『全能』2章9話 三度目の炎(32)
『全能』第32話
竜が、翼をたたんだ。
赤銅色の体が、石のように落ちてくる。
「つかまってて!」
ルルの声と同時に、足もとの風が、ぐいと横へ流れた。健司の風も、コンラートの風も、いっしょにだった。三人の体が、そろって焼けた畑の上を横すべりする。
竜の顎が、開いた。
奥で、赤いものがふくらんだ。
炎だった。けれど、健司が思っていた炎ではなかった。赤く、濁っていた。途中でちぎれ、黒い煙を引きずりながら、いくつもの塊になって降ってくる。
燃えきっていない。
そう思ったのと、ルルが叫んだのが、同時だった。
「水よ、盾となれ。炎を鎮め、我らを覆え」
ルルが、川のほうへ手を振った。
「――スクトゥム・アクアエー!」
川面が、持ち上がった。
水は、大きな鐘の形になって三人の上にかぶさり、そこへ、炎の塊が叩きつけられた。
白い爆発が起きた。
湯気だった。水の鐘の表面で、炎が次々に湯気に変わり、熱い霧になって、畑じゅうに転がっていく。水の鐘は大きく波打ち、それでも、破れなかった。
鐘のふちからこぼれた火の粉が、健司の外套に落ちて、ぱちりと弾かれた。けさ、山を登る前に、ルルがかけ直したプロテグラだった。
鼻の奥に、焦げた油のようなにおいが残った。
霧の向こうで、竜が羽ばたきの音を残して、舞い上がっていった。
「若いのは、火袋が小さい!」
コンラートが、紙の束を抱えたまま叫んだ。
「三度吐けば、しばらくは吐けん! 三度じゃ!」
「あと二回ってこと?」
「そうじゃ!」
「街に入る!」
ルルが、崩れた壁の切れ目へ、三人の風を向けた。
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焼けた通りを、三人は浮いたまま駆け抜けた。
ルルが、先頭にいた。右手で自分の風を、左手で後ろのふたりの風を動かしている。角を曲がるたびに、三人の体がそろって傾いた。
二日前の街道では、ルルには、健司の風まで動かす余裕はなかった。
今は、三人ぶんを、ひとりで動かしていた。唇を引き結び、まばたきもせずに、焼けた通りの先を見すえている。
角を曲がったはずみに、コンラートの腕から、紙の束がひとつ、すべり落ちた。
健司は、とっさに手を伸ばした。足は動かせない。腕だけで、どうにか束の紐をつかんだ。
「落としたら、四十年が……!」
「落としてません!」
頭の上を、影がよぎった。屋根の上を、竜がついてきていた。焼け落ちた屋根の穴ごしに、赤銅色の腹が、何度もちらついた。
通りが、広場に出た。
その真ん中に、竜が降ってきた。
石畳が割れ、敷石が跳ね上がった。三人の行く手をふさぐように、竜は翼を広げて、首を低く構えた。
近くで見ると、思ったほど大きくはなかった。尾の先まで入れて、八メートルほどだろう。それでも、首を持ち上げれば、二階の窓に届いた。
縦に裂けた瞳が、三人を見ていた。熱が、顔に届いた。焼けた石のようなにおいがした。
左の翼の付け根の、すぐうしろに、剣の柄が突き出ていた。刃は、根もとまで鱗の下に沈んでいる。柄に巻かれた布は、黒く焦げて、ぼろぼろになっていた。
竜の前脚が、地面を蹴った。
「土よ、壁となれ。大地を起こし、災いを阻め」
ルルが、両手を石畳についた。
「――ムルス・テッラエー!」
地面が、立ち上がった。
敷石と、その下の土が、波のようにせり上がり、三人と竜のあいだに、一枚の壁になった。壁は、ルルの背を越え、二階の窓を越え、まだ伸びた。
竜が、そこへ頭から突っこんだ。
重い音がして、壁に、大きな亀裂が走った。けれど、崩れなかった。
ルルが、目を丸くして壁を見上げていた。
「……ここ、土が濃いの、忘れてた」
ゆうべ、指先の小さな火が、こぶしほどに膨らんだのを、健司は思い出した。
壁の向こうで、竜が首を振る音がした。
それから、壁の上の空が、赤く濁った。
「上!」
二度目の炎だった。壁を越えて、上から降ってくる。
ルルが、川のほうへ手を振って、同じ詠唱を叫んだ。水の鐘が、ふたたび三人を包み、炎の塊を、白い湯気に変えていった。
湯気が晴れていくあいだ、健司は、空を見ていた。
竜の吐いた炎の跡に、黒い煙が、帯になって残っていた。風に流され、ゆっくりと薄れていく。
燃えきらない炎は、煙が多い。燃えるはずのものが、燃えないまま、すすになって出ていくからだ。
あの煙は、どこへでも流れていく。
流れていく向きなら、変えられる。
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(あいつの、頭のまわりの煙を)
頭の周りに、半透明のウィンドウが開いた。
【事象の定義を開始します:気流の向きの変更】
【残り時間:5:00】
ルルが、三人の風を広場の外れの路地へ向けた。竜は、壁の向こうで翼を広げ、ふたたび舞い上がっていく。
範囲は、竜の頭のまわり、半径三歩の球。頭が動けば、範囲もいっしょに動く。
【承認:対象範囲の指定】
動かすのは、竜の炎から出た煙だけ。まわりの空気そのものには、触れない。
【承認:対象の指定】
範囲の中の煙が、外へ出ていこうとする向きを、内へ返す。速さは、足さない。向きを、変えるだけ。
【承認:気流の定義】
【未定義変数:大気中マナ濃度に対する気流変換率】
要らない。煙を吐くのも、範囲を引きずって動かすのも、あいつ自身だ。
【判定:新たなエネルギーの発生なし。変換率の定義は不要です】
範囲の外には、何もしない。
【承認:境界条件の定義】
残ったのは、続く長さだけだった。
今、決めれば、すぐに始まる。けれど、竜の頭のまわりに、煙はもうほとんど残っていなかった。煙が要る。
三度目の炎を、待つ。
「ルルさん。次の火を、もう一度だけ、防いでください」
「言われなくても!」
路地を抜けると、川べりの通りに出た。右手に、城の丘がそびえていた。途中から折れた塔が、丘の上に黒く立っている。
竜が、城の上で輪を描いた。
【残り時間:1:10】
首が、こちらを向いた。
竜は、丘の上から、まっすぐに滑り降りてきた。顎が開く。奥で、赤いものがふくらむ。
「水よ、盾となれ。炎を鎮め、我らを覆え」
ルルは、川へ向けた手のひらを、少しも震わせなかった。
「――スクトゥム・アクアエー!」
三度目の炎は、いちばん汚かった。赤い塊の半分は、もう炎でさえなかった。黒い煙の固まりが、炎の尾を引きずって、水の鐘に叩きつけられた。
続くのは、三十を数えるあいだ。
【承認:持続条件の定義】
【全項目が承認されました。事象を実行します】
竜のうしろへ流れていくはずの煙が、止まった。
止まって、向きを変えた。
黒い煙は、見えない壁にはね返されるように、竜の頭のまわりへ戻り、そこで、渦を巻いた。長い首の先が、すっぽりと、黒い袋をかぶったようになった。
竜が、首を振った。
袋は、ついていった。
振っても、振っても、黒い煙は頭から離れなかった。竜は、むせるような声を上げた。翼の動きが乱れ、体が、大きく傾いた。
その先に、城の折れた塔があった。
竜は、塔の真ん中に、横腹から突っこんだ。
石が、砕ける音がした。
塔が、ゆっくりと、竜ごと折れ曲がっていった。最初に崩れたのは、上の半分だった。それから、残っていた下の半分が、自分の重さに耐えきれずに、内側へ沈んだ。
丘の上に、土ぼこりの柱が立った。
三十を数え終えるころ、黒い煙は、ふっとほどけて、風の中に消えた。
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三人は、川べりの崩れた礼拝堂に飛びこんだ。
屋根はなかったが、厚い石の壁が、三方に残っていた。ルルは壁に背中を預けて、片方にずれた帽子を、両手で直していた。
「……今の、ケンジさん?」
「はい」
「黒い袋、かぶせたの?」
「煙を、返しただけです。あいつが吐いた煙を、あいつの頭のまわりに」
ルルは、何か言おうとして、やめた。かわりに、ルルのお腹が、長々と鳴った。
コンラートが、じろりとルルを見た。
「……水の盾、三回。土の壁、一回。ブリーズ、三人ぶん」
ルルは、真っ赤になって、指を折って数えた。
「しかたないの」
コンラートは、ふん、と鼻を鳴らした。それから、紙の束を胸に抱えなおして、壁のすき間から、丘の上をうかがった。
「あれで死ぬようなやつではない」
「わかっています」
健司も、すき間から外を見た。
礼拝堂の先で、川べりの通りは、街の外へ続いていた。街を出れば、谷の出口まで、焼けた畑が広がっている。身を隠せるものは、何もない。
「谷を出るには、畑を通るしかない。……空から、丸見えです」
「あいつは、縄張りに入った獲物を、逃がさん。若いのは、とくにじゃ」
コンラートの声は、静かだった。
逃げきれない。隠れつづけることも、できない。
倒すことは、たぶん、できない。あの塔を崩しても、立ち上がってくる相手だ。
ならば、止めるしかない。どうやって。
丘の上の、土ぼこりが晴れていった。
崩れた塔のがれきの山が、動いた。
石がひとつ、転がり落ちた。それから、山の内側から、赤銅色の翼が突き出た。がれきを押しのけ、竜が、身を起こしていく。首を振るたびに、石のかけらが、ばらばらと丘の斜面を落ちていった。
竜は、空に向かって吠えた。
さっきの雄叫びとは、違う声だった。
怒っていた。
健司は、壁のすき間から、その脇腹を見ていた。
左の翼の付け根の、すぐうしろ。舞い上がる土ぼこりの中で、鉄の光が、またひとつ、きらりと光った。
初めての共闘ですね。熱い。
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