20:すりおろしリンゴは母の味
外に出て夜の冷たい空気に触れた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
カシムの腕の中にいる安心感と、身体の痛みが、急激な睡魔となって襲ってくる。
「……あ、カシム。リンゴ、飴……」
「まだ言ってるの? 寝てなよ、お嬢さん」
呆れたような、けれどどこか焦ったカシムの声を聞いたのを最後に、私の意識は真っ白な熱の中に溶けていった。
意識が混濁する中、私は懐かしい景色の中にいた。
夕暮れの下駄箱。聞き慣れたスマホの通知音と、校舎を叩く雨の匂い。
「ミオ、また傘盗られたの?」
友達の同情するような声。私はため息をつきながら、おろしたばかりのローファーにこびりついた泥を睨んでいた。
日本にいた頃の私はどこにでもいる、けれど少しだけ運の悪い高校生だった。
家族仲は至って普通。干渉しすぎず、かといって放置されてる訳でもない、よくある一般的な家庭。両親とはたまに喧嘩もするけれど笑い合える関係。放課後は友達とファミレスで何時間も粘り、バイトをして、ささやかな自由を謳歌していた。
命に関わることも、取り返しがつかない事態もない。けれど、楽しみにしていた限定スイーツは私の前の人でだいたい売り切れ、美容院を予約すれば手違いで受け付け出来ていないと言われ、雨の日には決まって車に泥をはねられる。
誰に当たることもできない、些細で、けれど確実に心を削る小さな積み重ね。そんな毎日。
(予備の傘。……あぁ、この間盗られた時に使ったんだった)
重い溜息をついて俯いた視線の先に、人影が目に入る。
「……あれ、澪? 傘、ないの?」
心臓が跳ねる。そこにいたのは、密かに片思いをしていたクラスの男子だった。
爽やかな笑顔。不運続きの私にとって、彼だけは唯一の光のように見えていた。
「……うん。ちょっと……」
「そっか。……じゃあ、俺の傘に入る? 送ってくよ」
その言葉に、泣きそうになるほど胸が熱くなった。
ああ、私の不運も、ここでようやく終わる。彼なら、私をこの冷たい雨から連れ出してくれる気がする。
けれど、差し出された傘の下で彼が浮かべたのは、私の知っている笑顔ではなかった。
彼は私の肩を抱き寄せ、猫撫で声で語りかける。
「その代わり、この後ヤラせてくれるならね。……いいだろ?」
――ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
光だと思っていた相手の目は、欲望で濁っている。
嫌悪感が、雨水よりも冷たく足元から這い上がってきた。
ああ、結局、全部これだ。私の人生は、どこまでいってもこれなんだ。
(……イヤだ。誰でもいい、私を、ここから――)
その瞬間。
暗い雨空が、突如として赤に染まった。
バチッ、と鼓膜を震わせる火花の音。
男子の腕が、別の腕に変わる。
「――残念。このお嬢さん、俺のなんだよね」
雨音が。―――消えた。
驚いて顔を上げると、そこには制服姿の学生も、校舎もなかった。
代わりにいたのは、赤黒い血で汚れた服を纏い、片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で私の肩を力強く引き寄せる――この世で一番不遜な死神だった。
「……カ、シム……?」
「…帰るよ、ミオ。君の居場所は、ここじゃない」
冷たい指先が、私の額に触れる。
その感触は、日本の生温い雨よりも、誰かの安っぽい優しさよりも、ずっと鮮烈で、鋭い。
私は、自分がもうあの平穏で当たり前の日常には戻れないことを、熱に浮かされる頭で理解した。
静かすぎる寝室に、ミオの浅い呼吸音だけが響いている。
濡れタオルを替え、熱で上気した彼女の顔を眺めながら、俺は自分の胸に手を当てた。
(……うるさいな)
自分の鼓動が、耳障りだ。
初仕事の時も、生死の境を彷徨うような傷を負った時ですら、俺の心拍は常に一定だったというのに。
なのに今はどうだ。
ベッドに横たわる女が、うわ言で「お母さん」だの「雨が……」だのと呟くたびに、俺の心臓は制御を失って馬鹿みたいに跳ね上がる。
このうるさい心臓を自覚するたび、俺の意識はどうしても、あの日の川辺へと引き戻される。
暇つぶしに眺めていた川の上流から流れてきた、妙な塊。
岩に引っかかった「それ」を引き揚げた瞬間を今でも覚えている。
本来なら放置するはずだった。
けれど、あの時――俺の足は動かなかった。
(……そうか。あの日から、既に始まっていたんだ)
俺にとって彼女はたまたま拾った暇つぶしなんかじゃなかった。
最初から、俺という男を狂わせる、唯一の存在だったのだ。
「……自覚するのが、随分と遅くなったな」
彼女を助けたいという無償の奉仕なんて綺麗なもんじゃない。
彼女の涙も、痛みも、すべて俺の手の中で完結させたい。
ベッドの中で小さく呻いたミオの手が、空を泳ぐ。
それを握り込み、指を絡めた。
熱い。焼けるような熱が、俺の冷え切った手に移ってくる。
「……逃がさないよ、ミオ。不運なんて可愛いものだと思えるくらい、俺が全部塗り潰してあげる」
四日目の朝。ミオの熱がようやく引き、彼女がはっきりと意思の宿った瞳を向けた。
「……カシム? ……私、どれくらい寝てた?」
「三日。おかげで俺、寝不足で死にそう。慰謝料として、これからの人生全部で払ってね」
いつものように、軽薄な仮面を被り直して笑ってみせる。
ミオは「ごめん……」と申し訳なさそうに眉を下げてから、ふらつく身体でベッドから起き上がろうとした。
「……もう大丈夫。ちょっとお水、飲んでくる」
「ダーメ」
彼女の肩に手を置き、抗う余地もない力でベッドへと押し戻す。
ミオが「えっ」と驚いたように俺を見上げた。
「でも、もう熱も下がったし。ずっと寝てたから、身体がバキバキで……」
「ダメだよ。大人しく俺の言うこと聞きな?」
「……カシム?」
ミオの瞳に、困惑と、わずかな「怖さ」が浮かぶ。
あの館にいた時の俺を思い出しているのかもしれない。
俺は安心させるように、意識して揶揄い混じりに言い聞かせる。
「ミオのアホな風邪が、俺の家に蔓延したら迷惑なんだよね。完全に治ったって俺が判断するまで、指一本動かさないで。……いい?」
肩を掴む指に少しだけ力がこもる。
彼女の柔らかい肌に、俺の指の跡が残る。このまま壊してしまいたい本能と、守りたいという理性。その狭間で、赤く染まる彼女の肌は毒のように俺を狂わせる。
彼女の私物はすべて没収した。
靴も、服も。俺が許可しなければ、彼女はこの部屋から一歩も出られない。
食事は俺が作り、スプーンで口元まで運ぶ。彼女の喉を潤すのも、身体を拭いてやるのも、すべて俺の役目だ。
ミオは最初こそ「恥ずかしい!」と抵抗していたが、俺が真顔で「言うこと聞かないなら、縛ろうか?」と脅すと、渋々従うようになった。
籠の中に閉じ込められ、俺の体温と、俺の選んだ食べ物だけで満たされていく彼女。
「ねえ、カシム……。なんか今日、顔が近くない?」
彼女リクエストの、すりおろしたリンゴを食べ終えたミオが、至近距離にある俺の顔を見て、頬をリンゴのように赤く染める。
「……そんなことないよ。 ミオが気にしすぎなんだよ」
本当は、彼女を感じる距離にいたいだけだ。
彼女の脳内にある邪魔なものをすべて追い出し、俺という存在で埋めつくしたい。
ミオが「もう、本当に変な男……」と呆れたように笑い、観念して俺の胸元に頭を預ける。
その瞬間、また、ドクンと心臓が跳ねた。
(……あぁ。やっぱり、うるさいな)
この心臓を黙らせる方法は、たぶん一つしかない。
この女を、一生、俺という囲いから出さないことだ。
「カシム? 心臓、すごい速いけど……あんたも風邪?」
「……かもね。ミオの風邪が、思いの外、強力だったみたいだ」
俺は彼女の細い腰を抱き寄せ、その白い首筋に、誘われるように唇を寄せた。
退屈しのぎに拾い上げたものが、まさか俺の生涯を台無しにする存在だったとはね。本当に不運だったのは、ミオじゃなくて俺の方らしい。




