『全能』3章2話 半月の街(40)
『全能』第40話
宿の裏の空き地で、ルルが健司の胸もとに手のひらをかざした。
「プロテグラ。……今日のぶん」
指先からこぼれた光が、上着の布目にしみこんでいく。
その横で、ミヒャエルが、借り物の上着の胸を、親指でさしていた。
「ルル姉ちゃん。今日も」
「今日だけって、言いました」
ルルは、振り返りもしなかった。
ミヒャエルは、親指を胸に当てたまま、しばらく固まっていた。
「……きのうの今日だぜ」
「きのうの今日です」
健司は、聞かなかったことにした。
ルルが三つのブリーズをかけ終えるころには、ミヒャエルは、きのう覚えたとおり、棒のように立っていた。
----------------
王の直轄領のはずれを過ぎてしばらく行くと、街道のわきに、背の高い石の柱が立っていた。
柱のてっぺんに、細い月の紋章が刻まれていた。
リュンヌ公爵領だった。
そこから、土地はゆるやかな丘になった。丘という丘を、背の低い木々が覆っている。
風が吹いた。
丘の斜面が、さあっと、銀色に変わった。
健司は、思わず目をこらした。
葉の裏が、白いのだ。森の調査で、何度も見たことがある。葉の裏に細かな毛が密に生えていて、風で葉がひるがえるたびに、斜面じゅうが白く光って見える。
「だから、月の領地なんだって」
ルルが、本から顔を上げて言った。
「夜に風が吹くと、丘が、月の光みたいに光るの。……本で、読んだだけだけど」
風がやむと、丘は、もとの緑に戻った。また吹くと、また銀色になった。
ミヒャエルは、朝から、ほとんど口をきかなかった。棒のように立ったまま、ときどき、手袋をはめた右の手を、握ったり開いたりしていた。
昼の休みに、ルルは、きのうと同じだけ食べた。三人ぶんのブリーズだから、と、きのうと同じことを言った。今日も、誰も、何も聞いていなかった。
午後になって、ルルが、ふいに眉を寄せた。
「……なんか、ざわざわする」
「マナが、ですか」
「わかんない。空気が、落ちつかない感じ」
ルルは、手のひらを上に向けて、しばらく黙っていた。
「アーベントシュタインのときとは、違うの。あそこは、空気が、火と土っぽかった。ここは、濃いとか薄いとかじゃなくて……ざわざわ、してる」
濃さでは、ない何か。
健司は、ゆうべの細い月を思い出していた。流れ、という言葉を。
----------------
日が西に傾くころ、丘のあいだに、大きな川が見えてきた。
川は、丘のふもとで、大きく弧を描いて曲がっていた。その曲がりの内側に、街があった。弧の側は川に守られ、まっすぐな側だけを、石の壁がふさいでいる。上から見たら、きっと、半分に欠けた月の形をしているだろう。
「ドゥミリュヌ。半分の月、っていう意味」
ルルが言った。
川は、曲がりの外側を削り、内側に土を置いていく。何百年もかけて、曲がりは深くなる。いつか、首のところが切れて、取り残された曲がりは、三日月の形の湖になる。
この街は、その途中の、半分の月の上に建っているのだ。
流れは、何百年もかけて、土地に自分の形を残していく。
街の門の前で、ルルはブリーズをほどいた。三人は、自分の足で石畳を歩いて、城へ向かった。
城は、弧のいちばん奥の、川に張り出した岩の上にあった。
城の中庭では、兵士たちが、木剣を打ちあっていた。乾いた音が、いくつも重なって、石の壁に響いている。
その真ん中に、ひとりだけ、木剣を持たずに立っている男がいた。
背は、ミヒャエルより、頭半分ほど低い。そのかわり、肩も胸も、黒い鎧の上からでもわかるほど厚かった。裾のすりきれた黒い外套。白いものの混じった黒い髪。あごに、短いひげ。背中には、幅の広い大剣を負っている。
額から左の頬へ、古い傷が一本、まっすぐに走っていた。その傷の下で、左の目は、閉じたままだった。
開いているのは、右の目だけだった。金色の目だった。
その目が、こちらを向いた。
兵士たちの木剣が、ひとつ、またひとつと、止まった。
ミヒャエルが、ふたりの前に出た。
「……師匠」
ミヒャエルは、男の前に立って、深く頭を下げた。
「ご無沙汰を、しております」
ミヒャエルの声は、玉座の前で聞いたときよりも、硬かった。
リュンヌ公は、何も答えなかった。
背中の大剣を外して、兵士に預けた。かわりに、壁に立てかけてあった木剣を二本取り、一本を、ミヒャエルの足もとへ放った。
木剣が、石畳の上で、からんと鳴った。
「構えろ」
それだけだった。
----------------
兵士たちが、輪になって下がった。健司とルルも、その輪の端に立った。
ミヒャエルは、しばらく、足もとの木剣を見下ろしていた。それから、黙って拾い上げた。
手袋をはめた左手の指を二本そろえて、木の刃の根もとに当てる。切っ先へ向かって、ゆっくりと滑らせる。
青白い光が、木の刃の上を走った。ぱちぱちと、乾いた音が鳴る。手袋の鱗が、ひとつずつ、赤く光った。
リュンヌ公は、指も添えなかった。
木剣を、ただ、握っただけだった。
それだけで、木の刃の根もとから、黒い煙のようなものが、ゆらりと立ちのぼった。煙の奥で、紫がかった光が、ひびのように、刃の先まで走った。
「……触れもしないで」
ルルが、息だけで言った。
健司の首すじが、すっと冷えた。雷のときとは、逆だった。うなじの毛は、逆立たなかった。かわりに、中庭の音が、少しだけ遠くなった気がした。
ミヒャエルが、踏みこんだ。
速かった。木剣が、青白い尾を引いて、何度も打ちこまれる。リュンヌ公は、ほとんど動かなかった。木剣を、ほんの少し傾けるだけで、そのすべてを受けていた。
ミヒャエルが、リュンヌ公の左手へ回りこんだ。閉じた目の側だった。
見えていないはずの側から来た一撃を、リュンヌ公は、振り向きもせずに受けた。
片目では、ものの遠さは、測りにくい。人は、左右の目に映る景色の、わずかなずれから、距離を読んでいる。片方を失えば、そのずれは、なくなる。
それなのに、リュンヌ公の木剣は、一度も、相手を迎えに行かなかった。ミヒャエルの木剣のほうが、いつも、そこへ来ていた。
目で、見ているのではない。健司には、そう見えた。
ミヒャエルが、大きく下がった。肩で息をしていた。
木剣の上の雷が、ひときわ強く鳴った。手袋の鱗が、いっせいに、赤く燃えた。
ミヒャエルが、踏みこんだ。
ふたつの木剣が、打ちあった。
音が、しなかった。
青白い稲妻が、黒い煙に触れた瞬間、吸いこまれるように消えた。火花ひとつ、散らなかった。焦げたにおいも、しなかった。
ミヒャエルの木剣が、押し下げられた。リュンヌ公の木剣の先が、ミヒャエルの喉もとで止まった。
ミヒャエルの膝が、石畳についた。
中庭が、静まりかえった。
健司は、さっきの一瞬を、頭の中でくり返していた。
入り口は、あった。木剣と木剣が、触れたところだ。けれど、出口が、どこにもなかった。雷は、石畳へも、リュンヌ公の体へも、抜けていかなかった。
……どこへ、行ったのだろう。
リュンヌ公が、木剣を下ろした。
その金色の目が、ミヒャエルの手首に落ちた。手袋のふちから、枷の跡が、うっすらとのぞいていた。
しばらく、リュンヌ公は、そこを見ていた。
「……腕は、落ちていないな」
それだけ言って、背を向けた。木剣を兵士に返し、城の中へ入っていった。
ミヒャエルは、膝をついたまま、しばらく顔を上げなかった。
やがて、立ち上がって、木剣の土を払った。
「……な」
健司のほうを見ずに、ミヒャエルは言った。
「会えば、わかるって、言ったろ」
口の端が、片方だけ上がっていた。青い目のふちだけが、少し赤かった。
----------------
夕食は、城の広間だった。
兵士の食事と変わらない、黒パンと、豆の煮込みと、焼いた肉だった。リュンヌ公は、長い卓のいちばん奥で、黙って食べていた。
ルルの皿が空になると、リュンヌ公は、何も言わずに、給仕へ目で合図した。
二皿目が来た。それも空になると、また、目で合図した。
三皿目が来たとき、ルルは、耳まで赤くなった。
「……三人ぶんのブリーズ、なので」
「知っている」
リュンヌ公は、それだけ言って、また黙って食べた。
ミヒャエルが、パンをちぎりながら、横を向いて肩を震わせていた。
食事のあと、健司は、城壁の上に出た。
川が、城の真下を流れていた。弧を描いて、街を抱くように。
先客がいた。
リュンヌ公が、胸壁に手をついて、川を見下ろしていた。外套の裾が、夜風に揺れている。
引き返そうとして、健司は、足を止めた。
「……さっきの雷は、どこへ行ったんですか」
リュンヌ公の右の目が、ゆっくりと、健司のほうへ動いた。
しばらく、何も言わなかった。
「闇は、飲む」
低い声だった。
「光も、雷も、飲みこむ。……飲んだものが、どこへ行くのかは、誰も知らん」
それから、健司の顔を、もう一度見た。
「そんなことを聞いてきたのは、おまえが初めてだ」
健司は、答えなかった。何と答えればいいのか、わからなかった。
リュンヌ公は、また川へ目を戻した。
「兄上が、手もとに置かずに、西へ寄越すか」
ひとりごとのような声だった。
兄上、というのが誰のことかは、健司にもわかった。玉座の間の、あの平らな声の主だ。けれど、その言葉の意味は、わからなかった。
リュンヌ公は、胸壁から手を離した。
「明日、境へ連れていく。……見れば、わかる」
外套の裾をひるがえして、城の中へ戻っていった。
会えば、わかる、とミヒャエルは言った。
見れば、わかる、と師匠は言った。
似ているのは、剣だけではないらしい。
健司は、ひとりで川を見下ろした。
空には、ゆうべより少しだけ太った月が、かかっていた。銀色の光が、黒い水の上で、細かく揺れている。
川の流れなら、こうして、目で見ていられる。
闇に飲まれた雷は、どこへ流れていったのか。見えないものの流れを、どうやって見るか。
足もとで、川は、半分の月の形をした街を抱いたまま、暗い丘のあいだへ流れていった。
ブックマークをいただけると更新がわかりやすいです。☆を付けていただけると励みになります!




