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『全能』  作者: 朝霧なぎ
2章 未定義変数
34/36

『全能』2章11話 雷の槌(34)

『全能』第34話

 

 炎が、降ってきた。


 赤く濁った塊が、黒い煙を引きずりながら、まっすぐ健司に向かってくる。


「水よ、盾となれ。炎を鎮め、我らを覆え」


 橋の上で、ルルが川へ手を振った。


「――スクトゥム・アクアエー!」


 すぐ脇の川面が持ち上がり、水の鐘が、健司の上にかぶさった。炎の塊が叩きつけられ、白い湯気が、河原いっぱいに噴き上がった。


 湯気の中で、健司は説明を続けた。


 範囲は、この河原の砂。川の流れの中と、岸の石垣と、橋の足もとには、触れない。


【承認:対象範囲の指定】


 水を吸った砂の、粒どうしのかみ合わせを、ゆるめる。少し揺すられただけで、外れてしまうくらいに。水は、足さない。もう、そこにある。揺れも、足さない。揺れは、あいつが降りてくるときに、自分で起こす。


 泥は、竜の体より重い。だから、腹のあたりで沈むのが止まる。翼の付け根のうしろの剣は、泥の上に残る。


【承認:粒子間の結びつきの定義】


【未定義変数:大気中マナ濃度に対する結合変換率】


 要らない。


【判定:新たなエネルギーの発生なし。変換率の定義は不要です】


 湯気が晴れていった。


 竜は、河原の上手の石垣の上で、首をもたげていた。裂けた翼を半ば開いたまま、縦に裂けた瞳で、健司を見ている。


 二度目の炎が、来た。


 今度は、ルルは水を呼ばなかった。橋の上で、手のひらを横へ払った。健司の足もとの風が、ぐいと横へ流れた。


 炎の塊は、さっきまで健司のいた砂に落ちた。濡れた砂が、じゅっと音を立てて、白く煙った。


 水の盾の湯気は、ルルの目もふさいでしまう。ルルは、剣の柄から、一瞬も目を離したくないのだ。


 健司は、そう気づいた。


【残り時間:1:50】


 残っている項目は、ひとつだけだった。続く長さ。


 今それを決めれば、すぐに始まる。けれど、竜はまだ、石垣の上にいた。砂を踏んでいない。揺れが、来ない。


 降りてくるまで、待つ。


 時間が切れれば、続く長さは、真理が勝手に補う。


 三度目の炎は、いちばん汚かった。


 炎というより、黒い煙の塊だった。その中に、赤い火が、ちぎれちぎれに混ざっている。ルルの払った風に乗って、健司はぎりぎりのところで横へ逃げた。熱が、頬をなでていった。外套の裾に火の粉が降り、ことごとく弾かれた。


 竜の喉の奥で、火の音が、途切れた。


 火袋が、切れたのだ。


 竜が、首を低くした。裂けた翼をたたみ、後ろ脚に、力をためる。


【残り時間:0:40】


 竜が、跳んだ。


 赤銅色の体が、河原の真ん中へ、まっすぐに落ちてくる。前脚の爪が、大きく開いていた。


 続くのは、百を数えるあいだ。終われば、粒はまたかみ合う。沈んだものを、抱えこんだまま。


【承認:復元条件の定義】


【全項目が承認されました。事象を実行します】


 前脚が、砂を打った。


 ----------------


 河原が、震えた。


 竜の前脚の下で、砂が、砂でなくなった。黒い泥が、前脚を飲みこむように盛り上がった。続いて落ちてきた後ろ脚も、同じだった。


 竜は、何が起きたのかわからないように、首をめぐらせた。足を引き抜こうとして、もがいた。もがくほど、まわりの砂がゆるみ、泥になっていった。


 脚が沈み、腹が沈んだ。


 そこで、止まった。


 泥は、竜の体より重い。腹まで泥に浸かって、竜は、それ以上は沈まなかった。そのかわり、もう、どこへも動けなかった。


 裂けた翼が、泥をはね上げて暴れた。泥のしぶきが、健司の顔にまで飛んできた。


 竜の首が、健司に向かって伸びた。


 顎が、目の前で開いた。


 健司の体が、うしろへ引かれた。橋の上で、ルルが手のひらを引いていた。閉じた顎が、さっきまで健司の胸があったところで、空を噛んだ。牙のぶつかる音が、骨にまで響いた。


 竜の左の脇腹は、泥の上に出ていた。


 翼の付け根の、すぐうしろ。焦げた布を巻いた剣の柄が、まっすぐに空を向いていた。


「ルルさん!」


 橋の上で、ルルが両手を空へ掲げた。


「雷よ、槌となれ」


 晴れた空に、低い音が転がった。


「天を砕き、その身を貫け」


 ルルの風が、健司をさらにうしろへ、河原の端まで運んでいった。


 空が、暗くなった気がした。雲は、どこにもなかった。


 健司は、ルルを見た。


 金色の瞳が、ただ一点を見ていた。こぶしほどしかない、鉄の柄を。


「――マレウス・フルミニス!」


 空が、割れた。


 白い光が、槌のように振り下ろされた。


 剣の柄に、まっすぐに。


 光は、鱗の上を這わなかった。剣に吸いこまれるように、消えた。


 次の瞬間、竜の体じゅうの鱗が、逆立った。


 たたみかけていた翼が、ばねのように開ききった。長い首が、空へ向かって、棒のように伸びた。声は、出なかった。かわりに、大木が裂けるような音が、竜の体の奥から聞こえた。


 竜の腹のまわりの泥が、いっせいに煮え立った。白い湯気が噴き上がり、泥の上を、青白い光の輪が、何重にも広がっていった。


 光の輪は、河原の端まで走ってきた。


 健司の足の下を、通り抜けていった。握りこぶしひとつぶんのすき間の、その下を。


 浮いていた。だから、届かなかった。


 音が、やんだ。


 竜の首が、ゆっくりと傾いた。そのまま、重い音を立てて、河原に横たわった。開いたままの翼が、ゆっくりと、泥の上に倒れていった。


 健司は、竜の腹を見た。


 腹が、静かに上下していた。


 生きていた。気を、失っていた。


 ----------------


 橋の上で、張りつめていた糸が切れたように、ルルがぺたんと座りこんだ。膝が、遅れて震えだした。コンラートが、紙の束を放り出して、その肩を抱いた。


「ルルさん!」


「……当たった?」


 小さな声だった。


「当たりました。真ん中に」


 ルルは、コンラートの腕の中で、小さく笑った。


「……でしょ」


 八十。八十一。


 健司は、数えていた。百を数え終えれば、砂は元に戻る。沈んだ竜を、腹まで抱えこんだまま。


「ルルさん。僕の風を、ほどいてください。あいつの背中の上で」


 ルルが、健司のほうへ手のひらを向けた。健司の体は、泥の上に倒れた翼をつたって、竜の肩まで運ばれ、そこで、ふっと下ろされた。


 竜の肩の鱗は、まだ温かかった。焦げたにおいがした。


 九十九。百。


 足もとで、河原の泥が、音もなく固まっていった。


 健司は、剣の柄に手を伸ばした。


 熱かった。鉄が、まだ雷の熱を持っていた。健司は、外套の裾で両手を包み、その上から、柄を握った。ルルのかけた外套は、火の粉くらいなら、はじく。


 引いた。


 動かなかった。


 四か月のあいだ、鱗と肉が、刃をくわえこんでいた。両足を踏んばっても、刃は、指一本ぶんも出てこない。


 体の限界を外す力なら、説明はいらない。


 荒野の村で、木から落ちてくるニナを受け止めたときと、同じだ。


 健司は、自分の体に、許した。


 腕の筋が、軋んだ。背中に、火がついたような痛みが走った。歯を食いしばると、口の中に、鉄の味がした。


 刃が、鈍い音を立てて、動いた。


 一度動けば、あとは早かった。長い刃が、鱗のあいだから抜け出てきた。刃は、根もとから切っ先まで、赤黒い血にまみれていた。最後の一寸が抜けたはずみに、健司は剣を抱えたまま、うしろへひっくり返った。竜の背中を転がり落ち、固まった砂の上に、背中から落ちた。


 空が、青かった。


 腕の中に、剣があった。


 柄頭に、紋章が刻まれていた。山の向こうに沈む日と、その手前に立つ、ひとつの石。


「アーベントシュタインの紋じゃ」


 橋の上から、コンラートの声が降ってきた。


「……坊の、剣じゃ」


 竜のまぶたが、ぴくりと動いた。


 ----------------


 ルルが、健司に、もう一度ブリーズをかけた。


 三人は、川に沿って、下流へ向かった。焼けた街を抜け、崩れた壁を抜け、黒い畑の上を、谷の出口へ。


 河原を離れる直前、ルルの風が、ふいに低く沈んだ。


 ルルは、浮いたまま身をかがめ、竜のまわりの砂から、何かをすくい上げた。さっきの雷で剥がれ落ちた、赤銅色の鱗だった。


「今ですか!」


「今しかないでしょ! 高く売れるんだから!」


「命より鱗か、おぬしは!」


「どっちも!」


 背後で、竜が目を覚ました。


 低いうなり声が、谷に響いた。振り返ると、竜が、腹まで固まった砂の中で、身をよじっていた。裂けた翼が、むなしく空を打っている。


 あの体なら、固まった砂など、いずれ割るだろう。けれど、もう、追ってはこなかった。


「縄張りの外へは、追ってこん」


 コンラートが、肩で息をしながら言った。


「あいつにとって、わしらは、追い出したよそものじゃ。……今ごろ、勝ったつもりでおるわい」


 谷の出口を抜けたとき、うしろで、もう一度だけ、竜が吠えた。


 それきり、谷は静かになった。


 ルルが、三人の風を、少しずつゆるめていった。


 最初に聞こえたのは、ルルのお腹の音だった。


 竜の雄叫びに、負けないくらいの音だった。


「……いまのは、聞かなかったことに」


「無理じゃ」


 コンラートが、即座に言った。


 健司は、笑おうとした。腕が、震えていた。剣を抱えた腕が、自分のものではないみたいに、がくがくと震えていた。あしたは、きっと、指一本動かせない。


 それでも、剣は離さなかった。


 救援を呼びに来た騎士の剣が、ここにある。


 わからないことは、見て、確かめるしかない。ブレドールの食堂で、そう思った。


 見て、確かめた。今度は、確かめたものを、持って帰る番だった。


ついに倒せましたね。


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