鼻歌混じりに朝食を並べていた。

 埃ひとつない床、適切な湿度に保たれた空気。掃除も、洗濯も、水汲みも。私が何かをしようと手を伸ばす前に、カシムはどこからともなく現れて「俺の仕事を取らないでくれる?」と、涼しい顔で私の手から奪い取っていく。


 以前から有能な男だとは思っていたけれど、今のカシムは、以前にも増して「過保護」が過ぎる。家事も、食事も、生活のすべてを彼に委ね、私はただ「座っているだけ」で一日が終わる。

 文字通り、私を一歩も動かしたくないと言わんばかりの、徹底した至れり尽くせり。


「……ねえカシム。私、もう熱もないし、これくらい自分でできるわよ」


「ダーメ。お嬢さんはそこに座って、俺が淹れたお茶でも飲んでればいいの。それが君の唯一の仕事だよ」


 カシムは私の反論を柳に風と受け流し、完璧な温度の紅茶を目の前に置く。

 今がどれほど異常なことか、頭のどこかでは理解しているのに、体がその安楽さを覚えてしまった。


(……何も出来なくなりそう)


 そして、変化といえば……()()()()。本当に、何もないのだ。

 思い返せばこの世界に来てからというもの、命の危機を感じる行き過ぎた不運の連続だった。でも、ここ数日は日本にいた頃の、あの地味に嫌な不運だらけの日々と比べても、今の方が本当に何もない。床は抜けないし、皿は飛んでこない。

 あまりの静かさに、かえって違和感を覚えてしまうほどだ。


「……ねえカシム。最近、なんだか調子がいいみたい。不運もネタ切れしたのかも」


「へえ、それは良かったね。俺という幸運に出会って、お嬢さんの不運も浄化されちゃったかな?」


「……はいはい。あんたの自惚れは、相変わらずね」


 私は冗談めかして笑い、温かい紅茶を啜った。窓から差し込む穏やかな光に、意識が少しずつ緩んでいく。

 最近の悩みと言えば、たまに目が合った瞬間に疼く、あの日の痕。そして、ふとした瞬間にカシムの唇に視線が吸い寄せられることだ。

 それ以外は、この上なく平和な日々を過ごしている。








 俺はヘラヘラとした笑みを浮かべ、相槌を打つ。

 ミオは呑気に紅茶の香りを楽しみながら「平和だ」と笑っている。至って健全で退屈な日常だ。彼女にとっては。その無防備な横顔を眺めながら、俺は彼女に降りかかろうとする「不運の芽」を、視界の端に捉えていた。


 ――開いた窓から侵入しようとした、一匹の毒蜂。

 刺されれば一晩中高熱にうなされることになる、この辺りではまず見かけない厄介な種類だ。

 俺は彼女と会話を続けながら、視線を向けることすらなく、指先に魔力を集め不可視の空気弾を飛ばす。


 圧縮された空気が正確に蜂を撃ち抜き、羽音すら残さず、それは庭の茂みへと消えていった。


 ――リビングを歩く彼女の背後。

 俺は通りがかりざま、彼女が次に踏み出す場所にある、床のわずかな浮きを見つけた。放っておけば彼女は躓き、手に持った熱い紅茶を被ることになるだろう。

 俺は足音を立てず、つま先でその板を蹴り込み、噛み合わせを直して平らに戻した。彼女がその場所を踏んだ時には、床はもう、最初から平であったかのように沈黙している。


(ミオの不運が収まった? ……違うよ)


 内心で嘲笑が漏れる。

 彼女が話す今までの不運は、せいぜい「泥をはねられる」程度。

 以前が「不快な偶然」だったなら、この世界での不運は、今や「明確な殺意」だ。

 原理は不明だが、俺という盾が彼女を守れば守るほど、世界は天秤の重りを増やすように、より凶悪な偶然を彼女へとぶつけているように感じる。普通なら、俺が離れることが彼女の救いになるのだろう。


 だが、これでいい。

 世界が彼女を追い詰めるほど、彼女の平穏は俺の手の中にしか存在しなくなる。


「……カシム?」


 不意に、ミオが振り返って俺を見た。

 あの日に刻みつけた痕が、彼女の意識を支配しているのが手に取るようにわかる。

 俺と目が合うと、彼女の視線は所在なげに彷徨い、俺の口許を掠めては、慌てて逸らされる。

 俺を男として意識し、戸惑いと熱の混ざった瞳で俺を見る。そのすべてが、たまらなく愛おしい。


(……いい顔だ。もっと俺のことしか考えられなくなればいい)


 俺は今度こそ心からの微笑みを浮かべ、震える彼女の指先を見つめる。


「どうしたの? お嬢さん」


 いくら来ても構わない。不運でも災いでも。

 それらすべて俺が握りつぶしてやる。彼女を救えるのが、俺一人であることを証明し続けるために。



……さて、ミオの体調も心配はなくなったしそろそろ次に進もうか。

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