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『全能』  作者: 朝霧なぎ
3章 境界条件
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『全能』3章1話 見えない流れ(39)

『全能』第39話


 宿の裏庭で、ルルが健司の胸もとに手のひらをかざした。


「プロテグラ。……今日のぶん」


 指先からこぼれた光が、上着の布目にしみこんでいく。もう、すっかり見慣れた光だった。


 沙汰の日から、五日がたっていた。


 そのあいだに、健司の腕は、ようやく肩の上まで上がるようになった。ルルの荷物には、本が六冊増えた。竜の鱗を、四枚だけ売ったのだという。


「高く売れたんだから!」


 聞いてもいないのに、ルルは胸を張った。


 井戸の縁に腰かけて黒パンをかじっていたミヒャエルが、口を動かしながら、こちらを見ていた。


「それ、毎朝やってんのか」


「毎朝です」


 健司が答えた。


「一日しか、もたないので」


「ふうん」


 ミヒャエルはパンを飲みこむと、借り物の騎士の上着の胸を、親指でさした。


「なあ、ルル姉ちゃん。俺にも、かけてくれよ」


「十万プルの手袋、あげたじゃないですか」


「手袋は、手だけだろ」


 ミヒャエルは、両手を振ってみせた。赤銅色の鱗が、朝の光にちかちかと光った。


「騎士なんだから、鎧を着てください」


 ルルは、振り返りもしなかった。


「鎧は、領地ごと燃えちまったよ」


 ルルの手が、止まった。


 しばらく黙ってから、ルルは小さく息を吐いて、ミヒャエルの前に立った。


「……今日だけですからね。プロテグラ」


 光が、借り物の上着に落ちた。


 ミヒャエルは、口の端を片方だけ上げて、袖をなでた。


「七色の賢者どのの魔法だ。もう、一生脱げねえな」


「明日には、切れます」


 健司は、ミヒャエルの袖を見ていた。


 光は、健司のときより、ずっと早く布の中へ消えた気がした。


 気のせいかもしれなかった。


 ----------------


 玉座の間に呼ばれたのは、その日の昼だった。


 七色の光の下で、三人は膝をついた。


「西だ」


 聖王は、前置きをしなかった。


「闇の国と光の国が、境を接するあたり。そこで、マナの流れが乱れておる。オーブリエールとソンブルヴァルの両家から、知らせが届いた」


 壁ぎわの貴族たちが、顔を見合わせた。


 健司は、膝の上で指を組みなおした。


 マナの、流れ。


 濃さなら、知っている。空気の中のマナは、土地によって混ざりかたが違う。体の中のマナは、空気の中よりずっと濃い。アーベントシュタインの谷では、自分の体を物差しにして、その濃さを比べた。


 けれど、流れ、という言葉は、初めて聞いた。


「何が起きておるのか、その目で見て、正してまいれ」


 それから、聖王の目が、ミヒャエルの上で止まった。


「西には、ルシアンがおる。リュンヌ公は、汝に剣を教えた者であったな」


 ミヒャエルの背中が、わずかに伸びた。


「……はい。剣と、剣に魔法を載せる術を」


「ちょうどよかろう。師の前で、手柄を立ててみせよ」


 回廊に出るなり、健司はルルに聞いた。


「マナは、流れるものなんですか」


「……本で、一行だけ読んだことがある」


 ルルは、歩きながら、記憶をたどるように目を細めた。


「土地のマナは、じっとしてるわけじゃなくて、少しずつ動いてる、って。でも、それ以上のことは、どの本にも書いてなかった。見えないものの流れなんて、誰にも調べようがないもん」


 調べようがない。


 健司は、アーベントシュタインの暗い谷を思い出した。夜の中に立った、光の柱。見えないはずのマナの濃さを、あの夜、光に変えて見えるようにした。


 濃さは、一度、測った。


 流れは、まだ、誰も測ったことがない。


「……ケンジさん」


 ルルが、健司の顔をのぞきこんでいた。


「今、楽しそうな顔してる」


「そうですか」


「してる。研究の話をしてたときの顔」


 うしろで、ミヒャエルが、ふうん、と言った。


 ----------------


 西の門を出たのは、翌朝だった。


 麦畑のあいだを、西へ向かう街道がまっすぐに延びていた。


 ルルは、健司の足もとに手のひらを向けた。


「ブリーズ」


 足首のあたりで風が渦を巻き、健司の体が、握りこぶしひとつぶん浮いた。もう、膝は笑わなかった。


 ルルは自分の足もとにもかけてから、ミヒャエルの前に立った。


「ひとりに、ひとつずつなんです。……ブリーズ」


 ミヒャエルの長靴の底が、土から離れた。


「おお」


 ミヒャエルは、子供みたいな声を上げた。


「浮いてるあいだは、足を動かさないでくださいね」


「動かすと、どうなるんだ」


 ルルが口を開くより先に、健司が言った。


「やってみれば?」


 ルルが、まん丸な目で健司を見た。


 ミヒャエルは、迷わなかった。右足が、風を踏んだ。


 次の瞬間、背の高い騎士が、こまのように回りだした。借り物の上着の裾が、傘のように広がった。


「うおおおっ!」


「あ、ほどきますね!」


 足もとの風が消えて、ミヒャエルは、街道の土の上に尻もちをついた。しばらく、そのまま空を見上げていた。


「……こうなるなら、初めから言ってくれよ」


 健司は、浮いたまま、ミヒャエルを見下ろした。


「言っても、どうせ一回はやってみたでしょう」


 ルルが、吹き出した。


「それ、わたしの台詞!」


 ルルは、お腹を押さえて笑いだした。笑いすぎて、浮いたまま目尻をぬぐっていた。


 ミヒャエルは、尻もちをついたまま、ふたりの顔をかわるがわる見た。


「……なんだよ、ふたりして」


「僕も、一回、やってみたので」


 二度目の「ブリーズ」で浮きあがったミヒャエルは、棒のように立ったまま、指一本動かさなかった。


 景色が、動きだした。


 王の直轄領の西のほうは、麦と牧草の土地だった。南の街道で見た、北へ逃げる荷車の列は、ここにはなかった。草をはむ羊の群れが、浮いて過ぎていく三人を、のんびりと見送った。


 昼の休みに、ルルは串焼きを六本食べた。三人ぶんのブリーズだから、と言った。誰も、何も聞いていなかった。


 午後になって、ミヒャエルが、ぽつりと言った。


「師匠に会うのは、騎士になって国へ帰って以来だ」


 棒のように立ったまま、顔だけを西に向けていた。


「ガキのころから、騎士になるまで、剣はあの人に習った。剣に魔法を載せるやり方もな」


「師匠と、同じ魔法ですか」


「いや。師匠が載せるのは、闇だ。俺は、雷を、勝手に載せてるだけさ」


「どんな方なんですか」


 健司が聞くと、ミヒャエルは、しばらく黙った。


「……会えば、わかるさ」


 それきりだった。口の端は、上がっていなかった。


 ----------------


 その夜は、王の直轄領の西のはずれの町に泊まった。


 宿代は、三人ぶん、ルルが払った。古びた革の本の余白に、新しい名前がひとつ増えた。


「辺境伯になったら、倍にして返すさ」


「本で返してください」


 宿の裏の空き地で、ミヒャエルは、父の剣を抜いた。


 刃は、もう赤黒くなかった。竜の血は、この五日のうちに、ミヒャエルが自分で落としたのだという。根もとの銘が、宿の灯りを受けて、細く光った。


「見てな。首席じゃなかったが、これでも、そこそこやるんだぜ」


 ミヒャエルは、手袋をはめた左手の指を二本そろえて、刃の根もとに当てた。そのまま、切っ先へ向かって、ゆっくりと滑らせた。


 指の通ったあとに、青白い光が残った。光は刃の縁へ這いだして、ぱちぱちと乾いた音を立てた。細い稲妻が、刃の上を、何本も行ったり来たりしている。手袋の鱗が、ひとつずつ、かすかに赤く光っていた。


 健司のうなじの毛が、ちりちりと逆立った。雷雨のあとのような、つんとするにおいがした。


「……この手袋をはめてから、嘘みてえに載りがいいんだ」


「鱗のおかげです」


「そこは、俺の腕だって言ってくれよ」


「雷だけなら、砂時計の三つめくらいですね。学校なら、上のほうです」


「……褒めてんのか、それ」


「褒めてます」


 ルルは、真顔で言った。


 健司は、刃の上を走る光から、目が離せなかった。


「あなたは、しびれないんですか」


「しびれねえよ。しびれたら、使えねえだろ」


「どうして、しびれないんですか」


「どうしてって……」


 ミヒャエルは、困った顔をした。


「しびれねえもんは、しびれねえ。そういうもんだ」


 かければ、かかるの。


 王都の門の外の町で、ルルがそう言ったのを思い出した。この世界の魔法は、いつもそうだ。説明がいらない。いらないから、誰も説明を持っていない。


「ケンジさんの、どうしてが始まった」


 ルルが、小さく笑った。


 ミヒャエルは、剣を軽く振った。青白い光が、宙に細い尾を引いた。


「師匠には、まだまだだって言われたけどな。魔法は、刃に載せるもんじゃねえ。相手に通すもんだ、ってさ。……俺は、載せるので精一杯だ」


 通す。


 健司は、竜の背中を思い出した。剣は、入り口だった。入った雷は、竜の体を抜けて、濡れた砂へ逃げていった。


「出口は、どこですか」


「出口?」


「雷は、入るところと、出ていくところがないと、流れないんです。竜のときも、そうでした」


 ミヒャエルは、しばらく健司の顔を見ていた。それから、剣の光を消した。


「……師匠みてえなこと、言うんだな。あんた」


 剣を鞘に納めながら、ミヒャエルは、ついでのように聞いた。


「広場の空に、でっけえ花が咲いたって話は、牢の中まで聞こえてきた。見張りが、ひと晩じゅう、その話をしてたからな。……あれも、あんたなんだろ」


 健司は、少し迷ってから、うなずいた。


「説明すると、そのとおりに起こせる力があるんです。説明しきれれば、ですけど」


「……さっぱり、わかんねえ」


「わたしも、最初は、そうでした」


 ルルが言った。ミヒャエルは、ルルと健司を見比べて、それ以上は聞かなかった。


 宿に戻る前に、ミヒャエルは、空き地の端で足を止めた。西の空を見ていた。


「師匠に、なんて言われるかな」


「無実だったんですから」


「そっちじゃねえよ」


 ミヒャエルは、右の手袋を外して、手のひらを宿の灯りにかざした。剣だこが、ずいぶん薄くなっていた。


「四か月、剣を握ってねえ。……腕が落ちたって、どやされる」


 西の空の低いところに、細い月がかかっていた。


 リュンヌ。月という意味だと、前にルルが教えてくれた。明日は、その名の領地に入る。


 マナの流れ。見えないものの流れを、どうやって見るか。


 健司は、細い月が沈むまで、そのことを考えていた。


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