『全能』2章8話 ひとつだけの光(31)
『全能』第31話
ルルの手のひらの上に、白い光の玉が浮かんだ。
「目の高さまで、下げてください。それで、そのまま動かさないで」
「エクラ公のときと、同じ?」
「同じです」
ルルは光の玉を、ふたりの目の高さに下ろした。水車小屋の石の壁が、白く照らし出された。
「わたしの光は、六割だからね。エクラ公みたいには、まぶしくないよ」
「十分です」
健司は、暗い谷のほうを向いた。
(この谷の、マナの濃いところに、印を)
頭の周りに、半透明のウィンドウが開いた。
【事象の定義を開始します:光の進む向きの変更】
【残り時間:5:00】
光源は、ルルの光の玉。玉そのものには、触れない。光の量も、変えない。
【承認:光源の指定】
範囲は、光の玉から、十ペゴまで。街も、そのまわりの山の中腹も、そこに入る。
【承認:対象範囲の指定】
印をつけるのは、マナが、体の中と同じくらい濃いところ。
【未定義変数:判定に用いるマナ濃度の基準】
赤い文字だった。けれど、変換率ではなかった。
数字は、わからない。わからないものを、当てずっぽうで埋めることは、もうしない。
数字は要らない。比べればいい。
基準は、自分の体の中のマナ。それと同じか、それより濃いところ。
【承認:判定基準の定義】
健司は、小さく息を吐いた。物差しは、自分の体だった。
印は、そこの真上の、外の空気。地面から高さ十歩までの、細い柱。洞窟の中や、地下の倉にいても、真上の外の空気なら、光は届く。
その柱を通る光だけを、来た道へ、まっすぐ返す。夜の獣の目と、同じことだ。
【承認:光路の定義】
【未定義変数:大気中マナ濃度に対する光路変換率】
今度の赤い文字は、知っている文字だった。
要らない。光の量は、変えていない。向きだけだ。
【判定:新たなエネルギーの発生なし。変換率の定義は不要です】
返ってくる光は、光の玉のまわり、半歩より外へは出さない。この谷の、ほかの誰の目にも届かない。
【承認:境界条件の定義】
続くのは、百を数えるあいだ。
【承認:持続条件の定義】
【全項目が承認されました。事象を実行します】
最初に光ったのは、すぐそばだった。
ルルの頭の上に、細い白い光の柱が、すっと立った。
「わ、わたしにも、立ってる」
見上げると、健司の頭の上にも、同じ柱が立っていた。
「ルルさんも、僕も、生きていますから」
ルルは、くすぐったそうに笑いかけて、それから、谷のほうへ顔を向けた。
健司も、目をこらした。
黒い街が、広がっていた。焼けた屋根の連なり。崩れた壁。丘の上の、折れた塔。
光の柱は、一本も立たなかった。
川べりにも、城の丘にも、通りの奥にも。どこにも。
ルルの手が、かすかに震えた。光の玉が、ほんの少しだけ揺れた。
「……みんな、空に還ったんだね」
健司は、答えなかった。
六十。六十一。
数えながら、街の上から、山すそへ目を移していった。焼けた畑。岩の多い斜面。その上の、黒い山肌。
「……あ」
ルルが、息をのんだ。
山の中腹だった。馬の鞍のような形をした大きな岩の、少し下。針の先ほどの小さな光が、ひとつだけ、ぽつりとともっていた。
健司の頭の上の柱と、同じくらいの、細い光だった。
「いた」
ルルの声は、ささやきだった。
「いた、ケンジさん。いた」
健司は、光の場所を目に焼きつけた。鞍の形の岩の、少し下。川の曲がり目から、まっすぐ上。
百を数え終えると、光は、ふっと消えた。
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東の空が白みはじめるころ、ふたりは山を登りはじめた。
岩の多い急な斜面に、細い踏み跡が続いていた。ブリーズで登るには、岩が多すぎた。ここからは、自分の足だった。
森の調査で、山道には慣れていた。足を置く石を選び、息を一定に保って、休まずに登る。
しばらくして振り返ると、ルルが、ずいぶん下で膝に手をついていた。
「……ケンジさん。なんで、そんなに、平気なの」
「慣れです」
「ずるい」
長靴で岩を登るのは、たしかに大変そうだった。健司は、少し下りて、ルルの手を引いた。
鞍の形の岩の下は、切り立った崖になっていた。その崖の根もとに、平たい大岩が、立てかけるようにして寄りかかっていた。人の背丈より大きい。岩と崖のあいだには、腕が一本入るほどのすき間しかなかった。
岩の脇の茂みに、太い丸太が一本、隠すように寝かせてあった。片方の端が、すり減って丸くなっていた。
「てこだ」
健司がつぶやくと、ルルが首をかしげた。
大岩の、すき間の前に立った。
「コンラートさん」
ルルが、すき間に向かって呼びかけた。
「いらっしゃいますか。わたしたち、王都から来ました」
返事はなかった。
風が、崖をなでていった。
「陛下の命で、この地で何が起きたのかを、調べに来ました」
しばらくして、岩の向こうで、何かがこすれる音がした。
「……王都から、じゃと?」
しわがれた声だった。
すき間から、太い棒の先が突き出てきた。棒が岩の根もとの石に掛けられ、ぐっと押し下げられる。大岩が、きしみながら、ゆっくりと横へずれていった。
現れたのは、やせた老人だった。
白い髪とひげが、胸まで伸びていた。何枚も重ねた外套はすりきれ、指先はインクで黒く染まっている。肩から、長い筒を斜めに下げていた。
遠眼鏡だった。
あの館の壁の、釘の下に残っていた細長い形を、健司は思い出した。
「魔法使いと……」
老人は、落ちくぼんだ緑の目で、ルルと健司を順に見た。
「そっちは、なんじゃ。従者か」
「健司です。ルルさんと、いっしょに来ました」
「どうやって、ここがわかった。誰にも見つからんように、四か月、ここにおった」
健司は、少し迷ってから答えた。
「……マナを、探しました」
老人の目が、ぎょろりと動いた。
「マナを、探した?」
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洞窟の中は、思ったより広かった。
奥の岩のすき間から、細く水がしたたっていた。干した肉と、麦の袋。岩の壁には、炭で引いた線が、びっしりと並んでいた。日を数えた跡らしかった。入り口の近くには、外をのぞくための細いすき間があり、そこに遠眼鏡を据える台が置かれていた。
そして、紙の束だった。洞窟の半分を、紐でくくった紙の束が埋めていた。
「竜の記録じゃ。四十年ぶんある」
コンラートは、ふたりに水の椀を差し出した。
「春の終わりじゃった。巣立ちの年でな」
「巣立ち」
「三十になった若い竜が、親の縄張りを追われて、山を降りてくる年じゃ。わしは、何年も前から、辺境伯様に申し上げておった」
コンラートは、壁の炭の線に目をやった。
「先に来たのは、ワイバーンの群れじゃった。山すそに巣をかけておった連中が、降りてくる竜に追われて、町へなだれこんだ。その後ろから、竜が来た」
ルルが、椀を両手で握りしめた。
「辺境伯様は、騎士団を率いて、城の壁で戦われた。ミヒャエル坊も、そこにおった」
ミヒャエル。エクラ公の口から聞いた名前だった。
「坊はな、竜の脇腹に、剣を突き立てた」
コンラートの声に、わずかに熱がこもった。
「竜に傷をつけた騎士なぞ、わしの四十年の記録にも、おらん。……剣は、抜けんかった。あいつは今も、坊の剣を脇腹に刺したまま、この谷を飛んでおる」
「それで、ミヒャエルさんは」
「辺境伯様が、坊に言われた。王都へ行け、救援を呼んでこい、と」
コンラートは、目を閉じた。
「伝令なら、誰でもよかった。あれは、坊を死なせんための方便じゃ。わしは、そばで聞いておった。坊は、最後まで、残ると言い張っておったがのう」
「辺境伯様は」
「その夜、城で亡くなられた」
洞窟の中が、しんとした。水のしたたる音だけが、続いていた。
「わしは、記録を持って、ここへ逃げた。何晩もかけて、少しずつ運びこんだ。辺境伯様の、最後のお言いつけじゃった。見たものを、書き残せ。いつか、王都に伝えよ、と」
ルルが、顔を上げた。
「コンラートさん。ミヒャエルさんは、王都で、捕まりました」
コンラートの目が、開いた。
「魔物を領地に引き入れたって。そう言われて、今も」
しばらく、コンラートは何も言わなかった。
それから、手の中の椀を、岩の上に置いた。ことり、と小さな音がした。
「……坊が、竜を、引き入れた?」
低い声だった。
「竜は、人の言うことなぞ聞かん。王の言うことも、神の言うこともじゃ。誰にも、引き入れられるものか」
コンラートは、紙の束の山を見た。
「坊の言うとることは、ほんとうじゃ。わしが、この目で見た。ここに、ぜんぶ書いてある」
救援を呼びに来た者が、捕まった。
砦の朝食で、健司が口に出さなかった言葉だった。その答えを持っている人が、ここにいた。
「わしが、王都へ行く」
コンラートは、立ち上がった。思ったより、まっすぐな背中だった。
「見たものを、ぜんぶ話す。そのために、四か月、ここで生きておったんじゃ」
それから、壁の炭の線を、指でたどった。
「急がねばならん。あいつは、三日に一度、縄張りを見回りに来る。前に通ったのは、三日前の昼じゃ」
「じゃあ」
「今日じゃ。昼までに、縄張りを出る」
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昼までに縄張りを出るには、紙の束が多すぎた。
「これを置いていけるか!」
コンラートは、一束も譲らなかった。四十年ぶんの記録だった。健司には、その気持ちがわかった。自分でも、きっと置いていけない。
結局、三人で背負えるだけ背負った。残りは、洞窟の奥にしまって、大岩でふたをした。コンラートは丸太を使い、岩の根もとに支点の石をかませて、ひとりで大岩を動かしてみせた。
「学者は、腕より頭を使うもんじゃ」
健司は、思わず笑った。研究室にも、同じことを言う教授がいた。
山を下りきったところで、ルルはコンラートにも、ブリーズをかけた。
「おお……おお」
足もとの土ぼこりが輪になって広がり、老人の体が、握りこぶしひとつぶん持ち上がった。コンラートは、両腕を広げたまま固まった。
「コンラートさん。足は、動かさないでください」
健司は、真剣に言った。
「動かすと、どうなる」
「聞かないほうがいいです」
ルルが、横を向いて肩を震わせた。
三人は、谷を下りはじめた。焼けた畑の上を、川に沿って、黒い街のほうへ。街を抜ける道が、谷を出るいちばんの近道だった。
日は、もう高かった。
街の壁が、近づいてきたときだった。
谷じゅうの空気が、震えた。
雄叫びだった。耳ではなく、胸の骨で聞く音だった。
健司は、振り返った。
山の稜線の上に、赤銅色の翼が広がっていた。長い首。長い尾。逆光の中で、鱗が、ルルの拾ったあの鱗と同じ色に光っていた。
その左の脇腹で、何かが、きらりと光った。
鱗ではなかった。鉄の光だった。
「坊の、剣じゃ」
コンラートが、かすれた声で言った。
竜が、稜線を蹴った。
翼を広げたまま、谷へ滑り降りてくる。三人の上を、大きな影がよぎった。風が遅れて吹きつけ、焼けた畑の灰が、いっせいに舞い上がった。
竜は、黒い街の上で、大きく輪を描いた。
長い首が、ゆっくりと、こちらへめぐった。
目が、合った。
ドラゴンってかっこいいですよね。
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