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『全能』  作者: 朝霧なぎ
2章 未定義変数
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『全能』2章6話 使い方(29)

『全能』第29話

 

 宿場町は、人であふれていた。


 低い石の壁の内側に、荷車がすき間なく並んでいる。道ばたには、布を張っただけの寝床がいくつもあった。たき火のまわりで、疲れた顔の人たちが、黙って鍋をかきまぜている。南から逃げてきた人たちだった。


 門の柱に、町の名前が刻まれていた。


 ブレドール。


「金の麦、って意味なの」


 ルルが、小さな声で言った。


 実りの季節には、領地じゅうが麦の金色に染まる。王都の辻で、ルルが本から読み上げた一節を、健司は思い出していた。


 門をくぐると、たき火のそばにいた女が、ルルの黒いローブに目をとめた。赤ん坊を抱いたまま、よろよろと立ち上がる。


「あんた、王都の魔法使いさまかい。……助けは、来るのかい。王都から、兵隊さんは」


 ルルは、すぐには答えられなかった。


「……わたしたちは、何が起きたのかを、調べに来ました」


 女は、しばらくルルを見つめていた。それから、何も言わずに、たき火のそばへ戻っていった。


 赤ん坊が、細い声で泣きはじめた。


 宿は、どこも満杯だった。三軒目でようやく、屋根裏の小部屋を二つ、借りることができた。


 ----------------


 夕食の食堂は、北へ向かう人たちと、その世話をする町の人たちで、ごった返していた。


 ルルは、今夜も二皿目のスープを抱えていた。昼間の戦いのぶんだと、言われる前に言った。


 宿の主人は、ふたりが南へ向かうと聞くと、皿を置く手を止めた。


「アーベントシュタインへ? ……正気かい」


「陛下の命なんです」


 ルルが言うと、主人は、しばらくふたりの顔を見比べてから、空いた椅子に腰を下ろした。


「なら、知っておいたほうがいい。ここに逃げてきてるのはな、ほとんどが川下のほうの連中だ。家も畑も、まだ無事だ。それでも、怖くて逃げてきた」


 主人は、南のほうへ顎をしゃくった。


「やられたのは、川上のほうさ。領都と、そこから山のほうの町や村が、ひとつ残らず」


 ひとつ残らず。


 魔物が、領地の半分を滅ぼした。玉座の間で聞いたその半分が、初めて、地図の上の形になった。川の上と下で、まっぷたつに分かれていたのだ。


「上のほうから逃げてきた人は」


 健司が聞くと、主人は首を振った。


「ほとんどいねえ。たまに来ても、口もきけねえくらいの有様だ。何が来たのか聞いても、まともに答えられたやつは、ひとりもいねえよ」


 食堂のざわめきが、少し遠くなった気がした。


「そういや」


 主人が、思い出したように言った。


「領都に、ドラゴンを調べてる学者先生がいたはずだ。山のドラゴンのことなら、あの人がいちばん詳しいって、昔から評判でな」


「その人は、今」


「さあな。生きてるのか、死んだのか。……少なくとも、ここへは逃げてきてねえ」


 主人は立ち上がって、空いた皿を重ねた。


「南から逃げてくるやつは、みんなこの町を通る。通ってねえってことは、そういうことかもしれねえし、まだ向こうにいるってことかもしれねえ」


 ドラゴンを調べていた学者。


 領地を襲った、ワイバーンの群れと、ドラゴン。


 けさ砦で聞いた言葉と、今聞いた言葉が、健司の中で、まだつながらないまま並んでいた。


 ルルのスープのさじも、いつのまにか止まっていた。


「救援を、呼びに行ったのに」


 ルルが、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。


「助けは、来なかった。門のところの人も、待ってた」


 健司は、うなずくことしかできなかった。


 何が来て、何が起きたのか。誰が本当のことを言っていて、誰がそうでないのか。今の自分には、まだ何ひとつ確かめられない。


 わからないことは、見て、確かめるしかない。森の調査で、研究室で、ずっとそうしてきたように。


「明日、自分の目で、見ましょう」


 ルルは、さじを握りなおして、小さくうなずいた。


 ----------------


 その夜、健司は眠れなかった。


 目を閉じると、岩場に落ちていく四つの影が見えた。指先の冷たさは、まだ残っていた。


 倒さねば、多くの人が死ぬ場面もある。エクラ公の言葉は、正しかった。あの荷車の子供は、今ごろ、北の町へ向かっているはずだ。それでも、正しいことと、平気でいられることは、別だった。


 健司はそっと宿を抜けだして、裏の井戸端に出た。遅い月が、東の空に昇ったところだった。南の空に、大山脈の影が、黒く横たわっている。


 足もとから、小石をひとつ拾った。


 手のひらを、小石の下の空気に向ける。孤児院の子供たちに教わったとおりに、おなかの下のほうのあたたかいものが、手のひらの先まで流れていくのを待つ。


 小石が、ふわりと浮いた。胸の高さまで上がって、そこで止まった。


 子供並みの、フロートだった。


 健司は小石を手に受けて、それから、自分の足もとを見下ろした。


 きょう、鳥に襲われたとき、自分は一歩も動けなかった。浮いたまま足を動かせば回るだけで、ルルの手がふさがっていれば、ただの的だった。ゆうべも、群れの主の前で、同じだった。


 ブリーズは、地面から少しだけ浮いて、風に運んでもらう魔法だ。浮かせているのは、足の下の空気だろう。フロートが、円盤の下の空気を押し上げて浮かせるのと、同じ理屈のはずだった。


 押し上げる空気を、もっと多くすれば。


 健司は、靴の下に意識を向けた。おなかの下のあたたかいものを、今度は、手のひらではなく足の裏へ。流れていくのを待ちきれずに、押しだした。


 足の裏が、むずがゆくなった。


 かかとが、ほんのわずかに、浮いた気がした。


 次の瞬間、右足だけが、つるりと前へ流れた。


 健司は、井戸端の石畳に、尻もちをついた。


「……何してるの」


 屋根裏の小窓から、ルルが顔を出していた。手に、あの薄い本を持っている。こんな時間まで、読んでいたらしい。


 ルルは、すぐに裏口から下りてきた。


「ブリーズを、フロートの応用でできないかと思って」


 健司は、尻をさすりながら立ち上がった。


「ブリーズも、足の下の空気を押し上げているんでしょう。だったら、フロートで押し上げる空気を増やせば」


「増やせば、って……」


 ルルは、あきれた顔をした。それから少し考えて、ため息をついた。


「理屈は、ちょっとだけ合ってる。でも、それじゃ浮かないよ。ケンジさんの魔力じゃ、小石を持ち上げるのが精一杯。体を持ち上げるには、ぜんぜん足りない」


「やっぱり、そうですか」


「それに、流し方がめちゃくちゃ。足の裏に流そうとして、右足のほうにばっかり行ってた。だから滑ったの」


 ルルは、健司の前にしゃがみこんで、靴の先を指さした。


「いい? 魔力は、おなかの下のほうにたまってる。それを、いきなり手や足に押しつけちゃだめ。まず、流れる道を、頭の中に描くの。水路を引くみたいに。道ができたら、そこを、ゆっくり通す。形をつけるのは、そのあと」


 すらすらと、言葉が出てきた。


「浮かせたいなら、下から支える形。押したいなら、うしろから……」


 そこで、ルルの言葉が止まった。


「……あれ」


「どうしたんですか」


「今の、ぜんぶ、あの本に書いてあったことだ」


 ルルは、手の中の薄い本を見下ろした。『優しく説明!魔法初歩』。


「ルルさんの説明、すごくわかりやすいです」


 健司は、正直に言った。


「手順が、順番になっている。自分がどこで間違えたのかも、わかる」


 ルルの顔が、ゆっくりと赤くなっていった。


「……そういうこと」


「え?」


「使い方は、自分で考えなさい、って。……わたしに読めって意味じゃなかったんだ。ケンジさんに、教えなさいって意味だったんだ」


 ルルは本を胸に抱えたまま、しゃがんだ膝に顔をうずめた。


「一日じゅう、どこが足りないんだろうって、必死に読んじゃった。首席だったのに、って。……ばかみたい」


 それから、ぱっと顔を上げた。


「公爵様、最初からそう言ってくれればいいのに」


 どこかで聞いたような台詞だった。


 ブリーズで回った、おとといの自分を思い出して、健司は少しだけ笑った。ルルも、すぐに気づいたらしい。


「……ケンジさんの真似じゃないからね」


 ルルは立ち上がって、ローブの裾を払った。


「じゃあ、今日から、わたしが先生ね」


「はい。……先生」


「先生は、なし」


 ルルは、そっぽを向いた。耳まで赤かった。


「まずは、フロートから、ちゃんとやり直し。ブリーズは、そのずっと先」


 言いながら、ルルはもう、本の頁をめくりはじめていた。さっきまでとは、まるで違う顔だった。


「ここは、ケンジさん、たぶんつまずく。ここも。……あ、この絵、わかりやすい」


 一日じゅう、自分の足りないところを探していた本が、今は、教えるための道具になっていた。


 ----------------


 月の下で、健司はもう一度、小石に手のひらをかざした。


「肩、力入りすぎ」


 ルルが、健司の肩を、ぽんと叩いた。


「急がなくていいの。魔力は、逃げないから」


 道を描く。水路を引くように。おなかの下のあたたかいものを、その道に、ゆっくり通す。途中で詰まったら、無理に押さない。道のほうを、少し広げる。形をつけるのは、そのあと。下から、支える形。


 研究室で、実験の手順書を一行ずつ確かめていったときと、同じだった。順番がわかっていれば、どこでつまずいたのかも、わかる。


 小石が、浮いた。


 胸の高さを、ほんの少しだけ、越えた。


「……ほらね」


 ルルが、得意げに胸を張った。


 指一本ぶん。それでも、たしかに、さっきより高かった。


 健司は、小石を手のひらに受けた。魔力そのものが、増えたわけではない。流し方が、少し変わっただけだ。


 それでも、説明してもらえれば、わかる。わかれば、できる。


 説明しなくてもかかるのが、この世界の魔法だと思っていた。けれど、説明しようとしてくれる人は、ちゃんといたのだ。本を書いた誰かも、それを渡した公爵も、目の前の先生も。


 南の空で、大山脈の影が、黒く眠っていた。


 明日は、滅びた街へ向かう。ドラゴンを調べていた学者がいたはずの、街へ。


ルル先生の誕生ですね!


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