『全能』2章13話 わかるために(36)
『全能』第36話
「あーん、ですって!?」
白い場所に、女神の声が響きわたった。
床も壁も天井もない、やわらかな光だけが満ちた場所。その真ん中の泉に、女神はかじりついていた。
泉の水面には、宿の食堂が映っていた。湯気の立つ椀。さじを差し出すルル。黙って口を開けるケンジ。向かいの席で、スープの椀に顔を伏せる白いひげの老人。
「さじで!? ふーふーまでして!?」
ふーふーは、していなかった。けれど女神には、そう見えた。
「ずるい。ずるいずるい。私だって、ケンジの口にあーんってしてあげたかったんだけど!」
誰も聞いていないのをいいことに、女神は泉のふちを両手で叩いた。しぶきが散った。それだけだった。
ひとしきり叩いてから、女神は、ぺたんと座りこんだ。
「……腕、上がらないんだもんね。しかたないわよね」
ケンジの腕が上がらない理由なら、女神は知っていた。誰よりも、よく知っていた。
見ていたのだから。
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王都を出てから、五日。そのあいだ、ずっと見ていた。
最初の日、ケンジは、街道でこまのように回った。
ルルに「やってみれば?」と言われて、素直に足を動かしたのだ。止まろうとして足を突っぱるほど、速く回った。
やってみれば、なんて、あの子もけっこう意地悪だ。でも、言われなくても、ケンジはきっと一回はやってみた。そういう人だということは、女神がいちばんよく知っている。
女神は、泉の前で笑い転げた。気がつくと、少し離れたところに転がっていた雲のクッションを抱えて、白い床の上を、ごろごろ転がっていた。
笑ったのは、ずいぶん久しぶりだった。
「……こうなるなら、初めから言ってください、ですって」
思い出すだけで、また、口もとがゆるんだ。
二日目には、片眼鏡の公爵が出てきた。
本ばかり読んでいる、背の高い、物静かな男。ケンジの光の使い方を見て、ほぅ、と小さく息をもらした男。
「……ちょっと、かっこいいじゃない」
言ってから、女神は慌てて首を振った。
「ケンジのほうが、かっこいいけど」
その夜、ケンジの頭のまわりには、何度も赤い文字が出た。あの夜と、同じ色の文字だった。そのたびに、女神は泉のふちをつかんだ。
ケンジは、三度とも、要らない、と答えた。
女神は、そのたびに、大きく息を吐いた。
その夜、ケンジは、麦畑の獣を一頭も殺さなかった。そのかわり、片眼鏡の公爵に言われた。倒さねば、多くの人が死ぬ場面もある、と。
正しい言葉だと、女神は知っていた。正しいことと、平気でいられることが、別だということも。
三日目に、ケンジは、初めて自分の手で魔物を倒した。
岩場に落ちていく四つの影を、ケンジは、最後まで目をそらさずに見ていた。それから、指先が冷たい、という顔をした。
女神は、水面に指を浸した。泉の水は、ひやりと冷たかった。冷たいのは、自分の指のほうだった。
その夜、井戸端で、ケンジはルルに魔法を習った。
「今日から、わたしが先生ね」
水面の中で、ルルが言った。
「はい。……先生」
ケンジが答えた。
「先生って何よ!」
女神は、泉に向かって叫んだ。
「私だって、教えようとしたんだけど! ふわっとしてて、ぎゅっとしたら、ぼわっと、って!」
もちろん、誰も聞いていなかった。
あの夜、この泉の前で、ひとりで言いかけた説明だった。ケンジには、一度も届いていない。
水面の中で、ルルは、自分の説明が全部あの薄い本に書いてあったことだと気づいて、真っ赤になっていた。ケンジの小石は、指一本ぶんだけ、高く浮いた。
女神は、膝を抱えた。
ふわっとしてて、ぎゅっと。あれは、説明ではなかった。今なら、わかる。
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四日目の夕方、ルルは、焼けた城の丘のふもとで、竜の鱗を拾って目を輝かせていた。
「高く売れるんだから!」
「……竜の縄張りで、鱗を拾って喜ぶ子なんて、初めて見たわ」
女神は、あきれて、それから少しだけ笑った。
四日目の夜は、焼けた街の外の河原だった。
たき火の前で、ルルが、マナのことを話していた。空気の中に漂う、魔法の素。七つの色。人の体の中にもあること。死ねば、空に還ること。
そこまでは、女神には、どうでもよかった。ぜんぶ、知っていることだった。
そのあと、ケンジが、たき火を見つめたまま動かなくなった。
大気中マナ濃度に対する熱量変換率。
あの夜の赤い文字の意味を、ケンジは、初めて知ったのだ。自分が一割ずつ上げていた数字が、何だったのかを。
女神は、泉のふちをつかんだ。
あの夜の数字なら、女神は、最初から知っていた。ケンジが上げていった数字の、本当の答えを。どこで止めれば、村が燃えなかったのかを。息をするように、わかっていた。
教えてあげられたなら、と、何度思ったかわからない。
けれど、水面の中のケンジは、答えを聞いたわけではなかった。それでも、変わった。
わからない数字には、触れない。そう言って目をそらしてきたケンジが、わかってから、使う、と決めた。
答えを知ったからではない。わかったからだった。
「……知ってるのと、わかってるのは、違うのね」
口に出してみて、女神は、自分で驚いた。
そんなことは、考えたこともなかった。知らないことが、なかったのだから。
その夜のうちに、ケンジは、自分の体を物差しにして、谷じゅうのマナを比べた。数字は、ひとつも使わなかった。
黒い街には、光の柱が一本も立たなかった。
……みんな、空に還ったんだね。ルルが、そうつぶやいた。
空に還った人たちの名前を、女神は、ひとり残らず知っていた。
暗い谷の中腹に、針の先ほどの光が、ひとつだけともった。
物差しは、自分の体。
あとで、ケンジは、白いひげの学者にそう話していた。学者は、笑って、わしの物差しは、この目じゃ、と言った。
女神は、自分の手のひらを見た。
私の物差しは、なんだろう。
何かを測ったことなど、一度もなかった。測る前に、もう、わかっていたから。
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竜が来た日のことは、思い出したくなかった。
赤銅色の翼が稜線の上に広がったとき、女神は、泉のふちで悲鳴を上げた。
竜の歳も、火袋の大きさも、どこを狙えばいいのかも、女神には、ぜんぶわかっていた。
「効くわよ! その子、まだ三十なんだから! 魔法、効くんだから!」
叫んでも、叫んでも、届かなかった。冠は、光らなかった。
ケンジが、竜の吐いた煙を、竜の頭のまわりに返したときは、思わず手を叩いた。黒い袋をかぶった竜が、塔に突っこんだ。
「いいわよ、ケンジ! そのまま、どかーんと……」
言いかけて、女神は、口をつぐんだ。どかーんとやっちゃいなさい。あの夜、何も知らずにそう叫んだのは、自分だった。
水面の中で、ルルが、雷を空から落とした。光は鱗の上を這って、地面へ逃げた。
「だから、そこじゃなくて!」
女神が叫ぶより先に、ケンジが気づいた。入り口だ、と。
剣から入って、濡れた砂へ抜ける。ケンジは、ルルの雷に、道を描いた。ルルは、こぶしほどしかない剣の柄に、本当に雷を落とした。
竜が倒れたとき、女神は、泉の前に突っ伏していた。
しばらくして顔を上げると、水面の中で、ケンジが竜の背中から転がり落ちて、空を見上げていた。腕の中に、剣を抱えて。
河原を離れぎわに鱗をすくい上げたルルに、白いひげの学者が、命より鱗か、と叫んでいた。
「ほんとよ」
女神は、泉に向かって、思いきりうなずいた。それから、ルルに向かって、何度も頭を下げた。前にも、そうしたことがあった。
「……ありがと」
届かないのは、わかっていた。
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泉の水面は、また、井戸端を映していた。
小さな明かりの中で、ルルが、膝の上の布に、赤銅色の鱗を並べている。針と糸。屋根裏では、ケンジが、腕の痛みに顔をしかめながら、寝返りを打っていた。
ルルが何を作っているのかなら、女神は、知っていた。
「……教えてあげない」
女神は、つんと横を向いた。
「あの子が、自分で渡すまでは」
それから、ちょっとだけ、口をとがらせた。
「私だって、作ってあげたいものなら、いっぱいあるんだから」
ルルの横、井戸の縁に、あの薄い本が開いたまま置かれていた。明日の授業のために、開いておいたのだろう。
『優しく説明!魔法初歩』。
女神は、泉に身を乗り出して、その頁をのぞきこんだ。
まず、魔力の通り道を、頭の中に描きましょう。水路を引くように、ゆっくりと。
書いてあることは、ぜんぶ知っていた。読む前から、知っていた。
それでも、女神は、一行目から読んだ。知るためではなかった。わかるために。
読みながら、自分の中の、息をするように何もかもがわかってしまう場所のことを考えた。
あれを手放したら。
女神は、ぶるっと身ぶるいした。
「……まだ、こわい」
むり、とは、言わなかった。
夜風が、井戸の縁の本の頁を、ぱらりとめくった。
「あっ、待って! まだ、読んでないのに!」
水面の中で、ルルが、めくれた頁に気づいた。鱗を一枚、重しがわりに、その頁の上に置いた。
新しい頁の上に。
「……そっちじゃないってば」
女神は、泉のふちに頬杖をついた。それから、小さく笑った。
新しい頁を、一行目から、読みはじめた。
冠は、光らなかった。
それでも、今夜は、泣いていなかった。
めがみかわいいですね。
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