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『全能』  作者: 朝霧なぎ
2章 未定義変数
37/39

『全能』2章14話 夕べの石の子(37)

『全能』第37話

 

 ブレドールから王都までは、ブリーズで二日だった。


 コンラートは、もう足を動かさなかった。浮いたまま紙の束を抱え、流れていく麦畑に、ときどき遠眼鏡を向けている。


 ヴェルポンの南の門は、三人が近づくと、何も言わないうちに開いた。門の上で、関所の隊長が、深く頭を下げた。


 砦では、エクラ公が待っていた。


 布をほどいた剣を、エクラ公は、長いあいだ黙って見ていた。刃にこびりついた、赤黒く乾いた血。柄頭の、山の向こうに沈む日と、ひとつの石の紋章。


「……あの子の剣だね」


 それだけ言うと、エクラ公は机に向かい、短い書状をしたためた。封じ目に、金色の紋章が押された。


「陛下へ。私からも、ひと言だけ添えておこう」


 書状を受け取ったルルに、エクラ公は、ほんの少しだけ目を細めた。


「よく、戻ったね。ルイーズ殿」


 その夜、橋のそばの古い宿で、健司が水を飲みに階段を下りていくと、食堂の隅の灯りの下で、ルルが針を動かしていた。


 膝の上に、赤銅色の鱗が並んでいた。


 健司に気づくと、ルルは、布ごと胸に抱えこんだ。


「……まだ、ないしょ」


「まだ、ですか」


「まだ」


 ルルは、そっぽを向いた。耳まで、赤かった。


 ----------------


 王都に着いた翌朝、三人は、玉座の間に呼ばれた。


 高い天井。玉座の背後の壁に彫りこまれた、見上げるほど大きな女神の像。その上を、七色の光が斜めに横切っている。玉座の一段下に、三人の審問官。壁ぎわには、貴族たちが息をひそめていた。


 三人は、玉座の前に膝をついた。


「申せ」


 聖王の声が、高い天井に響いた。


「アーベントシュタイン領で、何が起きたのかを、ご報告いたします」


 ルルの声は、人前のルルの声だった。


 滅びたのは、川上の領都と、山側の町や村。襲ったのは、ワイバーンの群れと、一頭の若い竜。竜は、今も領都の谷を縄張りにしている。ルルは、見てきたことだけを、ひとつずつ並べていった。


「この者は、領都で竜を調べていた学者、コンラートにございます。竜の来たその日を、自分の目で見ております」


 聖王は、しばらくコンラートを見下ろしていた。それから、扉のほうへ目をやった。


「辺境伯の息子を、ここへ」


 重い扉が開いた。


 鎖の鳴る音がした。


 兵士ふたりに挟まれて入ってきたのは、背の高い若い男だった。伸び放題の亜麻色の髪とひげ。すりきれた服。手首と足首に、鉄の枷。頬はこけていたが、背筋だけは、まっすぐに伸びていた。


 男は、壁ぎわの貴族たちを、面白そうに見回した。口の端が、片方だけ上がっている。


 その目が、膝をつくコンラートの背中で止まった。


 口の端が、下りた。


「……先生?」


「坊」


 コンラートは、振り返らずに答えた。


 ミヒャエルは、兵士に肩を押されて、三人の少し後ろに膝をついた。鎖が、石の床で鳴った。


「申せ、学者」


 コンラートは、ひとつ咳払いをした。


「竜は、百年に一度、同じ年に、いっせいに卵を産むのでございます。子は三十で、親の縄張りを追われる。今年が、その巣立ちの年でございました」


 慣れない言葉づかいで、コンラートは話しはじめた。


 山に空きがなければ、若い竜は、山すそまで降りてくるしかない。ワイバーンの群れは、降りてくる竜に追われて、先に町へなだれこんだ。四十年の記録に、百年前の古い記録に、そう書いてある。


「竜は、人の言うことなぞ、聞きません」


 コンラートの声が、だんだん、いつもの声に戻っていった。


「王の言うことも、神の言うことも、じゃ」


 壁ぎわが、ざわめいた。


 眉間に深いしわを刻んだ審問官が、一歩前に出かけた。


「無礼な」


「よい」


 聖王が、片手を上げた。


「続けよ」


 コンラートは、続けた。


 辺境伯は、騎士団を率いて城の壁で戦った。息子は、竜の脇腹に剣を突き立てた。辺境伯は息子に、王都へ行け、救援を呼んでこい、と言った。


「そして、その夜、辺境伯様は、城で亡くなられました」


 鎖が、小さく鳴った。


 健司の斜めうしろで、ミヒャエルがうつむいていた。表情は見えなかった。


「……そうか」


 かすれた声が、床に落ちた。


「残ったか。親父は」


 ----------------


「陛下。証の品を、お持ちしました」


 ルルの声で、健司は、膝の前に置いていた包みを、両手で持ち上げた。腕は、まだ少し震えた。


 布を、ほどいた。


 玉座の間が、静まった。


 刃は、根もとから切っ先まで、赤黒く乾いた血に覆われていた。柄頭には、山の向こうに沈む日と、その手前に立つ、ひとつの石。


「竜の脇腹に、刺さっておりました。四か月、ずっと」


 ルルが言った。


「竜の血だと、なぜわかる」


 しわの深い審問官が、低く言った。


 いちばん若い審問官が、黙って進み出た。灰色の目の、ウィギリウスだった。健司の前に膝をつき、刃の血に、そっと指先を触れた。


 指が、止まった。


「……濃い」


 ウィギリウスは、しばらく自分の指先を見つめていた。


「人の血とは、比べものになりません。これほどマナの濃い血を、わたくしは、知りません」


 それから、刃の根もとに顔を寄せた。血の薄いところに、細い文字が刻まれていた。


「銘がございます」


 ウィギリウスは、ゆっくりと読み上げた。


「夕べの石の子、ミヒャエルに」


「坊が騎士に叙された日に、辺境伯様が贈られた剣でございます」


 コンラートが言った。


 健司のうしろで、鎖が、もう一度だけ鳴った。


 ルルが、もうひとつの包みを差し出した。金色の紋章で封じた書状だった。


「エクラ公より、陛下への書状を、お預かりしております」


 聖王は、書状を受け取ると、封を切って目を走らせた。読み終えると、ほんのわずかに、口の端を上げた。


「……ヴィクトルめ」


 笑ったのではなかった。それきり、聖王は、書状をたたんで脇に置いた。


 長い沈黙があった。


「辺境伯の息子が、魔物を引き入れたと申す者もおった」


 聖王が、口を開いた。


「申した者が、誤っておったようだ」


 迷いのない、平らな声だった。


 健司は、顔を伏せたまま、その声を聞いていた。あの日、玉座の間で、同じ言葉を聞いた。罪を着せるときも、晴らすときも、少しも変わらない声だった。


「ミヒャエル・フォン・アーベントシュタイン。汝の罪は、なかったものとする。枷を解け。剣は、持ち主に返せ」


 兵士が、ミヒャエルの手首の枷を外した。鉄が床に落ちる音が、高い天井に響いた。


「竜は、どうした」


 聖王の目が、健司のほうへ動いた。


「気を失わせて、剣を抜いてまいりました」


 ルルが答えた。


「わたしたちの力では、それが精一杯でございました」


「殺さなんだか」


「……はい」


 聖王は、しばらく健司を見ていた。


「そうか」


 それだけだった。


「辺境伯の位のことは、追って沙汰する。下がれ」


 ----------------


 長い回廊を、三人は黙って歩いた。


 うしろから、足音が追いかけてきた。振り返ると、ミヒャエルだった。赤くすりむけた手首のまま、返された剣を、布ごと胸に抱えている。


 ミヒャエルは、まずコンラートの前で足を止めた。


「先生。……生きててくれて、よかった」


「それは、わしの台詞じゃ」


 コンラートは、ふん、と鼻を鳴らした。ひげの奥の口もとが、少しだけ震えていた。


 ミヒャエルは笑って、それから、健司のほうを向いた。


「で、あんたが、ガキどもの言ってたおっさんか」


 健司は、まばたきをした。


「あの夜、下水道の格子の下を、腹ばいで抜けていったのは、あんただろ。肩を斜めにしてさ」


 ミヒャエルは、にやりと笑った。


「いちばん端の牢から、見てたぜ。声をかけようかと思ったんだが、あんまり必死な顔をしてたんでね」


 健司の頭の中で、ふたつのものが、ようやくつながった。


 地下牢の、傭兵のおっさん。子供たちに、絵本みたいな話をしてくれる人。竜をやっつける話も。


「ガキどもには、傭兵のミッシェルってことにしてある。内緒だぜ」


 ミヒャエルは、片目をつぶってみせた。


「竜をやっつける話も、聞いたかい。……ほんとは、刺しただけだ。やっつけちゃいない」


 ミヒャエルは、腕の中の剣を見下ろした。布のすき間から、赤黒い刃がのぞいていた。


「親父の剣だ。……抜いてきてくれて、ありがとうよ、おっさん」


「抜いたのは、僕です。でも、竜を止めたのは、ルルさんの雷です」


 ミヒャエルは、ルルの前で片膝をつき、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。


「ルル姉ちゃん、だろ。ガキどもから、耳にたこができるほど聞かされたよ。七つの魔法が、ぜんぶ使えるんだって」


 ルルは、返事をしなかった。


 ミヒャエルの、赤くすりむけた手首を見ていた。それから、その手が抱えている剣を。


 ほんの一瞬だけ、ルルの目が、健司の手のほうへ動いた気がした。


 ルルは、肩の袋から、布の包みを取り出した。


「これ、使ってください」


 包みの中は、革の手袋だった。手の甲に、赤銅色の鱗が、小さな瓦のように重ねて縫いつけてある。


 健司は、その鱗に見覚えがあった。


「竜の鱗には、マナが定着してるんです。だから、魔法をかけなおさなくても、ずっと効きます。つけた人のマナは、剣に流しやすくなる。外からの魔法は、通しません」


 ルルは、ひと息に言った。


「剣を使う人のほうが、役に立つので」


 ミヒャエルは、しばらく手袋を見ていた。


「……竜の鱗か」


 低い声だった。


「うちの領地には、鱗拾いが、よく山へ入っていった。認定証を持った、腕っこきの冒険者ばかりだ。竜が脱皮して落とした鱗を拾ってくるだけで、戦いもしねえ。それでも、帰ってこねえやつが、何人もいた」


「これは、落ちてたのを拾いました」


「竜の縄張りの、まんなかでな」


 コンラートが、ぼそりと付け足した。


 ミヒャエルは、ルルの顔を見た。それから、剣を床に置き、すりむけた手首をかばいながら、ゆっくりと指を通した。


 革が、きゅっと鳴った。


 ミヒャエルは、顔を上げた。


 口の端が、上がっていなかった。さっきまでの、面白がるような目でもなかった。初めて見るものを見る目で、ミヒャエルは、ルルを見上げていた。


「……話より、ずっと」


 言いかけて、ミヒャエルは、自分で驚いたように口をつぐんだ。それから、もう一度、言いなおした。


「話より、ずっと、まぶしいお方だ」


「な、なんですか、いきなり!」


 ルルは、くるりと背を向けた。


「なくさないでくださいね。買ったら、十万プルするんですから」


「じゅ、十万……」


「本が、六冊買えます!」


 ルルは、すたすたと歩きだした。


 健司の横で、コンラートが、ぼそりと言った。


「……坊め。落ちおったな」


「落ちた?」


「軽口ばかりたたくくせに、一度ほれたら、しつこいんじゃ。昔から」


 健司は、ルルの小さな背中を見た。


 ブレドールの井戸端と、ヴェルポンの宿で、ないしょ、と言って縫っていたもの。あれは、これだったのだ。


 剣を持つ人のためのものなら、たしかに、それがいちばんいい。健司は、そう思った。


「……ケンジさんは、剣、持たないし」


 前を歩きながら、ルルが言った。誰に言ったのか、わからない声だった。


「はい?」


「なんでもない!」


 ミヒャエルは、片膝をついたまま、手袋をはめた自分の手を見下ろしていた。父の剣と、竜の鱗の手袋。


「……今日は、もらってばっかりだな」


 それから、声を立てて笑った。


 笑い声の最後のほうが、少しだけ、かすれていた。


無実の罪が晴れましたね。


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