『全能』2章12話 ないしょ(35)
『全能』第35話
谷を出てしばらくすると、黒い村が、黒くない村に変わった。
刈り入れられないまま倒れた麦。重たい房を垂らした葡萄の畑。戸の開いた家々。焼けても、壊れてもいない。人だけがいない。きのう通ったときは、ただ寂しいだけの景色だった。今は、なぜか、少しだけほっとした。
コンラートは、浮いたまま、紙の束を胸に抱えていた。橋の上で放り出した束は、ちゃんと拾ってきたらしい。
「足は、動かさん。聞かんでも、わかっとる」
誰も、何も言っていなかった。
健司は、布にくるんだ剣を、胸に抱えていた。コンラートの束をくるんでいた布を、一枚もらったのだ。血は、拭くでないぞ、とコンラートは言った。竜の血じゃ。何よりの証になる。腕の奥が、じわじわと熱を持ちはじめていた。
「さて」
コンラートが、ちらりと健司を見た。
「聞かせてもらおうか。マナを、どうやって探した」
「……物差しを、自分の体にしました」
健司は、言葉を選びながら話した。体の中のマナは、空気の中より濃いこと。死んだ人のマナは、空に還ること。だから、自分の体と同じくらいマナの濃いところを探せば、生きている誰かが見つかると考えたこと。
「数字は、わからないんです。だから、比べることにしました。自分の体と」
コンラートは、しばらく黙っていた。
それから、ひげを震わせて、笑いだした。
「物差しは、自分の体、か」
「おかしいですか」
「いや。わしも四十年、遠眼鏡と、この目を物差しにしてきた。竜の大きさも、翼の長さも、ぜんぶ、この目で比べてきた。……同じことじゃ」
コンラートは、健司の顔をのぞきこんだ。
「おぬし、何者じゃ」
「研究を、していました。遠いところで」
「研究者か」
コンラートは、満足そうにうなずいた。それ以上は、聞かなかった。
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「竜の話を、聞かせてもらえませんか」
今度は、健司が聞いた。コンラートの目が、遠眼鏡をのぞくときのように細くなった。
「竜はな、二百年ほど生きる」
コンラートは、空を見上げた。
「卵を産むのは、一生に一度。それも、二つだけじゃ」
「一生に、二つ」
ルルが、思わずくり返した。
「しかも、産む年が決まっておる。百年に一度の年に、産む竜が、みな、いっせいに産む。前の産みの年は、三十年前じゃった。わしは、まだ四十そこそこでな。遠眼鏡をかついで山に登って、岩陰から巣を見ておった」
コンラートは、胸に抱えた紙の束を、軽く叩いた。
「あいつが、卵から出てくるところもな」
健司は、谷のほうを振り返った。もう、山の影しか見えなかった。
「子は、三十になると、親の縄張りを追われる。それが、巣立ちじゃ。……縄張りというのは、山の上ほどいい。獲物も多いし、ほかの竜にも、人にも、わずらわされん。上の竜が死ぬと、空いたところへ、すぐ下の竜が上がる。そのまた下の竜が、その空いたところへ。ひとつずつ、繰り上がっていく」
「巣立ったばかりの竜は」
「いちばん下じゃ。山の中に空きがなければ、山すそまで、降りてくるしかない」
「山すそには、人の街があります」
「そういうことじゃ」
コンラートの声が、低くなった。
「誰かが、連れてきたのではない。竜は、ただ、降りてきた。百年前も、そうじゃった。古い記録に、残っておる」
研究室の先輩が、十三年や十七年ごとに、いっせいに地上へ出てくるセミの話をしていたのを、健司は思い出した。いっせいに、というのは、生き物にとって、たいてい意味がある。その意味を、人は、あとになってから知る。
「竜は、今、どれくらいいるんですか」
「十頭ほどじゃ」
ルルが、息をのんだ。それから、肩の袋に目を落とした。
「……十頭しか、いないんだ」
袋の中で、赤銅色の鱗が、かさりと鳴った。
「売るの、ちょっとだけ、やめようかな」
「鱗は、また生える。気にせんでええ」
「……じゃあ、売る」
コンラートが、喉の奥で笑った。
「一生に卵が二つでは、増えようがない。巣立った若いのも、半分は生き残れん。わしが生きているうちに、また減るじゃろう」
しばらく、誰も口をきかなかった。三人の風の音だけが、麦の上を渡っていった。
「あいつはな、三十と少しじゃ」
コンラートが、また口を開いた。
「体も、まだ育ちきっておらん。火袋も小さい。だから、火は汚かったし、三度で切れた。だから、ルルの魔法が効いた」
「……育ちきった竜なら?」
ルルが、小さな声で聞いた。
「魔法は、何ひとつ効かん。火は、石を溶かす。体は、あいつの倍じゃきかん」
コンラートは、まっすぐ前を見たまま言った。
「あいつが成獣だったら、わしらは、みんな、あの河原で死んでおった」
ルルが、鱗を入れた袋を、ぎゅっと抱えた。
健司は、腕の中の剣を見下ろした。布のすき間から、柄頭の紋章がのぞいていた。山の向こうに沈む日と、その手前に立つ、ひとつの石。
「夕べの石じゃ」
コンラートが、健司の視線に気づいて言った。
「あの谷はな、山に囲まれておるのに、夕日だけは、いちばん最後まで残る。日が沈んだあとも、山の岩が、しばらく赤く光っておる。……それが、家の名の始まりじゃと聞いておる」
三十の若い竜でさえ、ひとつの街を滅ぼした。辺境伯は、その竜に、城の壁で立ち向かった。その息子は、竜の脇腹に、この剣を突き立てた。
「わしの記録と、坊の剣。竜がひとりで降りてきたことは、これで、誰にでもわかる」
コンラートが言った。
誰にでも、わかるはずだった。
聞く耳さえ、あれば。
玉座の間で聞いた、迷いのない、平らな声を、健司は思い出していた。
「辺境伯様が亡くなられた今、家を継ぐのは、坊じゃ」
コンラートは、ふん、と鼻を鳴らした。
「牢の中の、辺境伯様というわけじゃ」
「出してもらわなきゃ」
ルルが言った。
「そのために、わしが行く」
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ブレドールに着いたのは、日が沈んで、だいぶたってからだった。
門のたき火のまわりには、まだ、南から逃げてきた人たちがいた。三人が門をくぐると、顔がいくつも上がった。南から、北へ。逆向きに戻ってくる者は、ほかにいなかった。
宿の戸を開けると、主人が、皿を取り落としかけた。
「学者先生……! 生きてたのかい!」
「死んでおったら、ここにはおらん」
コンラートは、それだけ言って、いちばん近い椅子に腰を下ろした。主人は、しばらく口をぱくぱくさせていたが、やがて、自分の部屋を空けると言って、奥へ駆けこんでいった。屋根裏の小部屋も、運よく、またふたつ空いていた。
食堂の隅で、赤ん坊を抱いた女が、こちらを見ていた。
ルルが、女の前へ歩いていった。
「調べてきました」
女は、黙ってルルを見上げた。
「竜でした。山から、降りてきたんです。誰かが連れてきたんじゃ、ありません」
女の腕の中で、赤ん坊が、小さく身じろぎした。
「王都に、伝えに行きます。ほんとうのことを」
女は、しばらくルルの顔を見ていた。
それから、赤ん坊を抱きなおして、うなずいた。
「……そうかい」
女は、たき火のほうへ戻りかけて、一度だけ振り返った。
「気をつけて、お行き」
夕食の皿が、次々に運ばれてきた。
ルルは、主人が目を丸くするほど食べた。三皿目のスープを抱えたまま、四皿目のパンに手を伸ばしている。
「竜とでも、やりあってきたのかい」
主人が冗談めかして言うと、ルルは、口いっぱいにパンをほおばったまま、真顔でうなずいた。主人は、笑わなかった。
健司のほうは、さじが持てなかった。
持ち上げようとすると、腕が、がくがくと震えた。スープが、さじの上で波打って、こぼれた。二度試して、二度ともこぼれた。
ルルが、ため息をついて、自分の皿を置いた。健司の椀を取り上げ、さじですくって、健司の口もとへ差し出した。
「……はい」
「自分で、やれます」
「こぼしてるでしょ。先生の言うことは、聞くの」
健司は、黙って口を開けた。
向かいの席で、コンラートが、スープの椀に顔を伏せた。
「わしは、何も見ておらん」
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夜更けに、腕の痛みで目が覚めた。
屋根裏の小窓から、裏の井戸端が見下ろせた。
井戸の縁に、小さな明かりがともっていた。ルルが、そこに座っていた。膝の上に布を広げ、その上に、赤銅色の鱗を並べている。手には、針と糸が見えた。
健司は、そっと裏口から下りていった。
足音に気づいて、ルルが、布ごと鱗を抱えこんだ。
「……見ないで」
「何を、作っているんですか」
「ないしょ」
「鱗は、売るんじゃなかったんですか」
ルルは、布の端を握ったまま、そっぽを向いた。
「……何枚かは、売らない」
それ以上は、何も言わなかった。耳まで、赤かった。
「ほら、戻って。腕、まだ痛いんでしょ。寝ないと、治らないよ」
「はい」
「先生の言うことは」
「聞きます」
健司は、裏口のところで、一度だけ振り返った。
ルルは、もう、背中を丸めて、針を動かしていた。小さな明かりの中で、赤銅色の鱗が、ひとつずつ、火のように光っていた。
屋根裏に戻ると、窓の外に、遅い月が昇りはじめていた。
枕もとには、布にくるんだ剣があった。
救援を呼びに来た騎士は、まだ、王都のどこかで捕らわれている。
明日からは、北へ向かう。この剣と、背負えるだけの記録と、ひとりの学者を連れて。
ドラゴンの生態。興味深いですね。
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