『全能』1章5話 白い場所(5)
『全能』第5話
白い場所だった。
床も壁も天井もない。ただ、どこまでもやわらかな光が満ちていて、その真ん中に、澄んだ水をたたえた泉がひとつあるだけの場所。
神々の住まう、天上の領域。
その泉のほとりで、七彩の女神イリスティーナは、雲でできたクッションに寝そべっていた。
「見た!? ねえ見た今の!」
誰もいない空間に向かって、女神は足をばたばたさせた。
泉の水面には、下界の様子が映っている。荒野のど真ん中で、両手をお椀の形にした男の姿。その周りに、半透明の光る板がいくつも浮かんでいた。
「なにあれ、かっこいい! 光る板がいっぱい! 私の力って、あんな演出あったっけ? まあいいわ、かっこいいし!」
やがて、男の両手に水が溜まり、男はそれを一気に飲み干した。
「ちゃんと水、出せてるじゃない! さっすが私の見込んだ人! やっぱり私の目に狂いはなかったのよ、ふっふーん!」
ひとりで胸を張る。もちろん、誰も答えない。それでも女神は上機嫌だった。
何百年ぶりだろう、こんなに楽しいのは。
信仰を失って、力を失って、気づけば異世界の道端で石ころのように転がっていた。誰にも見向きもされず、蹴られ、空き缶を引っかけられ、泥にまみれていた。
そこへ、あの男が来た。
疲れきった顔で、それでも丁寧に、毎晩毎晩、自分を磨いてくれた。誰にも言えない愚痴を、自分にだけこぼしてくれた。あの三週間、女神は久しぶりに、誰かに必要とされていた。
「ふふん。で、ケンジがこっちで英雄になったら、私の神殿を建ててもらうの。おっきいやつ。お供え物もいーっぱい。それでそれで、毎日ケンジに磨いてもらって……」
ひとりで想像して、ひとりで顔を赤くする。
健司が村を見つけたときも、ニナを受け止めたときも、子供たちと遊んで尻もちをついたときも、女神はずっと泉の前にいた。きゃあきゃあ騒ぎ、手を叩き、時々ひとりでクッションに顔をうずめた。
「ちょっ、なんで走ってんの!? 全能使いなさいよ、全能! あーもう、足つってるじゃない!」
「ぷぷっ、お尻から落ちた。ケンジってば、かっこいいんだか、かっこ悪いんだか」
「あーあ、あんなに楽しそうに笑っちゃって。地球にいたときは、ずーっと死にそうな顔してたのに」
水面に映る健司の笑顔を、女神は指先でつついた。
「よかったね、ケンジ」
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夜。
泉の水面が、赤い光で埋め尽くされた。
「ちょ、ちょっと、なにあれ、多すぎない!?」
女神は跳ね起きた。魔物の群れが、村の柵を越えていく。熊のような大男が火の玉を投げ、傷だらけの男が燃える槍を振り回している。
「がんばれー! そこのひげの人も、傷の人も! あっ、ケンジ! なんで来ちゃったのよ、危ないでしょ!」
水面の中で、健司が燃える薪を突き出し、一匹を追い払った。
「……でも、ちょっとかっこいい」
女神は、ぎゅっと両手を握りしめた。
「いけー! ケンジ、そこよ! 全能で、どかーんと! どかーんとやっちゃいなさい!」
水面の中で、健司が何かを念じた。
その直後、健司の周りに、またあの光る板が開いた。荒野のときより、ずっと多い。
「出た、かっこいいやつ!」
はしゃいだ声を上げてから、女神はふと、水面に顔を近づけた。
今度は、板に書かれた文字が見えた。
【以下の項目について説明を求めます】
「……え?」
女神は、きょとんと首をかしげた。
「説明……? なんで? そんなの、いらないでしょ?」
演出なんかではなかった。
『全能』を使うとき、自分の前にこんなものが出たことは、一度もない。思えばそうなる。それが、女神にとっての『全能』だった。
水面の中で、健司が必死に何かをしゃべっている。燃焼、可燃物、酸化剤。項目が、ひとつずつ緑に変わっていく。
そして、赤い表示が割り込んだ。
【未定義変数:大気中マナ濃度に対する熱量変換率】
「マナなんて、マナでしょ。見ればわかるじゃない。ねえ、ケンジ。それはね、えっと、こう、ふわっとしてて、ぎゅっとしたら、ぼわっと……」
言いかけて、女神は口をつぐんだ。
言葉に、ならなかった。
わかる。マナが何なのか、どう扱えばいいのか、自分にはわかる。考えるまでもなく、息をするように、わかってしまう。
それなのに、どうわかっているのかを、説明できない。
一度も、説明する必要がなかったからだ。
自分が、『全知』を持っているから。
健司には、それがない。
「あ……」
女神の顔から、血の気が引いていった。
「待って。待って待って待って。じゃあ、私があげた力って」
カウントダウンが、減っていく。健司が叫んでいる。キャンセルだ、と。
【目標の達成を優先し、火力を正の方向に自動調整します】
水面が、真っ白に光った。
女神は、悲鳴すら上げられなかった。
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「だ、大丈夫……」
震える声で、女神は呟いた。
「大丈夫よ。戻せばいいの。時間を戻せば、全部なかったことにできるわ。私、女神だもの。全能の女神なんだから」
女神は泉の前に立ち、両手を広げた。
(時を戻して。さっきの、あの火が上がる前まで)
女神の前に、ウィンドウが開いた。
開いたそばから、項目が次々と緑に変わっていく。女神は何も説明していない。それでも、全知の力が、息をするように答えを埋めていく。
いつもは、目に入る前に閉じていたのだ。今になって、女神は初めてそれに気づいた。
【全項目の定義を確認しました】
ほら、できた。女神がほっと息をついた、その瞬間。
【リジェクト:時間軸は負の方向には干渉できません】
「……え?」
赤い文字が、静かに浮かんでいた。
「な、なんでよ! ちゃんと全部説明したじゃない! もう一回!」
【リジェクト:時間軸は負の方向には干渉できません】
「もう一回!」
【リジェクト:時間軸は負の方向には干渉できません】
「ねえ、聞いてるんでしょ! 真理だかなんだか知らないけど、ちょっとくらい融通きかせなさいよ! 私、女神なのよ!?」
泉の水面を叩く。水しぶきが散る。
答えは、返ってこなかった。
「じゃ、じゃあ……みんなを、生き返らせる。時間が戻せないなら、命を戻せばいいのよ。そうよ、それなら」
(あの村の人たちを、元に戻して)
【リジェクト:失われた命の生成は不可能です】
「お願い」
【リジェクト:失われた命の生成は不可能です】
「ニナだけでも。あの子、まだ小さいのよ。ねえ、お願いだから……」
【リジェクト:失われた命の生成は不可能です】
それでも女神はやめなかった。泣きじゃくりながら、何度も何度も、同じことを願った。
返ってくるのは、いつも同じ赤い文字だった。
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女神は、泉のほとりに座り込んでいた。
涙も、もう出なかった。
本当は、わかっていた。
願う前から、答えは自分の中にあった。時は、さかのぼれない。失われた命は、二度と生まれない。神の上には『真理』があり、神はそれを越えられない。全知の女神が、知らないはずがなかった。
ただ、見ないようにしていただけだ。
いつだって、そうだった。考えなくても、わかってしまうから。わかっていることを、わざわざ見つめたことなんてなかった。
だから、知らなかった。
自分が渡した『全能』が、全知なしではどれほど危ういものか。
「私が、あげたんだ」
ぽつりと、声がこぼれた。
「説明しないと使えない力を。説明の仕方も、何ひとつ教えないで」
現実がつらいなら、なんでもできる力をあげる。もう誰にも馬鹿にされないよ。
得意げにそう言った自分の声が、耳の奥で響いた。
細かいことはいいの。私だっていつも、なんとなーくで使えてるし。大丈夫大丈夫。
「なにが、大丈夫よ……」
女神は、膝を抱えた。
「なにが、なんでもできる、よ……」
最初の夜のことを、思い出した。泥まみれの自分を見下ろして、あの人は足を上げた。それから、止めて、下ろした。
止まれる人だった。
その人に、一度始めたら止まらない力を渡したのは、私だ。
泉の水面に、朝の荒野が映っていた。
白みはじめた空の下、焼け跡の手前で、健司が膝をついていた。うなだれたまま、動かない。
今日、教授にまた報告書を押しつけられた。来年、どうしようかな。
三週間、毎晩聞いていた健司の声を思い出す。あのとき女神は、早く答えてあげたかった。もう大丈夫だよ、と言ってあげたかった。
その結果が、これだった。
「ケンジ」
女神は、水面に手を伸ばした。
「ねえ、ケンジってば。顔、上げて」
声は、届かなかった。
冠の七つの石は、どれも光を失っていた。
もう、下界に声を届けるだけの力も残っていなかった。
水面の中で、健司がのろのろと立ち上がった。ふらつく足で、焼け跡の中へ歩いていく。裸足の足が、灰に沈んだ。
そのとき、水面の端で、何かが朝日を跳ね返した。
荒野のずっと向こうで、野営の煙がほどけていく。旗がひるがえり、槍の穂先が並んで光っている。兵士の列が、ゆっくりとこちらへ動きだしていた。
「だめ。ケンジ、逃げて」
女神は、水面を叩いた。しぶきが散るだけで、何も変わらなかった。そのまま、水面に額を押しつけた。
「ごめんね」
誰にも届かない声だった。
「ごめんね、ケンジ」
女神。あたふたしてますね。
自分が使える力が他人も使えるとは限らないのです。
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