『全能』1章8話 七色の賢者(8)
『全能』第8話
咳が、止まらなかった。
肺の奥に残った水を吐き出すたびに、喉が焼けるように痛んだ。息を吸おうとすると、また咳き込む。そのたびに、手首と足首の石が肉に食い込んだ。
にじんだ視界の端で、少女が膝をついた。編み上げの黒い長靴が、灰を踏んでいた。
帽子のつばの下から、金色の瞳がこちらをのぞきこんでいる。近くで見ると、思っていたよりもずっと幼い顔だった。
帽子の帯には、金色の小さな飾りが留められている。白い襟元に結ばれた赤いリボンが、黒いローブの中で、そこだけ少女らしかった。
少女は、健司の手首を縛る石に、そっと指先をのせた。
石が、さらさらと崩れた。
音ひとつ立てずに、ただの砂に戻っていく。少女の指が足首に移ると、そちらの石も同じように崩れて、地面にこぼれた。
輪の中で、岩のような大男が、わずかに眉を動かした。
「隊長殿」
ガスパールの声が、低く響いた。
「その男は、村をひとつ焼いた罪人だ。勝手な真似は困る」
「罪人かどうかは、まだ誰にもわかりません」
少女は、振り向きもせずに答えた。
「それに、もう逃げられる体ではないでしょう。あなた方が、そうしたのですから」
少女の指先に、小さな白い光がともった。光はゆっくりと健司の上を動き、胸の焦げ跡や、裂けた手首を照らしていく。
少女の唇が、小さく動いた。ひどい、と言ったように見えた。
少女は、手のひらを上に向けた。そこに、澄んだ水が湧きあがる。
健司の体が、びくりと跳ねた。
水。さっきまで頭を包んでいた、冷たい水。息ができない。肺が焼ける。
少女の手が、ぴたりと止まった。
「……ごめんなさい」
手のひらの水が、すっと消えた。
「水は、嫌ですよね」
少女は自分のローブの袖で、健司の顔についた泥と血を、そっとぬぐった。袖口に走る深い紅色のラインが、みるみる汚れて黒ずんでいく。少女は、気にするそぶりも見せなかった。
「お名前を、聞いてもいいですか」
健司は、少女を見上げた。
答えるつもりはなかった。ガスパールに聞かれたときも、答えなかった。
それなのに、乾いた唇が勝手に動いていた。
「……谷村、健司」
「タニムラ、ケンジ」
少女は、確かめるように繰り返した。
「ケンジさん。変わった響きのお名前ですね」
ほんの少しだけ、少女の目元がやわらいだ気がした。
「ほう」
ガスパールが、鼻を鳴らした。
「我々には口もきかなかった男が、小娘には名乗るか」
「あなた方は、答えを待たずに、雷を浴びせたのでしょう」
少女は、立ち上がった。腰に下げた儀式用のレイピアが、飾り彫りの鞘の中でかすかに鳴った。
立ち上がっても、ガスパールの胸のあたりまでしか届かない。それでも少女は、見上げることを少しも恐れていないようだった。
「フランベル中隊長。王国の軍規は、捕らえた者への拷問を禁じています」
「拷問ではない。取り調べだ」
「水で溺れさせ、雷で焼くことを、取り調べとは呼びません」
少女の声は、静かだった。けれど一言ごとに、冷たく研がれていくようだった。
「ここで何が起きたのか、まだ誰も知りません。この人から事情を聞くまでは、何もわからないはずです。事情も聞かずに、罪人と決めつけることはできません」
健司は、その小さな背中を見ていた。
違う。
声にならない声が、胸の奥でもがいた。
違うんだ。やったのは、自分だ。この子は何も知らないまま、村を焼いた男をかばおうとしている。
かばわれる資格なんて、ない。
「……すみません」
声が、こぼれた。
少女が、はっと振り返った。金色の瞳が、大きく見開かれている。
何に謝ったのか、自分でもわからなかった。かばわせてしまったことか。村のことか。それとも、全部か。
少女の唇が、何かを言いかけた。
その声を聞く前に、健司の意識は、ふっと途切れた。
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すみません、と、その人は言った。
それきり、目を閉じてしまった。胸がかすかに上下している。気を失っただけだ。
ルルは、小さく息をついた。
何に、謝ったのだろう。
兵士にも、中隊長たちにも、この人は一言も口をきかなかったらしい。それなのに、自分には名前を教えて、謝った。
わからない。わからないことは、きちんと調べなければいけない。本でも、人でも、それは同じだ。
「さて、隊長殿」
ガスパールが、外套の灰を払いながら言った。
「ひとつ聞いておきたい。後ろの荷馬車にいたはずのあなたが、なぜここにいる。誰が知らせた」
輪の端で、あの若い兵士の顔から、すうっと血の気が引いていくのが見えた。
ルルは、ガスパールに向き直った。
「音が、聞こえましたから」
嘘ではなかった。若い兵士が駆けてくる前に、たしかに風に乗って、何かが弾ける乾いた音が届いていた。雷の音だ。あれを聞き違えるほど、ルルは鈍くない。
「本を読んでいても、耳はふさいでいませんので」
ガスパールはしばらくルルを見下ろしていたが、やがて興味をなくしたように目をそらした。輪の端で、若い兵士がそっと胸をなでおろす。
ゆうべの火柱のことは、口にしなかった。口にすれば、誰から聞いたのかを問われる。聞きたいことは、あとでいくらでも聞ける。
「なんでもいいさ」
セザールが、肩をすくめて笑った。
「どうせ、七色の賢者様のありがたいお説教が始まるんだろ? 手短に頼むぜ。腹が減ってるんだ」
七色の賢者。
王都の人々が、ルルにつけた呼び名だ。七つの属性すべてを扱える、十六歳の天才。けれど、その名を口にするとき、本気で敬っている者などいない。
七つすべてに手を出して、どれひとつ極められない、器用なだけのスラム上がり。そういう意味だと、ルルはとうに知っていた。
「お説教ではありません。確認です」
ルルは、焼け跡を振り返った。
ガラスのように固まった地面。溶けて垂れ下がった鉄の塊。その向こうに、小さな塚がひとつ。
「この地面は、砂が溶けています。鉄も溶けています。それだけの火を出せる人が、なぜ逃げもせずに、素手で墓を掘っていたのですか」
「罪の意識だろうよ。殊勝なことだ」
ガスパールが、鼻で笑った。
「でしたら、なおさら事情を聞くべきです。それに」
ルルは、地面に横たわる人を見た。
「この人からは、魔力をほとんど感じません。村をひとつ焼き払えるような力は、どこにも」
一瞬、輪の中が静まった。
それを破ったのは、くすくすという笑い声だった。
「隊長殿は、お優しいのね」
ソランジュだった。自分の周りに小さな風をまとわせて灰を払いながら、薄く笑っている。
「スラムでは、汚れたものの見分け方を教わらなかったのかしら。魔力を隠す術くらい、いくらでもあるわ」
ルルは、表情を変えなかった。
変えないことには、慣れていた。
「ブリゼール中隊長。隠す術があることと、この人が隠していることは、別の話です」
「まあまあ」
コラリーが、両手を胸の前で合わせた。
「わたくしは、隊長のお考えも素敵だと思いますわ。ただ、お話を聞こうにも、この方、ちっとも話してくださらないんですもの」
「メルヴァーグ中隊長」
ルルは、コラリーを見た。
「あなたは、あと何秒で彼の息が止まるか、わかっていましたか」
「ええ、もちろん」
コラリーは、にこりと笑った。
「わたくし、水のことでしたら、なんでもわかりますもの」
ローブの陰で、ルルの指先がきつく握りこまれた。
「もういい」
ガスパールが、片手を上げた。
「軍規第十四条。隊の進退に関わる判断は、隊長および中隊長の合議により、多数をもって決する」
すらすらと条文を読み上げる。その条文なら、ルルもよく知っていた。軍規は、最初の一枚から最後の一枚まで、全部読んである。
だからこそ、この先どうなるのかも、わかっていた。
「巡回を切り上げ、この男を王都へ送還する。魔法裁判にかけ、陛下のご判断を仰ぐ。賛成の者は」
三本の手が、すぐに上がった。
セザールは面白そうに。ソランジュは退屈そうに。コラリーは、にこやかに。ガスパール自身も、ゆっくりと手を上げた。
ひとつだけ、遅れた手があった。
「グレヴィエール」
ガスパールに名を呼ばれても、岩のような大男は、自分の手のひらを見つめていた。そこには、ルルが崩した石の名残が、ひとつまみの砂になってこびりついている。
大男は、ちらりとルルを見た。何かを確かめるような目だった。
それから、黙って手を上げた。
「五対一だ」
勝ち誇るでもなく、ガスパールは言った。わかりきった答えを読み上げるような声だった。
「明朝、王都へ発つ。罪人は護送用の檻に入れておけ。水も食事も要らん。裁判までもてばいい」
「決定には、従います」
ルルは言った。
中隊長たちが、拍子抜けしたような顔をした。セザールが、つまらなそうに口をとがらせる。
「ですが」
ルルは、一歩前に出た。
小さな体から、声だけが鋭く伸びた。
「隊長として、命じます。王都に着くまで、この人に指一本触れることを禁じます。もし誰かが、もう一度この人に魔法を向けたら」
金色の瞳が、五人を見渡した。
「わたしが、その魔法を消します。今日、水の球をほどいたように。何度でも」
誰も、すぐには答えなかった。
焼け跡を渡る風だけが、黒いローブの裾を揺らしていた。
「……好きにしろ」
ガスパールが外套をひるがえし、背を向けた。ほかの中隊長たちも、それぞれに散っていく。最後まで残っていた大男が、ルルの横を通り過ぎるとき、ほんの一瞬だけ足を止めた気がした。
けれど、何も言わずに去っていった。
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日が沈むと、兵士たちは野営の火を囲みはじめた。
ルルのもとにも、夕食の椀が運ばれてきた。黒いパンがひとつと、豆のスープ。兵士たちと同じ、いつもの食事だ。
中隊長たちの天幕は、野営地の真ん中に張られている。隊長であるはずのルルの寝床は、今夜も荷物と一緒の、この荷台だった。
荷台に腰かけて、ルルはスープを半分だけ飲んだ。パンを、ふたつにちぎる。片方を食べ終えて、もう片方を口に運びかけたところで、手が止まった。
野営地の外れに、鉄格子のついた荷馬車が一台、ぽつんと置かれている。あの人は、まだ眠っているのだろうか。
すみません、という小さな声が、まだ耳に残っていた。
水も食事も要らん。
そう言い捨てたガスパールの声も。
ルルは、残ったパンを、ハンカチにそっと包んだ。
小さく、お腹が鳴った。
ルルは、聞こえなかったことにした。
それから、半分になったスープの椀を、こぼさないように両手で持ち上げた。
ルルが登場しました。
隊長として、中隊長たちに一歩も引かない姿です。
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