『全能』2章10話 入り口(33)
『全能』第33話
竜は、丘から飛んではこなかった。
翼を広げずに、地面を歩いてきた。崩れた家々の屋根の向こうで、赤銅色の背中が、ゆっくりと見え隠れした。首を低くし、ときどき止まっては、鼻先を左右に振っている。
「においを、探しておる」
コンラートが、ささやいた。
「あいつは、目より鼻じゃ。煙をかぶったあとは、とくにな」
足音が、近づいてきた。石畳が、ひとつ踏まれるたびに、礼拝堂の床が小さく震えた。
ルルが、そっと両手を胸の前で合わせた。
「闇よ、帳となれ。我らを包み、その目から隠せ」
ささやくような詠唱だった。
「――ウェールム・ウンブラエー」
礼拝堂の中が、暗くなった。
夜が来たのではなかった。三人のまわりにだけ、黒い布を何重にも垂らしたような闇が下りていた。自分の手さえ、見えなくなった。
闇の中で、誰かの手が、健司の袖をつかんだ。小さな手だった。
すぐ外で、足音が止まった。
鼻を鳴らす音がした。一度。二度。熱い息が、壁の切れ目から流れこんできた。焼けた石のにおいがした。
健司は、息を止めた。
闇の中で、コンラートの紙の束が、かさりと鳴った。
鼻を鳴らす音が、止んだ。
次の瞬間、礼拝堂の壁が、外から押し破られた。崩れた石の向こうから、竜の頭が突っこんできた。闇の帳の中を、縦に裂けた瞳が、まっすぐこちらへ探ってくる。
ルルが、闇を解いた。
「光よ、閃け。昼を呼び、その目を射よ」
解けた闇の真ん中で、ルルの手のひらが、白く燃えた。
「――フルゴル・ルキス!」
世界が、白一色になった。
健司は、とっさに腕で目をかばった。それでも、まぶたの裏が真っ白になった。闇に慣れようとしていた竜の目には、なおさらだったはずだ。
竜が、悲鳴のような声を上げてのけぞった。頭が礼拝堂の石のアーチにぶつかり、アーチが崩れ落ちた。
「出る!」
ルルが、三人の風を、崩れた壁の反対側へ向けた。
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川べりの通りを、三人は下流へ向かった。
うしろで、竜が追ってくる音がした。まだ目が見えていないのか、家の角に体をぶつけながら、それでも、まっすぐこちらへ向かってくる。においで、追っている。
ルルが、走る風の上で、くるりと振り返った。
「風よ、刃となれ。月を象り、あらゆる縛めを刈り取れ」
ルルの手のひらの先で、空気が、甲高く鳴りはじめた。
「――ファルクス・ウェンティ!」
人の背丈ほどもある銀色の三日月が、飛んだ。
竜が、翼を広げて飛び上がろうとした、その瞬間だった。三日月が、左の翼の膜を、根もとから外へ、一直線に裂いていった。
竜は、片方の翼だけで空を打ち、ぐらりと傾いて、通りに落ちた。
「効いた……!」
ルルの声が、震えていた。
「あの日は、何ひとつ、切れなかったのに」
処刑の広場の、光る縄のことだろうと、健司は思った。柱に縛られたルルの手首で、縄の紋様が光っていたのを覚えている。
「若いうちは、まだ魔法が通る」
コンラートが、紙の束を抱えたまま言った。
「育ちきった竜には、何ひとつ効かんがのう。……三十で、よかった」
竜が、裂けた翼を引きずりながら、身を起こした。もう、うまくは飛べない。そのかわり、地面を蹴る脚は、少しも弱っていなかった。
ルルが、通りの真ん中で止まった。
「ルルさん?」
「ここで、止める」
ルルは、両手を空へ掲げた。帽子のつばの下で、金色の瞳が、竜を見すえていた。
「雷よ、槌となれ。天を砕き、その身を貫け」
晴れた空に、低い音が転がった。
「――マレウス・フルミニス!」
空が、割れた。
白い光の柱が、槌を振り下ろすように落ちてきた。竜の背中に、まっすぐに。
音が、遅れて来た。耳が、何も聞こえなくなった。
光は、竜の背中で砕けた。砕けた光は、細い蛇の群れのようになって、赤銅色の鱗の上を、背中から脇腹へ、脇腹から脚へと、這い下りていった。そのまま石畳へ抜け、敷石のすき間を、青白く走って消えた。
竜の体が、一度だけ、大きく跳ねた。
裂けた翼が、ばさりと広がって、また垂れた。背中の鱗から、細い煙が何本も上がっていた。焦げたにおいが、通りに広がった。
それだけだった。
竜は、首を振った。それから、ゆっくりと、こちらを向いた。
「……効いて、ない?」
ルルの顔から、血の気が引いていった。
「雷の日にも、あいつらは平気で飛んでおる」
コンラートが、うめくように言った。
「わしは、何度も見た。雷に打たれても、落ちてこん」
健司は、竜の背中を見ていた。
光は、鱗の上を這っていった。中へは、入らなかった。表面を走って、地面へ抜けた。
雷に打たれても、助かる人がいる。電気が、濡れた肌の表面を流れて、体の中を通らなかったときだ。研究室の安全講習で、そう聞いた。
あの鱗は、殻だ。電気を、中へ通さない。
だとしたら、殻の内側へ、じかに通じている道があれば。
健司の目が、竜の左の脇腹に止まった。
翼の付け根の、すぐうしろ。鱗を割って、深く沈んだ、鉄の刃。
「……入り口だ」
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三人は、崩れた倉の陰に飛びこんだ。
竜は、通りの向こうで、裂けた翼をたたもうとしていた。うまくたためずに、何度も首を振っている。
「ルルさん。さっきの雷は、もう一度、撃てますか」
ルルは、帽子のつばを握りしめたまま、健司を見た。
「撃てる。……でも、さっきと同じじゃ、効かないんでしょ」
「ミヒャエルさんの剣に、当ててください」
ルルの目が、見開かれた。
「……あの柄、こぶしくらいしかないよ」
「当てられますか」
ルルは、少しだけ黙った。それから、うなずいた。
「当てる」
「あの鱗は、雷を通しません。だから、雷は外側を流れて、地面に逃げた。でも、あの剣は、鱗の内側まで刺さっている。剣に落ちた雷は、そのまま、体の中に入ります」
「中に、入っても……」
「出口が要ります」
健司は、ルルの手を取って、その手のひらに、指で一本の線を引いた。
「入る口と、出る口。そのあいだに道があって、初めて、中を流れる」
ルルが、はっとした顔をした。
ブレドールの井戸端で、ルルが言った言葉だった。まず、流れる道を、頭の中に描くの。水路を引くみたいに。
「ルルさんの雷にも、道を描きます」
健司は、倉の壁のすき間から、川を見た。
城の丘の下で、川が大きく曲がり、内側に、広い砂の河原ができていた。水を吸って、黒く湿った砂。エクラ公の畑で見たのと、同じ色だった。
「水を吸った砂なら、雷はよく通ります。あの河原で、あいつの脚と腹を砂に沈めれば、そこが出口になる。剣から入った雷は、体を通って、砂へ抜ける」
「沈めるって、どうやって」
「エクラ公の畑で、やりました」
ルルが、息をのんだ。猪の群れが、胸まで泥に沈んだ夜のことだった。
「でも、雷が砂に抜けたら、まわりの砂じゅうに広がるんじゃないの? ケンジさんが、そばにいたら」
「浮いていれば、届きません」
健司は、自分の足もとを見下ろした。握りこぶしひとつぶんの、すき間があった。
浮いたまま、足を動かせない。そのせいで、鳥の前でも、群れの主の前でも、ただの的だった。
その同じすき間が、今度は、自分を守る。
「あいつを、河原に降ろす手なら、ある」
コンラートが、低く言った。
「火袋は、もう戻っておるころじゃ。だが、切れたら、若いのは、かならず地面に降りて、爪でかかる。翼を裂かれた今なら、なおさらじゃ。三度、火を吐かせればいい」
「おとりが、要りますね」
健司が言うと、ルルが、健司の袖をつかんだ。
「だめ」
「あいつは、においで追ってきます。河原の真ん中に降ろすには、においのもとが、そこにいないと」
「だめ。わたしがやる」
「ルルさんは、剣に雷を当てる人です。ルルさんにしか、できない」
ルルは、唇を噛んだ。
長い沈黙のあと、ルルは、健司の胸もとに、手のひらを押し当てた。
「プロテグラ」
指先からこぼれた光が、外套の上で、何度も重なった。けさよりも、きのうの朝よりも、ずっと強く。布が、板のように固くなっていった。
「……三回ぶん。かけたから」
ルルは、顔を上げなかった。
「ちゃんと、戻ってきてね」
「はい」
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ルルとコンラートは、河原の下手にかかる石の橋の上に移った。橋は高く、足もとは乾いた石だった。河原の真ん中まで、五十歩ほど。ルルの雷が届く近さで、砂に抜けた雷は届かない遠さだった。
橋の上から、ルルが健司のほうへ手のひらを向けた。健司の風を、離れたところから支えている。
健司だけが、河原の真ん中に浮いていた。
黒く湿った砂が、足の下に広がっていた。ところどころに水たまりがあり、浅い流れが、砂の上を細く横切っている。
通りの奥から、竜が現れた。
裂けた翼を半ば広げ、首を低くして、河原へ下りてくる。においが、わかったのだ。縦に裂けた瞳が、河原の真ん中の、ひとりきりの獲物をとらえた。
健司は、竜の脇腹を見た。
剣の柄は、まだ、そこにあった。
(あの河原の、砂を)
頭の周りに、半透明のウィンドウが開いた。
【事象の定義を開始します:土の粒の結びつきの変更】
【残り時間:5:00】
竜の顎が、開いた。
奥で、赤いものが、ふくらんでいく。
ドラゴン強い。
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