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『全能』  作者: 朝霧なぎ
2章 未定義変数
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『全能』2章5話 上昇気流(28)

『全能』第28話

 

 砦の朝食は、黒パンと、豆と腸詰めのスープだった。


 ルルは、三杯目のスープの椀を、両手で抱えていた。ゆうべの戦いのぶんだと、本人は言い張っている。


 なくした帽子は、兵士のひとりが、麦の中から拾ってきてくれた。つばに泥のこびりついたそれを、ルルは膝の上に、大事そうにのせていた。


 エクラ公は、自分の皿にはほとんど手をつけずに、ふたりが食べるのを眺めていた。


「アーベントシュタインへは、陛下の命で行くのだったね」


「はい」


 ルルが、椀を置いた。


「魔物が、領地の半分を滅ぼした。辺境伯の息子が、その魔物を引き入れたと申す者もおる。……陛下は、そうおっしゃいました」


 エクラ公は、しばらく黙っていた。片眼鏡の鎖が、朝の光の中で、かすかに揺れた。


「王都では、そう言われているらしいね。辺境伯の息子のミヒャエルが、魔物を領地に引きこみ、王都まで逃げて、そこで捕まった、と」


 健司は、パンをちぎる手を止めた。


「だが、あの子は、王都へ向かう途中で、この領地を通っていった。この砦にも寄って、私に話していったよ」


 エクラ公は、窓の外の、南の空に目をやった。


「領地が、ワイバーンの群れと、ドラゴンに襲われた。王都へ、救援を呼びに行く、と」


 ワイバーン。学生のころに遊んだゲームで、聞いたことのある名前だった。翼を持つ、竜のような獣。それに、ドラゴン。


 ルルの手が、椀の上で止まっていた。


「私は、あの子が嘘をついているとは思えなかった」


 エクラ公は、それきり、何も言わなかった。


 健司は、玉座の間で聞いた声を思い出していた。辺境伯の息子が、その魔物を引き入れたと申す者もおる。迷いのない、平らな声だった。


 救援を呼びに来た者が、捕まった。


 その言葉を、健司は口に出さなかった。ルルも、出さなかった。


「さて」


 エクラ公が、席を立った。本棚の前で少しだけ迷ってから、一冊を抜き出し、ルルの前に置いた。


「ルイーズ殿には、これを」


 ルルの顔が、ぱっと明るくなった。


 けさ、朝食の前から、ルルはずっと本棚の前を行ったり来たりしていた。古い革の背表紙を、ため息まじりに見上げていたのを、健司は知っている。


 ルルは、両手で本を受け取った。


 真新しい、薄い本だった。表紙に、丸っこい字で、題が書いてあった。


『優しく説明!魔法初歩』


 ルルの笑顔が、そのまま固まった。


「使い方は、自分で考えなさい」


 エクラ公は、それだけ言って、ゆったりと微笑んだ。


「……ありがとう、ございます」


 ルルの声は、少しだけ震えていた。


 ----------------


 南の門は、朝の光の中で開いた。


 太いかんぬきが外され、大きな木の門が、きしみながら左右に割れていく。その先に、街道が続いていた。北の街道と同じ道のはずなのに、車輪の跡は浅く、ところどころ草に埋もれていた。


 門の上で、関所の隊長が、深々と頭を下げた。


 エクラ公は、門の脇に立っていた。


「無事を祈っているよ。……ルイーズ殿も」


 ルルは、本を胸に抱えたまま、小さく頭を下げた。


 門をくぐる前に、ルルは、健司の胸もとに手のひらをかざした。


「プロテグラ。……今日のぶん」


 声に、いつもの張りがなかった。


 それから、ルルは健司と自分に、ひとつずつブリーズをかけた。


 ----------------


 門の向こうは、別の土地だった。


 麦畑は、刈り入れられないまま倒れ、雑草に覆われていた。ときおり見える村は、どれも戸が開け放たれたまま、煙ひとつ上がっていない。焼けても、壊れてもいない。人だけが、いなかった。それが、かえって不気味だった。


 南からの乾いた風に、雑草がいっせいになびいている。地平線の上に、うっすらと、山の影が見えた。あれが、大山脈なのだろう。


 ルルは、浮いたまま、もらった本を開いていた。


 いつもなら、本を読むルルは楽しそうだ。今日は違った。眉間にしわを寄せ、唇だけを動かして、一行ずつ確かめるように読んでいる。


「……ここは、知ってる。……ここも、知ってる」


 ときどき、そうつぶやく声が聞こえた。


「何が、足りないんだろう」


「何を読んでいるんですか」


 健司がのぞきこむと、ルルは、さっと本を胸に伏せた。


「見ないで」


「さっき、魔法、初歩、と」


「見ないでってば」


 ルルは、耳まで赤くして、そっぽを向いた。


「……首席だったのに」


 小さな声だった。健司には、何のことかわからなかった。


 ----------------


 日が、南の空の高みに昇りきったころだった。


 街道の先で、悲鳴が上がった。


 荷車が一台、止まっていた。家財道具を積んだ、北へ逃げる人たちの荷車だ。そのまわりで、大人がふたり、棒切れを振りまわしている。荷台の上で、子供が泣いていた。


 その頭上を、黒い影が四つ、旋回していた。


 鳥だった。翼を広げれば、大人が両腕を広げたよりも大きい。錆びた鉄のような色の羽。釣り針のように曲がったくちばし。


 一羽が、翼をたたんで急降下した。棒切れをはじき飛ばし、男の肩を爪でかすめて、また舞い上がる。


「ケンジさん!」


 ルルが、本をローブの懐に押しこんだ。


 次の瞬間には、ルルは自分のブリーズを解いて、街道に飛び降りていた。地面に、手のひらをつく。


 荷車のまわりの土が、波のように盛り上がった。土は、荷車と馬と人々を包みこみ、ひとつの大きな土の殻になった。


「中にいて! 出てこないで!」


 ルルは殻の外に立ったまま、空に向かって風の刃を放った。四羽は、それをひらりとかわした。速い。


 獲物を隠された鳥たちが、向きを変えた。


 健司のほうへ。


 浮いたまま、足は動かせない。逃げることも、できない。ルルは殻を支えながら、片手で空の鳥を払っている。健司の風まで動かす余裕は、なさそうだった。


 一羽目が、降ってきた。


 背中に、重い衝撃が走った。鋭いものが、外套の上をすべっていく。


 布は、裂けなかった。


 今朝、ルルがかけたばかりの魔法だった。小物の魔物の爪や牙くらいなら、何回かは通さない。


 何回か。それが何回なのかは、聞いていない。


 健司は、空を見上げた。


 四羽は、また高く舞い上がっていた。羽ばたいていない。翼を広げたまま、街道の南、五十歩ほど先の岩場の上で、ゆっくりと輪を描きながら昇っていく。


 知っている飛び方だった。


 森の調査で、何度も見た。トビが、羽ばたきもせずに、輪を描いて空へ昇っていく。日に焼けた地面から、温められた空気が立ちのぼる。上昇気流だ。鳥は、それに乗って、ただで高さを稼ぐ。


 あの岩場は、真昼の日差しを浴びて、焼けている。平原じゅうで、温められた空気が空へ昇っている。あいつらは、それに乗って昇り、そこから降ってくる。


 ならば。


(あの岩場の、上の風を)


【事象の定義を開始します:気流の向きの変更】


【残り時間:5:00】


 範囲は、岩場の上の、円い柱。半径は二十歩。高さは、鳥が輪を描いているあたりまで。荷車にも、ルルにも、届かない。


【承認:対象範囲の指定】


 源は、平原じゅうで立ちのぼっている、温められた空気の流れ。もう、そこにある。新しくは起こさない。それを、岩場の上の柱に集める。


【承認:気流源の指定】


 二羽目が、降ってきた。肩を、爪が強くつかんだ。布は、まだ破れなかった。


 向きは、下へ。昇っている流れを、ひっくり返す。速さは足さない。集めて、向きをそろえるだけだ。


【承認:気流の定義】


【未定義変数:大気中マナ濃度に対する気流変換率】


 ゆうべから、四度目の赤い文字だった。


 要らない。空気を持ち上げているのは、真昼の日差しだ。その向きを、変えるだけだ。


【判定:新たなエネルギーの発生なし。変換率の定義は不要です】


 岩場に叩きつけた風は、岩場の中で散らす。外へは、そよ風ほどしか出さない。


【承認:境界条件の定義】


 最後の項目が、残った。続く長さ。


 今それを決めれば、すぐに始まる。けれど、鳥たちは、いま柱の中にいない。岩場の上で輪を描いているのは、一羽だけだ。残りの三羽は、ルルの殻の上を回っている。


 四羽そろって、柱に入るまで、待つ。


 時間が切れれば、続く長さは、真理が勝手に補う。


【残り時間:0:40】


 三羽目が、降ってきた。


 今度は、外套の裾が裂けた。布の手ざわりが、ふっとやわらかくなる。


 あと、何回もつのか。


 四羽目が続けて降ってくる。その横腹を、ルルの風が打った。鳥は錐もみになって離れ、甲高く鳴いて、空へ戻っていった。


【残り時間:0:20】


 四羽が、岩場の上で、輪を描きはじめた。翼を広げ、羽ばたきもせずに、昇っていく。


 四羽とも、柱の中だった。


 続くのは、十を数えるあいだ。


【承認:持続条件の定義】


【全項目が承認されました。事象を実行します】


 岩場の上で、空気が、ひっくり返った。


 最初に、音がした。滝が落ちるような、重い音だった。岩場の砂ぼこりが、いっせいに地面へ押しつけられ、平たく広がった。


 輪を描いていた四羽の翼が、上から叩かれたように、折れ曲がった。


 もがく間もなかった。


 四つの影は、石を落とすように、まっすぐ岩場へ落ちていった。


 鈍い音が、四つ続いた。


 十を数え終えると、風がやんだ。平原の雑草が、また南からの風になびきはじめた。


 健司は、岩場から目をそらさなかった。


 ----------------


 ルルが、土の殻を崩した。土は、波が引くように地面へ戻っていく。中から、荷車と、身を寄せあって震える人たちが現れた。


 健司は、ルルにブリーズを解いてもらい、岩場まで歩いた。


 四羽は、岩の上で動かなかった。錆びた鉄の色の羽が、風にかすかに揺れているだけだった。


 自分の手で、終わらせた。


 燃やしたわけではない。誰かを巻きこんだわけでもない。迷っているあいだに誰かが死ぬ前に、倒した。そう決めたとおりに。


 それでも、指先が、少しだけ冷たかった。


「……ケンジさん」


 いつのまにか、ルルが隣に立っていた。


「大丈夫?」


「はい」


 健司は、四羽から目を離さずに答えた。


「自分で、決めたことなので」


 ルルは、何も言わずに、健司の裂けた外套の裾をつまんだ。


「明日の朝、かけ直すとき、少し強めにしとくね」


 荷車の人たちが、何度も頭を下げた。子供が、母親の陰から、健司をじっと見ていた。


「南の宿場町まで、行くのかい」


 年かさの男が言った。


「日が暮れる前には、着けるはずだ。……ただ、あそこから先は、もう」


 男は、それ以上は言わずに、首を振った。


 ----------------


 日が傾くころ、街道の先に、低い石の壁に囲まれた町が見えてきた。


 宿場町だった。エクラ公爵領の、南のはずれ。その先は、アーベントシュタイン辺境伯領になる。


 ルルは、浮いたまま、また本を開いていた。さっきより、少しだけ速く頁をめくっている。


「……初歩の、どこが足りないのか。ぜったい、見つけてやるんだから」


 健司には、やっぱり、何のことかわからなかった。


ルルが落ち込むのめずらしいですね。


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