↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『全能』  作者: 朝霧なぎ
1章 リジェクト
8/28

『全能』1章8話 七色の賢者(8)

『全能』第8話

 

 咳が、止まらなかった。


 肺の奥に残った水を吐き出すたびに、喉が焼けるように痛んだ。息を吸おうとすると、また咳き込む。そのたびに、手首と足首の石が肉に食い込んだ。


 にじんだ視界の端で、少女が膝をついた。編み上げの黒い長靴が、灰を踏んでいた。


 帽子のつばの下から、金色の瞳がこちらをのぞきこんでいる。近くで見ると、思っていたよりもずっと幼い顔だった。


 帽子の帯には、金色の小さな飾りが留められている。白い襟元に結ばれた赤いリボンが、黒いローブの中で、そこだけ少女らしかった。


 少女は、健司の手首を縛る石に、そっと指先をのせた。


 石が、さらさらと崩れた。


 音ひとつ立てずに、ただの砂に戻っていく。少女の指が足首に移ると、そちらの石も同じように崩れて、地面にこぼれた。


 輪の中で、岩のような大男が、わずかに眉を動かした。


「隊長殿」


 ガスパールの声が、低く響いた。


「その男は、村をひとつ焼いた罪人だ。勝手な真似は困る」


「罪人かどうかは、まだ誰にもわかりません」


 少女は、振り向きもせずに答えた。


「それに、もう逃げられる体ではないでしょう。あなた方が、そうしたのですから」


 少女の指先に、小さな白い光がともった。光はゆっくりと健司の上を動き、胸の焦げ跡や、裂けた手首を照らしていく。


 少女の唇が、小さく動いた。ひどい、と言ったように見えた。


 少女は、手のひらを上に向けた。そこに、澄んだ水が湧きあがる。


 健司の体が、びくりと跳ねた。


 水。さっきまで頭を包んでいた、冷たい水。息ができない。肺が焼ける。


 少女の手が、ぴたりと止まった。


「……ごめんなさい」


 手のひらの水が、すっと消えた。


「水は、嫌ですよね」


 少女は自分のローブの袖で、健司の顔についた泥と血を、そっとぬぐった。袖口に走る深い紅色のラインが、みるみる汚れて黒ずんでいく。少女は、気にするそぶりも見せなかった。


「お名前を、聞いてもいいですか」


 健司は、少女を見上げた。


 答えるつもりはなかった。ガスパールに聞かれたときも、答えなかった。


 それなのに、乾いた唇が勝手に動いていた。


「……谷村、健司」


「タニムラ、ケンジ」


 少女は、確かめるように繰り返した。


「ケンジさん。変わった響きのお名前ですね」


 ほんの少しだけ、少女の目元がやわらいだ気がした。


「ほう」


 ガスパールが、鼻を鳴らした。


「我々には口もきかなかった男が、小娘には名乗るか」


「あなた方は、答えを待たずに、雷を浴びせたのでしょう」


 少女は、立ち上がった。腰に下げた儀式用のレイピアが、飾り彫りの鞘の中でかすかに鳴った。


 立ち上がっても、ガスパールの胸のあたりまでしか届かない。それでも少女は、見上げることを少しも恐れていないようだった。


「フランベル中隊長。王国の軍規は、捕らえた者への拷問を禁じています」


「拷問ではない。取り調べだ」


「水で溺れさせ、雷で焼くことを、取り調べとは呼びません」


 少女の声は、静かだった。けれど一言ごとに、冷たく研がれていくようだった。


「ここで何が起きたのか、まだ誰も知りません。この人から事情を聞くまでは、何もわからないはずです。事情も聞かずに、罪人と決めつけることはできません」


 健司は、その小さな背中を見ていた。


 違う。


 声にならない声が、胸の奥でもがいた。


 違うんだ。やったのは、自分だ。この子は何も知らないまま、村を焼いた男をかばおうとしている。


 かばわれる資格なんて、ない。


「……すみません」


 声が、こぼれた。


 少女が、はっと振り返った。金色の瞳が、大きく見開かれている。


 何に謝ったのか、自分でもわからなかった。かばわせてしまったことか。村のことか。それとも、全部か。


 少女の唇が、何かを言いかけた。


 その声を聞く前に、健司の意識は、ふっと途切れた。


 ----------------


 すみません、と、その人は言った。


 それきり、目を閉じてしまった。胸がかすかに上下している。気を失っただけだ。


 ルルは、小さく息をついた。


 何に、謝ったのだろう。


 兵士にも、中隊長たちにも、この人は一言も口をきかなかったらしい。それなのに、自分には名前を教えて、謝った。


 わからない。わからないことは、きちんと調べなければいけない。本でも、人でも、それは同じだ。


「さて、隊長殿」


 ガスパールが、外套の灰を払いながら言った。


「ひとつ聞いておきたい。後ろの荷馬車にいたはずのあなたが、なぜここにいる。誰が知らせた」


 輪の端で、あの若い兵士の顔から、すうっと血の気が引いていくのが見えた。


 ルルは、ガスパールに向き直った。


「音が、聞こえましたから」


 嘘ではなかった。若い兵士が駆けてくる前に、たしかに風に乗って、何かが弾ける乾いた音が届いていた。雷の音だ。あれを聞き違えるほど、ルルは鈍くない。


「本を読んでいても、耳はふさいでいませんので」


 ガスパールはしばらくルルを見下ろしていたが、やがて興味をなくしたように目をそらした。輪の端で、若い兵士がそっと胸をなでおろす。


 ゆうべの火柱のことは、口にしなかった。口にすれば、誰から聞いたのかを問われる。聞きたいことは、あとでいくらでも聞ける。


「なんでもいいさ」


 セザールが、肩をすくめて笑った。


「どうせ、七色の賢者様のありがたいお説教が始まるんだろ? 手短に頼むぜ。腹が減ってるんだ」


 七色の賢者。


 王都の人々が、ルルにつけた呼び名だ。七つの属性すべてを扱える、十六歳の天才。けれど、その名を口にするとき、本気で敬っている者などいない。


 七つすべてに手を出して、どれひとつ極められない、器用なだけのスラム上がり。そういう意味だと、ルルはとうに知っていた。


「お説教ではありません。確認です」


 ルルは、焼け跡を振り返った。


 ガラスのように固まった地面。溶けて垂れ下がった鉄の塊。その向こうに、小さな塚がひとつ。


「この地面は、砂が溶けています。鉄も溶けています。それだけの火を出せる人が、なぜ逃げもせずに、素手で墓を掘っていたのですか」


「罪の意識だろうよ。殊勝なことだ」


 ガスパールが、鼻で笑った。


「でしたら、なおさら事情を聞くべきです。それに」


 ルルは、地面に横たわる人を見た。


「この人からは、魔力をほとんど感じません。村をひとつ焼き払えるような力は、どこにも」


 一瞬、輪の中が静まった。


 それを破ったのは、くすくすという笑い声だった。


「隊長殿は、お優しいのね」


 ソランジュだった。自分の周りに小さな風をまとわせて灰を払いながら、薄く笑っている。


「スラムでは、汚れたものの見分け方を教わらなかったのかしら。魔力を隠す術くらい、いくらでもあるわ」


 ルルは、表情を変えなかった。


 変えないことには、慣れていた。


「ブリゼール中隊長。隠す術があることと、この人が隠していることは、別の話です」


「まあまあ」


 コラリーが、両手を胸の前で合わせた。


「わたくしは、隊長のお考えも素敵だと思いますわ。ただ、お話を聞こうにも、この方、ちっとも話してくださらないんですもの」


「メルヴァーグ中隊長」


 ルルは、コラリーを見た。


「あなたは、あと何秒で彼の息が止まるか、わかっていましたか」


「ええ、もちろん」


 コラリーは、にこりと笑った。


「わたくし、水のことでしたら、なんでもわかりますもの」


 ローブの陰で、ルルの指先がきつく握りこまれた。


「もういい」


 ガスパールが、片手を上げた。


「軍規第十四条。隊の進退に関わる判断は、隊長および中隊長の合議により、多数をもって決する」


 すらすらと条文を読み上げる。その条文なら、ルルもよく知っていた。軍規は、最初の一枚から最後の一枚まで、全部読んである。


 だからこそ、この先どうなるのかも、わかっていた。


「巡回を切り上げ、この男を王都へ送還する。魔法裁判にかけ、陛下のご判断を仰ぐ。賛成の者は」


 三本の手が、すぐに上がった。


 セザールは面白そうに。ソランジュは退屈そうに。コラリーは、にこやかに。ガスパール自身も、ゆっくりと手を上げた。


 ひとつだけ、遅れた手があった。


「グレヴィエール」


 ガスパールに名を呼ばれても、岩のような大男は、自分の手のひらを見つめていた。そこには、ルルが崩した石の名残が、ひとつまみの砂になってこびりついている。


 大男は、ちらりとルルを見た。何かを確かめるような目だった。


 それから、黙って手を上げた。


「五対一だ」


 勝ち誇るでもなく、ガスパールは言った。わかりきった答えを読み上げるような声だった。


「明朝、王都へ発つ。罪人は護送用の檻に入れておけ。水も食事も要らん。裁判までもてばいい」


「決定には、従います」


 ルルは言った。


 中隊長たちが、拍子抜けしたような顔をした。セザールが、つまらなそうに口をとがらせる。


「ですが」


 ルルは、一歩前に出た。


 小さな体から、声だけが鋭く伸びた。


「隊長として、命じます。王都に着くまで、この人に指一本触れることを禁じます。もし誰かが、もう一度この人に魔法を向けたら」


 金色の瞳が、五人を見渡した。


「わたしが、その魔法を消します。今日、水の球をほどいたように。何度でも」


 誰も、すぐには答えなかった。


 焼け跡を渡る風だけが、黒いローブの裾を揺らしていた。


「……好きにしろ」


 ガスパールが外套をひるがえし、背を向けた。ほかの中隊長たちも、それぞれに散っていく。最後まで残っていた大男が、ルルの横を通り過ぎるとき、ほんの一瞬だけ足を止めた気がした。


 けれど、何も言わずに去っていった。


 ----------------


 日が沈むと、兵士たちは野営の火を囲みはじめた。


 ルルのもとにも、夕食の椀が運ばれてきた。黒いパンがひとつと、豆のスープ。兵士たちと同じ、いつもの食事だ。


 中隊長たちの天幕は、野営地の真ん中に張られている。隊長であるはずのルルの寝床は、今夜も荷物と一緒の、この荷台だった。


 荷台に腰かけて、ルルはスープを半分だけ飲んだ。パンを、ふたつにちぎる。片方を食べ終えて、もう片方を口に運びかけたところで、手が止まった。


 野営地の外れに、鉄格子のついた荷馬車が一台、ぽつんと置かれている。あの人は、まだ眠っているのだろうか。


 すみません、という小さな声が、まだ耳に残っていた。


 水も食事も要らん。


 そう言い捨てたガスパールの声も。


 ルルは、残ったパンを、ハンカチにそっと包んだ。


 小さく、お腹が鳴った。


 ルルは、聞こえなかったことにした。


 それから、半分になったスープの椀を、こぼさないように両手で持ち上げた。


ルルが登場しました。


隊長として、中隊長たちに一歩も引かない姿です。


ブックマークしてもらえると励みになります。


2章以降は19時30分ごろ毎日更新予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。