『全能』2章7話 空に還る(30)
『全能』第30話
ブレドールの朝は、たき火の煙のにおいがした。
宿の裏口で、ルルが健司の胸もとに手のひらをかざした。
「プロテグラ。……今日のぶん。約束どおり、ちょっと強め」
指先からこぼれた光が、いつもより長く、上着の布目の上にとどまっていた。袖をつまむと、布は、なめした革のように固くなっていた。
「……肘が、曲げにくいです」
「がまんして。きのう、裾が裂けたんだから」
門のそばのたき火の向こうで、赤ん坊を抱いた女が、こちらを見ていた。ルルは、小さく頭を下げた。女は、何も言わなかった。
南の門を出たところで、ルルは健司と自分に、ひとつずつブリーズをかけた。
「移動のあいだも、授業だからね。おなかの下から、手のひらまで。道を描く練習」
「浮いたままで、ですか」
「浮いたままで。足は動かさないで、頭の中だけ動かすの」
先生は、なし。そう言ったのは、誰だったか。健司は黙って、頭の中に水路を引きはじめた。
----------------
川に沿って、谷をさかのぼっていった。
はじめのうちは、ブレドールへ来る道と同じ景色だった。刈り入れられないまま倒れた麦。誰にも摘まれずに、重たい房を垂らしたままの葡萄の畑。戸の開いた村。焼けても、壊れてもいない。人だけが、いなかった。
地平線の上の影だった大山脈が、少しずつ近くなった。昼すぎには、空の半分をふさぐほどになっていた。
その村は、川が大きく曲がるところにあった。
黒かった。
屋根という屋根が焼け落ち、石の壁だけが、すすに汚れて立っていた。村はずれの葡萄の畑も、支えの杭ごと、黒い灰になっていた。
そこから先は、ずっとそうだった。
川上へ進むほど、黒い村が続いた。どの村にも、人の姿はなかった。
ルルは、本を開かなかった。
----------------
日が西に傾きはじめたころ、谷の奥に、街が見えた。
領都アーベントシュタイン。
川をはさんで、街は山すそまで広がっていた。川べりの丘の上に、城がある。塔のいくつかが、途中から折れていた。
街を囲む石の壁は、ところどころが内側へ崩れ落ちていた。大きな門は、扉ごと、なかった。
街の中は、静かだった。
石畳のすき間から、背の高い草が伸びていた。焼け落ちた屋根の下から、黒くなった梁が、骨のように突き出している。壁の石には、熊手で引いたような溝が、何本も走っていた。溝の幅は、健司の腕より太かった。
爪の跡だった。
鳥の声が、しなかった。川の音と、ふたりの浮いている風の音だけが、焼けた通りに響いていた。
ブレドールの宿の主人は、何が来たのか、まともに答えられた者はひとりもいないと言っていた。
答えは、壁に刻まれていた。
「あった」
ルルが、王都の辻で買った古い本を開いていた。
「領都の見どころ。川沿いの、竜の骨を門に掲げた館。山の竜にもっとも詳しい学者、コンラートが住む……って」
館は、すぐに見つかった。
川べりの、二階建ての石の家だった。門の上に、牛の頭ほどもある白い骨が掲げられていた。長い年月に磨かれて、すべすべになっている。壁にはすすの跡が這い上がっていたが、屋根は落ちていなかった。
扉は、ちょうつがいが外れて、斜めに傾いていた。
「コンラートさん! いらっしゃいませんか!」
ルルの声が、家の中に吸いこまれていった。返事はなかった。
中は、本と紙の海だった。棚という棚が倒れ、床一面に紙が散らばっていた。インクの瓶が割れ、黒いしみが床板に広がって、乾いていた。
健司は、倒れた棚のひとつを起こした。
棚の札には、「竜」とあった。
中は、空だった。床に落ちてもいない。一枚も。
壁には、何かを掛けていたらしい釘が一本、打たれたままだった。釘の下の壁だけが、細長い形に、色が濃く残っていた。
「持ち出したんです」
健司は、空の棚を見ていた。
「ほかのものは、ぜんぶ置いていった。竜の書きつけと、ここに掛けていた何かだけを、持っていった。……慌てて逃げた人は、こんな選び方はしません」
ルルが、息をのんだ。
「じゃあ」
「どこかで、生きているかもしれない」
ブレドールには、来ていない。だとしたら、まだ、この谷のどこかにいる。
----------------
日が沈むまで、ふたりは街を探した。
名前を呼びながら、焼けた通りを、ひとつずつ浮いて回った。崩れていない地下の倉をのぞき、川べりの小屋の戸を叩いた。
街だけで、スイスのバーゼルくらい。王都の辻で、健司は自分でそう見積もった。浮いて回ってみると、数字よりずっと広かった。ふたりで半日かけても、その何十分の一も見られなかった。
城の丘のふもとに出たときだった。
「ケンジさん、これ」
ルルが、石畳から何かを拾い上げた。
手のひらほどの、薄い板だった。赤銅色で、ふちがわずかに反っている。夕日にかざすと、透けた奥のほうで、細かな筋が光った。
同じものが、丘のふもとの石畳に、いくつも散らばっていた。
「竜の、鱗……」
ルルの声が、震えていた。
健司は、身構えた。
「ルルさん、ここは」
「高く売れるんだから!」
ルルは、もう、しゃがみこんで二枚目を拾っていた。
「竜の鱗だよ? 竜って、もう、数えるくらいしかいないんだよ? これ一枚で、本が、何冊……」
「さっきまで、震えていませんでしたか」
「それとこれとは、別」
健司は、拾い上げた一枚を、夕日にかざした。
ふちが、少しも欠けていなかった。石畳の上で何か月も雨と風にさらされていれば、こうはならない。
「新しいです。落ちてから、そんなにたっていない」
ルルの手が、止まった。
ふたりは、そろって丘の上の城を見上げた。折れた塔の影が、長く、こちらへ伸びていた。
「……あと、三枚だけ」
ルルは、すばやく三枚を拾って、肩の袋に押しこんだ。
----------------
その夜は、街の外で過ごすことにした。
川下へ少し下った河原に、崩れかけた水車小屋があった。石の壁が残っている側に、小さな火をおこした。城の丘からは、壁の陰になって見えないはずだった。
ブレドールで買ってきた黒パンと干し肉を、ルルは健司の倍の速さで平らげた。
「まだ、食べるんですか」
「一日じゅう、ブリーズだもん。ふたりぶん」
三つめのパンを両手で持ったまま、ルルは、たき火に小枝をくべた。
「ねえ、ケンジさん」
火の粉が、ぱちりとはぜた。
「前に、言ってたよね。マナのことを知らなかったから、火が大きくなったって」
健司は、干し肉をちぎる手を止めた。
王都へ向かう前の夜に、自分の口から話したことだった。
「わたし、あのとき、何も教えてあげなかった。……今は、わたしが先生だから」
ルルは、パンをひざに置いて、手のひらを上に向けた。
「マナっていうのはね、魔法の素。空気の中に、いつも漂ってるの。目には見えないけど」
「空気の中に」
「うん。それが、七つあるの。火、水、雷、風、土、光、闇。それで、土地によって、混ざりかたが違うの」
ルルは、人さし指の先に、小さな火をともした。ろうそくほどのつもりだったらしい火が、ぼっと、こぶしほどに膨らんだ。ルルは慌てて、手を握って消した。
「ほらね。ここは、火と土が濃いの。ブレドールを出てから、ずっと、空気が火と土っぽい感じがしてた」
「土地によって、違う」
「まわりの国も、そうなんだよ。火の国は、火のマナが濃い土地。雷の国は雷。海の向こうの国は、水。……テルトロワは、七つが、ちょうど釣り合ってるの。だから、どの属性の魔法使いも生まれる。七人の賢者が、みんなテルトロワの生まれなのも、そのせいなんだって」
七つが釣り合った土地に、七つを使える魔法使いがいる。健司は、目の前の小さな先生を見た。ルルは、照れたように目をそらした。
「それでね。人の体の中にも、マナはあるの」
ルルは、自分のおなかの下のあたりに、手を当てた。
「魔力っていうのは、体の中のマナのこと。体の中のは、空気の中より、ずっと濃いの。ためておけるから。それに形をつけて、外に出すのが、魔法」
「ゆうべの、おなかの下の、あたたかいもの」
「そう。それ。獣にも、少しはあるよ。魔物には、もっと。竜には……桁違いだって、本には書いてあった」
ルルは、たき火の向こうの、暗い街のほうを見た。
「死ぬとね。体の中のマナは、空気に還るの。……だから、空気の中のマナは、いつまでも、なくならないんだって」
しばらく、どちらも口をきかなかった。
川の音がしていた。
健司は、たき火を見つめていた。
大気中マナ濃度に対する熱量変換率。
あの夜、村を焼く前に見た赤い文字だった。荒野で水を作ったときにも、同じ形の文字が出た。あのときは、凝結変換率だった。
空気の中のマナが、どれだけ濃いか。それを、どれだけ熱に変えるか。
あの夜、自分はその数字を、一割ずつ上げていった。何を上げているのかも、知らないまま。そうして、時間が切れた。
「……ケンジさん?」
「大丈夫です」
健司は、膝の上で、指を組みなおした。
わからない数字には、触れない。エクラ公の畑から、ずっとそうしてきた。けれど、それは、わからないものから目をそらしていただけなのかもしれない。
わかってから、使う。
数字の意味を、ちゃんと知ってから。研究室で、ずっとそうしてきたように。
「ルルさん。僕の力は、ときどき、聞いてくるんです。空気の中のマナを、どれだけ熱や光に変えるのか、って」
「……マナのことを?」
「聞かれるのは、いつも、それだけなんです。空気の中のマナの濃さに対して、どれだけ変えるのか。濃さそのものは、一度も聞かれたことがない」
健司は、たき火の向こうの暗がりを見た。
「ということは、向こうは、もう知っているんです。どこのマナが、どれだけ濃いか」
ルルが、まばたきをした。
「ルルさんは、近くにいる人の魔力が、わかるんでしたよね」
「うん。手が届くくらいの近さなら。ケンジさんのは、ちっちゃいの」
「……体の中のマナは、空気の中より濃い。亡くなった人のマナは、空に還る」
健司は、暗い谷を見た。
「だったら、この谷のどこかに、体の中と同じくらいマナの濃いところがあれば、そこには、生きている誰かがいる。学者さんが、生きているなら」
ルルの目が、ゆっくりと大きくなっていった。
「大きなマナの場所を、探せばいいんです。ルルさんが手の届く近さでやっていることを、この谷じゅうで」
ルルが、立ち上がった。ひざのパンが、河原に転がった。
「……それだ!」
声が、谷に響いた。ルルは慌てて、両手で自分の口をふさいだ。
月は、まだ昇っていなかった。
ルルのあと3枚だけ……がお気に入りです。
ブックマークをいただけると更新がわかりやすいです。☆を付けていただけると励みになります!




