『全能』2章11話 雷の槌(34)
『全能』第34話
炎が、降ってきた。
赤く濁った塊が、黒い煙を引きずりながら、まっすぐ健司に向かってくる。
「水よ、盾となれ。炎を鎮め、我らを覆え」
橋の上で、ルルが川へ手を振った。
「――スクトゥム・アクアエー!」
すぐ脇の川面が持ち上がり、水の鐘が、健司の上にかぶさった。炎の塊が叩きつけられ、白い湯気が、河原いっぱいに噴き上がった。
湯気の中で、健司は説明を続けた。
範囲は、この河原の砂。川の流れの中と、岸の石垣と、橋の足もとには、触れない。
【承認:対象範囲の指定】
水を吸った砂の、粒どうしのかみ合わせを、ゆるめる。少し揺すられただけで、外れてしまうくらいに。水は、足さない。もう、そこにある。揺れも、足さない。揺れは、あいつが降りてくるときに、自分で起こす。
泥は、竜の体より重い。だから、腹のあたりで沈むのが止まる。翼の付け根のうしろの剣は、泥の上に残る。
【承認:粒子間の結びつきの定義】
【未定義変数:大気中マナ濃度に対する結合変換率】
要らない。
【判定:新たなエネルギーの発生なし。変換率の定義は不要です】
湯気が晴れていった。
竜は、河原の上手の石垣の上で、首をもたげていた。裂けた翼を半ば開いたまま、縦に裂けた瞳で、健司を見ている。
二度目の炎が、来た。
今度は、ルルは水を呼ばなかった。橋の上で、手のひらを横へ払った。健司の足もとの風が、ぐいと横へ流れた。
炎の塊は、さっきまで健司のいた砂に落ちた。濡れた砂が、じゅっと音を立てて、白く煙った。
水の盾の湯気は、ルルの目もふさいでしまう。ルルは、剣の柄から、一瞬も目を離したくないのだ。
健司は、そう気づいた。
【残り時間:1:50】
残っている項目は、ひとつだけだった。続く長さ。
今それを決めれば、すぐに始まる。けれど、竜はまだ、石垣の上にいた。砂を踏んでいない。揺れが、来ない。
降りてくるまで、待つ。
時間が切れれば、続く長さは、真理が勝手に補う。
三度目の炎は、いちばん汚かった。
炎というより、黒い煙の塊だった。その中に、赤い火が、ちぎれちぎれに混ざっている。ルルの払った風に乗って、健司はぎりぎりのところで横へ逃げた。熱が、頬をなでていった。外套の裾に火の粉が降り、ことごとく弾かれた。
竜の喉の奥で、火の音が、途切れた。
火袋が、切れたのだ。
竜が、首を低くした。裂けた翼をたたみ、後ろ脚に、力をためる。
【残り時間:0:40】
竜が、跳んだ。
赤銅色の体が、河原の真ん中へ、まっすぐに落ちてくる。前脚の爪が、大きく開いていた。
続くのは、百を数えるあいだ。終われば、粒はまたかみ合う。沈んだものを、抱えこんだまま。
【承認:復元条件の定義】
【全項目が承認されました。事象を実行します】
前脚が、砂を打った。
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河原が、震えた。
竜の前脚の下で、砂が、砂でなくなった。黒い泥が、前脚を飲みこむように盛り上がった。続いて落ちてきた後ろ脚も、同じだった。
竜は、何が起きたのかわからないように、首をめぐらせた。足を引き抜こうとして、もがいた。もがくほど、まわりの砂がゆるみ、泥になっていった。
脚が沈み、腹が沈んだ。
そこで、止まった。
泥は、竜の体より重い。腹まで泥に浸かって、竜は、それ以上は沈まなかった。そのかわり、もう、どこへも動けなかった。
裂けた翼が、泥をはね上げて暴れた。泥のしぶきが、健司の顔にまで飛んできた。
竜の首が、健司に向かって伸びた。
顎が、目の前で開いた。
健司の体が、うしろへ引かれた。橋の上で、ルルが手のひらを引いていた。閉じた顎が、さっきまで健司の胸があったところで、空を噛んだ。牙のぶつかる音が、骨にまで響いた。
竜の左の脇腹は、泥の上に出ていた。
翼の付け根の、すぐうしろ。焦げた布を巻いた剣の柄が、まっすぐに空を向いていた。
「ルルさん!」
橋の上で、ルルが両手を空へ掲げた。
「雷よ、槌となれ」
晴れた空に、低い音が転がった。
「天を砕き、その身を貫け」
ルルの風が、健司をさらにうしろへ、河原の端まで運んでいった。
空が、暗くなった気がした。雲は、どこにもなかった。
健司は、ルルを見た。
金色の瞳が、ただ一点を見ていた。こぶしほどしかない、鉄の柄を。
「――マレウス・フルミニス!」
空が、割れた。
白い光が、槌のように振り下ろされた。
剣の柄に、まっすぐに。
光は、鱗の上を這わなかった。剣に吸いこまれるように、消えた。
次の瞬間、竜の体じゅうの鱗が、逆立った。
たたみかけていた翼が、ばねのように開ききった。長い首が、空へ向かって、棒のように伸びた。声は、出なかった。かわりに、大木が裂けるような音が、竜の体の奥から聞こえた。
竜の腹のまわりの泥が、いっせいに煮え立った。白い湯気が噴き上がり、泥の上を、青白い光の輪が、何重にも広がっていった。
光の輪は、河原の端まで走ってきた。
健司の足の下を、通り抜けていった。握りこぶしひとつぶんのすき間の、その下を。
浮いていた。だから、届かなかった。
音が、やんだ。
竜の首が、ゆっくりと傾いた。そのまま、重い音を立てて、河原に横たわった。開いたままの翼が、ゆっくりと、泥の上に倒れていった。
健司は、竜の腹を見た。
腹が、静かに上下していた。
生きていた。気を、失っていた。
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橋の上で、張りつめていた糸が切れたように、ルルがぺたんと座りこんだ。膝が、遅れて震えだした。コンラートが、紙の束を放り出して、その肩を抱いた。
「ルルさん!」
「……当たった?」
小さな声だった。
「当たりました。真ん中に」
ルルは、コンラートの腕の中で、小さく笑った。
「……でしょ」
八十。八十一。
健司は、数えていた。百を数え終えれば、砂は元に戻る。沈んだ竜を、腹まで抱えこんだまま。
「ルルさん。僕の風を、ほどいてください。あいつの背中の上で」
ルルが、健司のほうへ手のひらを向けた。健司の体は、泥の上に倒れた翼をつたって、竜の肩まで運ばれ、そこで、ふっと下ろされた。
竜の肩の鱗は、まだ温かかった。焦げたにおいがした。
九十九。百。
足もとで、河原の泥が、音もなく固まっていった。
健司は、剣の柄に手を伸ばした。
熱かった。鉄が、まだ雷の熱を持っていた。健司は、外套の裾で両手を包み、その上から、柄を握った。ルルのかけた外套は、火の粉くらいなら、はじく。
引いた。
動かなかった。
四か月のあいだ、鱗と肉が、刃をくわえこんでいた。両足を踏んばっても、刃は、指一本ぶんも出てこない。
体の限界を外す力なら、説明はいらない。
荒野の村で、木から落ちてくるニナを受け止めたときと、同じだ。
健司は、自分の体に、許した。
腕の筋が、軋んだ。背中に、火がついたような痛みが走った。歯を食いしばると、口の中に、鉄の味がした。
刃が、鈍い音を立てて、動いた。
一度動けば、あとは早かった。長い刃が、鱗のあいだから抜け出てきた。刃は、根もとから切っ先まで、赤黒い血にまみれていた。最後の一寸が抜けたはずみに、健司は剣を抱えたまま、うしろへひっくり返った。竜の背中を転がり落ち、固まった砂の上に、背中から落ちた。
空が、青かった。
腕の中に、剣があった。
柄頭に、紋章が刻まれていた。山の向こうに沈む日と、その手前に立つ、ひとつの石。
「アーベントシュタインの紋じゃ」
橋の上から、コンラートの声が降ってきた。
「……坊の、剣じゃ」
竜のまぶたが、ぴくりと動いた。
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ルルが、健司に、もう一度ブリーズをかけた。
三人は、川に沿って、下流へ向かった。焼けた街を抜け、崩れた壁を抜け、黒い畑の上を、谷の出口へ。
河原を離れる直前、ルルの風が、ふいに低く沈んだ。
ルルは、浮いたまま身をかがめ、竜のまわりの砂から、何かをすくい上げた。さっきの雷で剥がれ落ちた、赤銅色の鱗だった。
「今ですか!」
「今しかないでしょ! 高く売れるんだから!」
「命より鱗か、おぬしは!」
「どっちも!」
背後で、竜が目を覚ました。
低いうなり声が、谷に響いた。振り返ると、竜が、腹まで固まった砂の中で、身をよじっていた。裂けた翼が、むなしく空を打っている。
あの体なら、固まった砂など、いずれ割るだろう。けれど、もう、追ってはこなかった。
「縄張りの外へは、追ってこん」
コンラートが、肩で息をしながら言った。
「あいつにとって、わしらは、追い出したよそものじゃ。……今ごろ、勝ったつもりでおるわい」
谷の出口を抜けたとき、うしろで、もう一度だけ、竜が吠えた。
それきり、谷は静かになった。
ルルが、三人の風を、少しずつゆるめていった。
最初に聞こえたのは、ルルのお腹の音だった。
竜の雄叫びに、負けないくらいの音だった。
「……いまのは、聞かなかったことに」
「無理じゃ」
コンラートが、即座に言った。
健司は、笑おうとした。腕が、震えていた。剣を抱えた腕が、自分のものではないみたいに、がくがくと震えていた。あしたは、きっと、指一本動かせない。
それでも、剣は離さなかった。
救援を呼びに来た騎士の剣が、ここにある。
わからないことは、見て、確かめるしかない。ブレドールの食堂で、そう思った。
見て、確かめた。今度は、確かめたものを、持って帰る番だった。
ついに倒せましたね。
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