↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『全能』  作者: 朝霧なぎ
3章 境界条件
40/40

『全能』3章2話 半月の街(40)

『全能』第40話


 宿の裏の空き地で、ルルが健司の胸もとに手のひらをかざした。


「プロテグラ。……今日のぶん」


 指先からこぼれた光が、上着の布目にしみこんでいく。


 その横で、ミヒャエルが、借り物の上着の胸を、親指でさしていた。


「ルル姉ちゃん。今日も」


「今日だけって、言いました」


 ルルは、振り返りもしなかった。


 ミヒャエルは、親指を胸に当てたまま、しばらく固まっていた。


「……きのうの今日だぜ」


「きのうの今日です」


 健司は、聞かなかったことにした。


 ルルが三つのブリーズをかけ終えるころには、ミヒャエルは、きのう覚えたとおり、棒のように立っていた。


 ----------------


 王の直轄領のはずれを過ぎてしばらく行くと、街道のわきに、背の高い石の柱が立っていた。


 柱のてっぺんに、細い月の紋章が刻まれていた。


 リュンヌ公爵領だった。


 そこから、土地はゆるやかな丘になった。丘という丘を、背の低い木々が覆っている。


 風が吹いた。


 丘の斜面が、さあっと、銀色に変わった。


 健司は、思わず目をこらした。


 葉の裏が、白いのだ。森の調査で、何度も見たことがある。葉の裏に細かな毛が密に生えていて、風で葉がひるがえるたびに、斜面じゅうが白く光って見える。


「だから、月の領地なんだって」


 ルルが、本から顔を上げて言った。


「夜に風が吹くと、丘が、月の光みたいに光るの。……本で、読んだだけだけど」


 風がやむと、丘は、もとの緑に戻った。また吹くと、また銀色になった。


 ミヒャエルは、朝から、ほとんど口をきかなかった。棒のように立ったまま、ときどき、手袋をはめた右の手を、握ったり開いたりしていた。


 昼の休みに、ルルは、きのうと同じだけ食べた。三人ぶんのブリーズだから、と、きのうと同じことを言った。今日も、誰も、何も聞いていなかった。


 午後になって、ルルが、ふいに眉を寄せた。


「……なんか、ざわざわする」


「マナが、ですか」


「わかんない。空気が、落ちつかない感じ」


 ルルは、手のひらを上に向けて、しばらく黙っていた。


「アーベントシュタインのときとは、違うの。あそこは、空気が、火と土っぽかった。ここは、濃いとか薄いとかじゃなくて……ざわざわ、してる」


 濃さでは、ない何か。


 健司は、ゆうべの細い月を思い出していた。流れ、という言葉を。


 ----------------


 日が西に傾くころ、丘のあいだに、大きな川が見えてきた。


 川は、丘のふもとで、大きく弧を描いて曲がっていた。その曲がりの内側に、街があった。弧の側は川に守られ、まっすぐな側だけを、石の壁がふさいでいる。上から見たら、きっと、半分に欠けた月の形をしているだろう。


「ドゥミリュヌ。半分の月、っていう意味」


 ルルが言った。


 川は、曲がりの外側を削り、内側に土を置いていく。何百年もかけて、曲がりは深くなる。いつか、首のところが切れて、取り残された曲がりは、三日月の形の湖になる。


 この街は、その途中の、半分の月の上に建っているのだ。


 流れは、何百年もかけて、土地に自分の形を残していく。


 街の門の前で、ルルはブリーズをほどいた。三人は、自分の足で石畳を歩いて、城へ向かった。


 城は、弧のいちばん奥の、川に張り出した岩の上にあった。


 城の中庭では、兵士たちが、木剣を打ちあっていた。乾いた音が、いくつも重なって、石の壁に響いている。


 その真ん中に、ひとりだけ、木剣を持たずに立っている男がいた。


 背は、ミヒャエルより、頭半分ほど低い。そのかわり、肩も胸も、黒い鎧の上からでもわかるほど厚かった。裾のすりきれた黒い外套。白いものの混じった黒い髪。あごに、短いひげ。背中には、幅の広い大剣を負っている。


 額から左の頬へ、古い傷が一本、まっすぐに走っていた。その傷の下で、左の目は、閉じたままだった。


 開いているのは、右の目だけだった。金色の目だった。


 その目が、こちらを向いた。


 兵士たちの木剣が、ひとつ、またひとつと、止まった。


 ミヒャエルが、ふたりの前に出た。


「……師匠」


 ミヒャエルは、男の前に立って、深く頭を下げた。


「ご無沙汰を、しております」


 ミヒャエルの声は、玉座の前で聞いたときよりも、硬かった。


 リュンヌ公は、何も答えなかった。


 背中の大剣を外して、兵士に預けた。かわりに、壁に立てかけてあった木剣を二本取り、一本を、ミヒャエルの足もとへ放った。


 木剣が、石畳の上で、からんと鳴った。


「構えろ」


 それだけだった。


 ----------------


 兵士たちが、輪になって下がった。健司とルルも、その輪の端に立った。


 ミヒャエルは、しばらく、足もとの木剣を見下ろしていた。それから、黙って拾い上げた。


 手袋をはめた左手の指を二本そろえて、木の刃の根もとに当てる。切っ先へ向かって、ゆっくりと滑らせる。


 青白い光が、木の刃の上を走った。ぱちぱちと、乾いた音が鳴る。手袋の鱗が、ひとつずつ、赤く光った。


 リュンヌ公は、指も添えなかった。


 木剣を、ただ、握っただけだった。


 それだけで、木の刃の根もとから、黒い煙のようなものが、ゆらりと立ちのぼった。煙の奥で、紫がかった光が、ひびのように、刃の先まで走った。


「……触れもしないで」


 ルルが、息だけで言った。


 健司の首すじが、すっと冷えた。雷のときとは、逆だった。うなじの毛は、逆立たなかった。かわりに、中庭の音が、少しだけ遠くなった気がした。


 ミヒャエルが、踏みこんだ。


 速かった。木剣が、青白い尾を引いて、何度も打ちこまれる。リュンヌ公は、ほとんど動かなかった。木剣を、ほんの少し傾けるだけで、そのすべてを受けていた。


 ミヒャエルが、リュンヌ公の左手へ回りこんだ。閉じた目の側だった。


 見えていないはずの側から来た一撃を、リュンヌ公は、振り向きもせずに受けた。


 片目では、ものの遠さは、測りにくい。人は、左右の目に映る景色の、わずかなずれから、距離を読んでいる。片方を失えば、そのずれは、なくなる。


 それなのに、リュンヌ公の木剣は、一度も、相手を迎えに行かなかった。ミヒャエルの木剣のほうが、いつも、そこへ来ていた。


 目で、見ているのではない。健司には、そう見えた。


 ミヒャエルが、大きく下がった。肩で息をしていた。


 木剣の上の雷が、ひときわ強く鳴った。手袋の鱗が、いっせいに、赤く燃えた。


 ミヒャエルが、踏みこんだ。


 ふたつの木剣が、打ちあった。


 音が、しなかった。


 青白い稲妻が、黒い煙に触れた瞬間、吸いこまれるように消えた。火花ひとつ、散らなかった。焦げたにおいも、しなかった。


 ミヒャエルの木剣が、押し下げられた。リュンヌ公の木剣の先が、ミヒャエルの喉もとで止まった。


 ミヒャエルの膝が、石畳についた。


 中庭が、静まりかえった。


 健司は、さっきの一瞬を、頭の中でくり返していた。


 入り口は、あった。木剣と木剣が、触れたところだ。けれど、出口が、どこにもなかった。雷は、石畳へも、リュンヌ公の体へも、抜けていかなかった。


 ……どこへ、行ったのだろう。


 リュンヌ公が、木剣を下ろした。


 その金色の目が、ミヒャエルの手首に落ちた。手袋のふちから、枷の跡が、うっすらとのぞいていた。


 しばらく、リュンヌ公は、そこを見ていた。


「……腕は、落ちていないな」


 それだけ言って、背を向けた。木剣を兵士に返し、城の中へ入っていった。


 ミヒャエルは、膝をついたまま、しばらく顔を上げなかった。


 やがて、立ち上がって、木剣の土を払った。


「……な」


 健司のほうを見ずに、ミヒャエルは言った。


「会えば、わかるって、言ったろ」


 口の端が、片方だけ上がっていた。青い目のふちだけが、少し赤かった。


 ----------------


 夕食は、城の広間だった。


 兵士の食事と変わらない、黒パンと、豆の煮込みと、焼いた肉だった。リュンヌ公は、長い卓のいちばん奥で、黙って食べていた。


 ルルの皿が空になると、リュンヌ公は、何も言わずに、給仕へ目で合図した。


 二皿目が来た。それも空になると、また、目で合図した。


 三皿目が来たとき、ルルは、耳まで赤くなった。


「……三人ぶんのブリーズ、なので」


「知っている」


 リュンヌ公は、それだけ言って、また黙って食べた。


 ミヒャエルが、パンをちぎりながら、横を向いて肩を震わせていた。


 食事のあと、健司は、城壁の上に出た。


 川が、城の真下を流れていた。弧を描いて、街を抱くように。


 先客がいた。


 リュンヌ公が、胸壁に手をついて、川を見下ろしていた。外套の裾が、夜風に揺れている。


 引き返そうとして、健司は、足を止めた。


「……さっきの雷は、どこへ行ったんですか」


 リュンヌ公の右の目が、ゆっくりと、健司のほうへ動いた。


 しばらく、何も言わなかった。


「闇は、飲む」


 低い声だった。


「光も、雷も、飲みこむ。……飲んだものが、どこへ行くのかは、誰も知らん」


 それから、健司の顔を、もう一度見た。


「そんなことを聞いてきたのは、おまえが初めてだ」


 健司は、答えなかった。何と答えればいいのか、わからなかった。


 リュンヌ公は、また川へ目を戻した。


「兄上が、手もとに置かずに、西へ寄越すか」


 ひとりごとのような声だった。


 兄上、というのが誰のことかは、健司にもわかった。玉座の間の、あの平らな声の主だ。けれど、その言葉の意味は、わからなかった。


 リュンヌ公は、胸壁から手を離した。


「明日、境へ連れていく。……見れば、わかる」


 外套の裾をひるがえして、城の中へ戻っていった。


 会えば、わかる、とミヒャエルは言った。


 見れば、わかる、と師匠は言った。


 似ているのは、剣だけではないらしい。


 健司は、ひとりで川を見下ろした。


 空には、ゆうべより少しだけ太った月が、かかっていた。銀色の光が、黒い水の上で、細かく揺れている。


 川の流れなら、こうして、目で見ていられる。


 闇に飲まれた雷は、どこへ流れていったのか。見えないものの流れを、どうやって見るか。


 足もとで、川は、半分の月の形をした街を抱いたまま、暗い丘のあいだへ流れていった。


ブックマークをいただけると更新がわかりやすいです。☆を付けていただけると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。