『全能』1章9話 赤いリボン(9)
『全能』第9話
鉄の冷たさで、目が覚めた。
頬が、錆びた鉄格子に押しつけられていた。体を起こそうとすると、手首と足首で重たい鎖が鳴った。石の枷のかわりに、鉄の枷がはめられている。
狭い檻だった。荷馬車の荷台に鉄格子を組んだだけの、人ひとりがやっと横になれる箱だ。
夜になっていた。
野営地の真ん中で、いくつもの焚き火が揺れている。笑い声と、食器の触れ合う音。肉の焼けるにおいが、風に乗ってここまで届いた。
腹は、鳴らなかった。それよりも、喉が渇いていた。舌が上あごに張りついて、唾を飲み込むことさえうまくできない。
胸の焦げ跡が、脈を打つたびに疼く。裂けた手首に、鉄の輪がこすれる。
それでも健司は、どこか遠くの出来事のように、その痛みを眺めていた。
思い出すのは、小さな背中だった。
事情を聞くまでは、何もわからないはずです。
あの子は、そう言った。百人の兵士と、自分を痛めつけた五人を前にして。
檻の前では、若い兵士が一人、槍を抱えて立っていた。見張りなのだろう。こちらと目が合うと、気まずそうに顔をそむけた。
そのとき、焚き火の明かりを背にして、小さな影が近づいてきた。
つばの広い帽子。両手で、何かを大事そうに抱えている。
見張りの兵士が、はっと背筋を伸ばした。
「隊長」
「少しだけ、いいですか」
兵士は、一瞬だけ迷うように野営地の真ん中を振り返った。それから、くるりと背を向けた。
「……自分は、何も見ていません。交代の時間まで、ここで星を数えています」
「ありがとう」
少女は檻の前にしゃがみこみ、鉄格子越しに健司をのぞきこんだ。
「起きていましたか」
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少女が差し出したのは、木の椀だった。
半分ほど残った豆のスープ。その上に、ハンカチに包んだパンがのっている。
「……わたしのご飯の残りだけど」
言ってから、少女は少しだけ目をそらした。
健司は、椀を見つめた。
受け取れない、と思った。
自分は、村をひとつ焼いた。あの村の人たちは、もう何も食べられない。それなのに、自分だけが。
「……いただけません」
かすれた声で、健司は言った。
「僕には、そんな資格は」
「資格?」
少女は、きょとんと首をかしげた。
「ご飯を食べるのに、資格なんていらないでしょう」
「でも」
「受け取ってくれないなら、これは捨てることになります。わたし、もうお腹いっぱいなので」
そう言って、少女は椀を鉄格子の隙間から押し込んできた。
「わたしね、スラムで育ったの。食べ物を残すのは、あそこでいちばんやっちゃいけないことだった。お腹を空かせてる人がいたら、自分のパンを半分あげる。みんな、そうやって生きてたの。だから、捨てさせないで」
口調が、すっかり崩れていた。
少女自身も、それに気づいたらしい。あ、と小さく声を漏らして口元を押さえ、それから、ふうっと肩の力を抜いた。
「……まあ、いいか。人前じゃないし」
健司は、押し込まれた椀を、両手で受け取った。
鎖が、じゃらりと鳴った。
スープは、もうすっかり冷めていた。ひと口すすると、豆の青くさい味が舌に広がった。塩気が薄い。
アネットのスープは、もっと塩がきいていた。
そう思ったとたん、視界がにじんだ。
ほんの昨日のことだった。あたたかい家で、ニナとミレイユがはしゃいでいて、フェルナンが笑っていて、マルタンがパンを分けてくれた。
健司は、椀に顔を伏せるようにして、スープをすすった。涙がぼろぼろと椀の中に落ちた。それでも、手を止めなかった。
少女は、何も言わなかった。ただ、鉄格子の向こうで膝を抱えて、健司が食べ終わるのを待っていた。
椀が空になると、少女は腰に下げていた革袋を差し出した。
「これは、ただの水。魔法じゃないよ」
健司は、少女の顔を見た。
さっき、手のひらの水を見て体が跳ねたことを、この子は覚えていたのだ。
革袋の水は、ぬるくて、少し革のにおいがした。それなのに、今まで飲んだどんな水よりも、喉に沁みた。
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くう、と小さな音がした。
健司は、顔を上げた。
少女が、両手でお腹を押さえて固まっていた。焚き火の明かりの中で、耳まで赤くなっているのがわかった。
「……今のは、聞かなかったことにして」
お腹いっぱいだと、さっき言っていた。
健司は、ハンカチに包まれたパンを見下ろした。まだ手をつけていない、半分のパン。
この子は、自分の夕食を半分、ここへ持ってきたのだ。
健司はパンを手に取り、さらにふたつにちぎった。片方を、鉄格子の隙間から差し出す。
「半分、どうぞ」
「いいってば。それは、あなたの」
「捨てさせないで、って言ったのは、あなたです」
少女は、目をぱちぱちさせた。
それから、ぷっと吹き出した。
「……ずるい。それ、わたしの理屈」
少女はパンを受け取り、小さな口でかじった。健司も、残りの半分をかじった。固くて、ぼそぼそしていて、噛むたびに顎が痛んだ。
二人とも、しばらく黙ってパンを噛んでいた。
「ルイーズ」
パンを飲み込んでから、少女が言った。
「わたしの名前。ルイーズ。でも、ルルでいいよ。スラムにいたころから、ずっとそう呼ばれてたから」
「ルル、さん」
「さんも、いらないんだけどな」
ルルは、くすりと笑った。
昼間、五人の大人を相手に一歩も引かなかった少女と、同じ顔とは思えなかった。笑うと、年相応の、どこにでもいる女の子に見えた。
ルルの目が、ふと健司の手元で止まった。
「手、見せて」
鉄の輪の下で、手首の皮膚が裂けて、まだ血がにじんでいた。鎖が動くたびに、そこがこすれる。
ルルは、パンを包んでいたハンカチを広げると、鉄格子の隙間から手を差し入れた。鉄の輪と手首のあいだに、ハンカチをそっと押し込んで、くるりと巻きつける。
「汚れますよ」
「ハンカチは、汚れるためにあるの」
ルルは、器用に端を結んだ。
「スラムにいたころ、しょっちゅう怪我してたから。巻くのだけは、得意なんだ」
もう片方の手首には、自分の白い襟元から赤いリボンをほどいて、同じように巻いた。
「それは」
「いいの。こっちのほうが似合う」
鎖が動いても、もう手首はこすれなかった。
「ねえ、ケンジさんは、どこから来たの?」
ルルが、鉄格子に顔を寄せた。
「その服、見たことない。この辺りの人じゃないよね」
健司は、自分の着ているものを見下ろした。焼け焦げて、血と泥にまみれた、部屋着のスウェット。
「……遠いところから、です」
「遠いところ。どれくらい? 本に載ってるところ?」
「たぶん、どの本にも載ってないと思います」
ルルの金色の瞳が、焚き火の明かりを受けて、ぱっと輝いた。
「……それ、すごく気になる」
本気で言っているのだと、わかった。怖がるでもなく、疑うでもなく、ただ知りたがっている顔だった。
健司は、なぜか少しだけ、研究室の後輩たちを思い出した。わからないことを見つけたときの、あの顔だ。
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「明日の朝、王都に向けて出発するの」
パンを食べ終えたルルが、膝を抱え直して言った。
「着くまで、五日くらい。着いたら、魔法裁判にかけられる。王様の前で、女神様に誓って、本当のことを話すの」
女神様。
健司の頭に、ちゃぶ台の上で胸を張っていた、調子のいい女神の顔が浮かんだ。
誓いの相手が、あの女神なのかどうかはわからない。わからないけれど、あの能天気な笑顔を思い浮かべると、喉の奥が詰まった。
本当のこと。
魔物の群れが来た。火で追い払おうとした。マナの値がわからなかった。気づいたら、村が消えていた。
どれも本当だ。けれど、どれを並べても、言い訳にしか聞こえない気がした。
本当のことは、ひとつしかない。
健司は、手首に巻かれたハンカチと、赤いリボンを見下ろした。
この子は、何も聞かずに食べ物を分けてくれた。魔法ではない水を持ってきてくれた。傷に、自分のハンカチとリボンを巻いてくれた。
この子にだけは、嘘をつきたくなかった。
誰にも言えなかったことを、この子にだけは、聞いてほしかった。
「……ルルさん」
「うん」
「僕が、やりました」
声は、思っていたよりもはっきりと出た。
「あの村を焼いたのは、僕です」
ルルは、動かなかった。
焚き火のはぜる音が、やけに大きく聞こえた。遠くの天幕から、誰かの笑い声が響いてくる。
ルルの視線が健司から離れ、闇の向こうの焼け跡へ向いた。それから、またゆっくりと健司に戻ってきた。
金色の瞳に、怯えはなかった。怒りも、なかった。
「どうやって?」
静かな声だった。
「あなたからは、魔力をほとんど感じない。砂を溶かすほどの火なんて、あなたに出せるとは思えない」
「……信じてもらえないと思いますけど」
健司は、空になった椀を見下ろした。
「女神から、力をもらったんです。『全能』という、なんでもできる力を。ただ、それを使うには、世界に説明しないといけない。何が、どういう仕組みで起きるのか。全部、筋道を立てて」
口に出してみると、自分でもひどく馬鹿げた話に聞こえた。それでも、止まらなかった。
「あの夜、魔物を火で追い払おうとしました。でも、説明しきれなかった。マナというものを、僕は知らなかったんです。時間が切れて、火が勝手に、どんどん大きくなって」
鎖が、小さく鳴った。自分の手が震えているのだと、遅れて気づいた。
「助けたかったんです。……でも、そんなの、関係ない。やったのは、僕です」
声が、かすれた。
「村の子が……ニナが、笑ってたんです。昨日まで」
それ以上は、言葉にならなかった。
ルルは、長いあいだ黙っていた。眉がほんの少しだけ寄っている。健司の言葉を、ひとつずつ拾い上げて、確かめているような顔だった。
やがて、小さく息を吐いた。
「……ごめん。正直に言うとね、よくわからない」
ルルは、困ったように笑った。
「女神様から力をもらったとか、世界に説明するとか。そんな話、どの本でも読んだことない」
それは、そうだろう。健司は、うつむいた。
「でも」
鉄格子の隙間から、小さな手が伸びてきた。震えている健司の手の甲に、そっと重なる。
冷たい夜気の中で、その手だけが、あたたかかった。
「大変だったね」
胸の奥で、何かがほどけた。
責められると思っていた。笑われるか、気味悪がられるか、そのどれかだと思っていた。
わからない、と言いながら、この子はそれでも、自分の話を最後まで聞いてくれた。
健司は、声を殺して泣いた。ルルの手は、そのあいだずっと、健司の手の上にあった。
「教えてくれて、ありがとう」
しばらくして、ルルが言った。
「わからないところは、いつか、わかるまで聞かせて。わたし、待つのは得意だから」
ルルは立ち上がり、ローブについた土を払った。空になった椀と革袋を、大事そうに抱える。
「おやすみなさい、ケンジさん」
「……おやすみなさい」
小さな背中が、檻の前を離れていった。
見張りの兵士が、星を数えるのをやめて、ルルに小さく頭を下げた。
健司は、鉄格子越しに、その背中を目で追った。
ルルは、野営地の真ん中の焚き火には向かわなかった。中隊長たちの天幕の明かりを遠巻きに避けるようにして、隊列の後ろのほうへ歩いていく。
その先にあるのは、荷物を積んだ荷馬車だった。
ルルは慣れた様子で荷台によじのぼると、木箱と麦の袋のあいだに体を丸めて、横になった。
隊長、と呼ばれていたはずの少女だった。
健司は、しばらくその荷馬車から目を離せなかった。
檻の中で、ルルが夕食を持ってきてくれました。
ここで、健司は初めて本当のことを話します。
ブックマーク、よろしくお願いします。
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