『全能』2章14話 夕べの石の子(37)
『全能』第37話
ブレドールから王都までは、ブリーズで二日だった。
コンラートは、もう足を動かさなかった。浮いたまま紙の束を抱え、流れていく麦畑に、ときどき遠眼鏡を向けている。
ヴェルポンの南の門は、三人が近づくと、何も言わないうちに開いた。門の上で、関所の隊長が、深く頭を下げた。
砦では、エクラ公が待っていた。
布をほどいた剣を、エクラ公は、長いあいだ黙って見ていた。刃にこびりついた、赤黒く乾いた血。柄頭の、山の向こうに沈む日と、ひとつの石の紋章。
「……あの子の剣だね」
それだけ言うと、エクラ公は机に向かい、短い書状をしたためた。封じ目に、金色の紋章が押された。
「陛下へ。私からも、ひと言だけ添えておこう」
書状を受け取ったルルに、エクラ公は、ほんの少しだけ目を細めた。
「よく、戻ったね。ルイーズ殿」
その夜、橋のそばの古い宿で、健司が水を飲みに階段を下りていくと、食堂の隅の灯りの下で、ルルが針を動かしていた。
膝の上に、赤銅色の鱗が並んでいた。
健司に気づくと、ルルは、布ごと胸に抱えこんだ。
「……まだ、ないしょ」
「まだ、ですか」
「まだ」
ルルは、そっぽを向いた。耳まで、赤かった。
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王都に着いた翌朝、三人は、玉座の間に呼ばれた。
高い天井。玉座の背後の壁に彫りこまれた、見上げるほど大きな女神の像。その上を、七色の光が斜めに横切っている。玉座の一段下に、三人の審問官。壁ぎわには、貴族たちが息をひそめていた。
三人は、玉座の前に膝をついた。
「申せ」
聖王の声が、高い天井に響いた。
「アーベントシュタイン領で、何が起きたのかを、ご報告いたします」
ルルの声は、人前のルルの声だった。
滅びたのは、川上の領都と、山側の町や村。襲ったのは、ワイバーンの群れと、一頭の若い竜。竜は、今も領都の谷を縄張りにしている。ルルは、見てきたことだけを、ひとつずつ並べていった。
「この者は、領都で竜を調べていた学者、コンラートにございます。竜の来たその日を、自分の目で見ております」
聖王は、しばらくコンラートを見下ろしていた。それから、扉のほうへ目をやった。
「辺境伯の息子を、ここへ」
重い扉が開いた。
鎖の鳴る音がした。
兵士ふたりに挟まれて入ってきたのは、背の高い若い男だった。伸び放題の亜麻色の髪とひげ。すりきれた服。手首と足首に、鉄の枷。頬はこけていたが、背筋だけは、まっすぐに伸びていた。
男は、壁ぎわの貴族たちを、面白そうに見回した。口の端が、片方だけ上がっている。
その目が、膝をつくコンラートの背中で止まった。
口の端が、下りた。
「……先生?」
「坊」
コンラートは、振り返らずに答えた。
ミヒャエルは、兵士に肩を押されて、三人の少し後ろに膝をついた。鎖が、石の床で鳴った。
「申せ、学者」
コンラートは、ひとつ咳払いをした。
「竜は、百年に一度、同じ年に、いっせいに卵を産むのでございます。子は三十で、親の縄張りを追われる。今年が、その巣立ちの年でございました」
慣れない言葉づかいで、コンラートは話しはじめた。
山に空きがなければ、若い竜は、山すそまで降りてくるしかない。ワイバーンの群れは、降りてくる竜に追われて、先に町へなだれこんだ。四十年の記録に、百年前の古い記録に、そう書いてある。
「竜は、人の言うことなぞ、聞きません」
コンラートの声が、だんだん、いつもの声に戻っていった。
「王の言うことも、神の言うことも、じゃ」
壁ぎわが、ざわめいた。
眉間に深いしわを刻んだ審問官が、一歩前に出かけた。
「無礼な」
「よい」
聖王が、片手を上げた。
「続けよ」
コンラートは、続けた。
辺境伯は、騎士団を率いて城の壁で戦った。息子は、竜の脇腹に剣を突き立てた。辺境伯は息子に、王都へ行け、救援を呼んでこい、と言った。
「そして、その夜、辺境伯様は、城で亡くなられました」
鎖が、小さく鳴った。
健司の斜めうしろで、ミヒャエルがうつむいていた。表情は見えなかった。
「……そうか」
かすれた声が、床に落ちた。
「残ったか。親父は」
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「陛下。証の品を、お持ちしました」
ルルの声で、健司は、膝の前に置いていた包みを、両手で持ち上げた。腕は、まだ少し震えた。
布を、ほどいた。
玉座の間が、静まった。
刃は、根もとから切っ先まで、赤黒く乾いた血に覆われていた。柄頭には、山の向こうに沈む日と、その手前に立つ、ひとつの石。
「竜の脇腹に、刺さっておりました。四か月、ずっと」
ルルが言った。
「竜の血だと、なぜわかる」
しわの深い審問官が、低く言った。
いちばん若い審問官が、黙って進み出た。灰色の目の、ウィギリウスだった。健司の前に膝をつき、刃の血に、そっと指先を触れた。
指が、止まった。
「……濃い」
ウィギリウスは、しばらく自分の指先を見つめていた。
「人の血とは、比べものになりません。これほどマナの濃い血を、わたくしは、知りません」
それから、刃の根もとに顔を寄せた。血の薄いところに、細い文字が刻まれていた。
「銘がございます」
ウィギリウスは、ゆっくりと読み上げた。
「夕べの石の子、ミヒャエルに」
「坊が騎士に叙された日に、辺境伯様が贈られた剣でございます」
コンラートが言った。
健司のうしろで、鎖が、もう一度だけ鳴った。
ルルが、もうひとつの包みを差し出した。金色の紋章で封じた書状だった。
「エクラ公より、陛下への書状を、お預かりしております」
聖王は、書状を受け取ると、封を切って目を走らせた。読み終えると、ほんのわずかに、口の端を上げた。
「……ヴィクトルめ」
笑ったのではなかった。それきり、聖王は、書状をたたんで脇に置いた。
長い沈黙があった。
「辺境伯の息子が、魔物を引き入れたと申す者もおった」
聖王が、口を開いた。
「申した者が、誤っておったようだ」
迷いのない、平らな声だった。
健司は、顔を伏せたまま、その声を聞いていた。あの日、玉座の間で、同じ言葉を聞いた。罪を着せるときも、晴らすときも、少しも変わらない声だった。
「ミヒャエル・フォン・アーベントシュタイン。汝の罪は、なかったものとする。枷を解け。剣は、持ち主に返せ」
兵士が、ミヒャエルの手首の枷を外した。鉄が床に落ちる音が、高い天井に響いた。
「竜は、どうした」
聖王の目が、健司のほうへ動いた。
「気を失わせて、剣を抜いてまいりました」
ルルが答えた。
「わたしたちの力では、それが精一杯でございました」
「殺さなんだか」
「……はい」
聖王は、しばらく健司を見ていた。
「そうか」
それだけだった。
「辺境伯の位のことは、追って沙汰する。下がれ」
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長い回廊を、三人は黙って歩いた。
うしろから、足音が追いかけてきた。振り返ると、ミヒャエルだった。赤くすりむけた手首のまま、返された剣を、布ごと胸に抱えている。
ミヒャエルは、まずコンラートの前で足を止めた。
「先生。……生きててくれて、よかった」
「それは、わしの台詞じゃ」
コンラートは、ふん、と鼻を鳴らした。ひげの奥の口もとが、少しだけ震えていた。
ミヒャエルは笑って、それから、健司のほうを向いた。
「で、あんたが、ガキどもの言ってたおっさんか」
健司は、まばたきをした。
「あの夜、下水道の格子の下を、腹ばいで抜けていったのは、あんただろ。肩を斜めにしてさ」
ミヒャエルは、にやりと笑った。
「いちばん端の牢から、見てたぜ。声をかけようかと思ったんだが、あんまり必死な顔をしてたんでね」
健司の頭の中で、ふたつのものが、ようやくつながった。
地下牢の、傭兵のおっさん。子供たちに、絵本みたいな話をしてくれる人。竜をやっつける話も。
「ガキどもには、傭兵のミッシェルってことにしてある。内緒だぜ」
ミヒャエルは、片目をつぶってみせた。
「竜をやっつける話も、聞いたかい。……ほんとは、刺しただけだ。やっつけちゃいない」
ミヒャエルは、腕の中の剣を見下ろした。布のすき間から、赤黒い刃がのぞいていた。
「親父の剣だ。……抜いてきてくれて、ありがとうよ、おっさん」
「抜いたのは、僕です。でも、竜を止めたのは、ルルさんの雷です」
ミヒャエルは、ルルの前で片膝をつき、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「ルル姉ちゃん、だろ。ガキどもから、耳にたこができるほど聞かされたよ。七つの魔法が、ぜんぶ使えるんだって」
ルルは、返事をしなかった。
ミヒャエルの、赤くすりむけた手首を見ていた。それから、その手が抱えている剣を。
ほんの一瞬だけ、ルルの目が、健司の手のほうへ動いた気がした。
ルルは、肩の袋から、布の包みを取り出した。
「これ、使ってください」
包みの中は、革の手袋だった。手の甲に、赤銅色の鱗が、小さな瓦のように重ねて縫いつけてある。
健司は、その鱗に見覚えがあった。
「竜の鱗には、マナが定着してるんです。だから、魔法をかけなおさなくても、ずっと効きます。つけた人のマナは、剣に流しやすくなる。外からの魔法は、通しません」
ルルは、ひと息に言った。
「剣を使う人のほうが、役に立つので」
ミヒャエルは、しばらく手袋を見ていた。
「……竜の鱗か」
低い声だった。
「うちの領地には、鱗拾いが、よく山へ入っていった。認定証を持った、腕っこきの冒険者ばかりだ。竜が脱皮して落とした鱗を拾ってくるだけで、戦いもしねえ。それでも、帰ってこねえやつが、何人もいた」
「これは、落ちてたのを拾いました」
「竜の縄張りの、まんなかでな」
コンラートが、ぼそりと付け足した。
ミヒャエルは、ルルの顔を見た。それから、剣を床に置き、すりむけた手首をかばいながら、ゆっくりと指を通した。
革が、きゅっと鳴った。
ミヒャエルは、顔を上げた。
口の端が、上がっていなかった。さっきまでの、面白がるような目でもなかった。初めて見るものを見る目で、ミヒャエルは、ルルを見上げていた。
「……話より、ずっと」
言いかけて、ミヒャエルは、自分で驚いたように口をつぐんだ。それから、もう一度、言いなおした。
「話より、ずっと、まぶしいお方だ」
「な、なんですか、いきなり!」
ルルは、くるりと背を向けた。
「なくさないでくださいね。買ったら、十万プルするんですから」
「じゅ、十万……」
「本が、六冊買えます!」
ルルは、すたすたと歩きだした。
健司の横で、コンラートが、ぼそりと言った。
「……坊め。落ちおったな」
「落ちた?」
「軽口ばかりたたくくせに、一度ほれたら、しつこいんじゃ。昔から」
健司は、ルルの小さな背中を見た。
ブレドールの井戸端と、ヴェルポンの宿で、ないしょ、と言って縫っていたもの。あれは、これだったのだ。
剣を持つ人のためのものなら、たしかに、それがいちばんいい。健司は、そう思った。
「……ケンジさんは、剣、持たないし」
前を歩きながら、ルルが言った。誰に言ったのか、わからない声だった。
「はい?」
「なんでもない!」
ミヒャエルは、片膝をついたまま、手袋をはめた自分の手を見下ろしていた。父の剣と、竜の鱗の手袋。
「……今日は、もらってばっかりだな」
それから、声を立てて笑った。
笑い声の最後のほうが、少しだけ、かすれていた。
無実の罪が晴れましたね。
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