『全能』2章4話 光の矢(27)
『全能』第27話
群れは、すぐには来なかった。
光の筋に目を射られたまま、四十頭ほどの獣が、麦をかき分けて、じりじりと前へ出てくる。一歩進んでは止まり、首を振り、また一歩。エクラ公は、何も言わずに光の玉を据えなおし、光の筋を群れの目の高さに当てつづけていた。健司が頼むより先に、何をすればいいのかを、わかっている人だった。
健司は、ウィンドウに向きなおった。
範囲は、麦畑の中から、用水路のふちまで。幅は二十歩、奥行きは五十歩。群れが光をめがけて来るなら、必ずここを通る。
【承認:対象範囲の指定】
中身は、地面と、その上に触れるものとのあいだの摩擦。
土の粒の細かな凸凹と、蹄の凸凹がかみ合うから、獣は地面を蹴って走れる。そのかみ合わせを、ほとんど外す。氷の上を、さらに磨いたように。
止まるための力が消えるだけで、走ってきた勢いは、そのまま残る。
【承認:摩擦の定義】
【未定義変数:大気中マナ濃度に対する摩擦変換率】
二度目の赤い文字だった。
要らない。何も足さない。走る勢いは、あいつらが自分で持ってきたものだ。
【判定:新たなエネルギーの発生なし。変換率の定義は不要です】
用水路の石組みは、範囲に入れない。帯は、水路のふちで終わる。
【承認:境界条件の定義】
そこまで来て、健司は、自分の足もとを見下ろした。
帯は、水路のふちで終わる。健司が立っているのは、その、水路のふちだった。群れを最後まで滑らせるために、帯をここまで延ばしたのは、自分だ。範囲は、もう承認されている。取り消すことはできない。このまま始まれば、自分も滑る。
エクラ公は、いつのまにか、水路にかかった石の小橋の上に立っていた。
麦畑の奥から、獣の主の声が、もう一度響いた。今度は、長く、腹の底を揺さぶるように。
四十頭が、いっせいに地面を蹴った。
【残り時間:0:30】
「ルルさん! ブリーズを!」
土手の上で、ルルが振り向いた。二十歩は離れている。それでも、迷わずに手のひらがこちらを向いた。
「ブリーズ!」
足もとで、風が渦を巻いた。靴の底が、地面を離れる。
「足、動かさないで!」
「動かしません!」
地響きが、近づいてくる。猪に似た、けれど猪よりひとまわりもふたまわりも大きな獣たちだった。黒い剛毛が逆立ち、反りかえった牙が、光の筋を跳ね返している。
【残り時間:0:15】
最後の項目が、まだ残っていた。ここで時間が切れれば、続く長さは、真理が勝手に補う。この畑が、いつまで滑りつづけるのか、誰にもわからなくなる。
続くのは、百を数えるあいだ。終わったら、元に戻る。
【承認:持続条件の定義】
【全項目が承認されました。事象を実行します】
先頭の一頭が、帯に踏みこんだ。
次の一歩で、その脚が、四本ともあらぬ方向へ流れた。
巨体が横倒しになり、そのまま、凍った川面を滑るように、くるくると回りながら流れてくる。後ろの一頭がそれにぶつかり、二頭そろって流れてくる。止まろうとして踏んばった脚ほど、滑った。
群れの勢いは、もう誰にも止められなかった。
健司の体が、すうっと横へ運ばれた。足もとの風を、土手の上のルルが動かしていた。
四十頭が、もつれあい、転がり、ひとかたまりになって、さっきまで健司の立っていた場所を滑り抜けていった。黒い剛毛が、外套の裾をかすめていく。
そして、次々に、用水路へ落ちていった。
水しぶきが、光の筋の中で、白く砕けた。新しい石組みの水路は、深く、壁が切り立っている。獣たちは、水の中でもがき、壁に牙を立て、悲鳴のような声を上げた。
兵士たちが、口を開けたまま、それを見ていた。
石の小橋の上で、エクラ公は、剣に手もかけていなかった。
「続けて」
静かな声だった。
「私は、見に来たのだからね」
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水路の中の群れは、すぐに壁をよじ登りはじめた。
百を数え終われば、帯は元に戻る。そうなれば、岸に上がった獣たちは、また地面を蹴れる。
健司は、岸の土を見た。
用水の水を吸って、黒く湿った土。麦の根もとまで、水がしみている。さっき帯の中を滑っていった獣の跡からは、水がにじみ出ていた。
地震のあと、調査で入った田んぼを思い出した。水を吸った砂の土が、揺すられて泥に変わり、電柱が傾いて、地面の下のマンホールが、ぽっかりと浮き上がっていた。
これなら、いける。
(岸の、土を)
三つめのウィンドウが開いた。
【事象の定義を開始します:土の粒の結びつきの変更】
【残り時間:5:00】
水路の壁を、一頭がよじ登り、前脚を岸にかけた。
その鼻先に、光の幕が下りた。
石の小橋の上から、エクラ公が、片手を水路のほうへ向けていた。光の幕は水路の両岸に沿って長く伸び、岸に上がろうとする獣たちを、音もなく押し返していく。牙を立てても、体当たりしても、幕は揺れもしない。
「五分なら、待とう」
エクラ公は、もう片方の手で、片眼鏡を押し上げた。
健司は、うなずくかわりに、説明を始めた。
範囲は、水路の両岸。ふちから十歩。兵士たちの列にも、ルルのいる土手にも、届かない。
【承認:対象範囲の指定】
この土は、水をたっぷり含んでいる。粒と粒のすき間が、水で満ちている。土が固いのは、粒どうしがかみ合って、重さを支えあっているからだ。
そのかみ合わせを、ゆるめる。少し揺すられただけで、外れてしまうくらいに。さっきと同じ理屈を、今度は土の中で使う。
水は、足さない。もう、そこにある。揺れも、足さない。揺れは、上に乗ったものが自分で起こす。かみ合わせの外れた土は、水と砂の混ざった泥になる。重いものは沈み、水は上へ逃げる。
ただし、泥は、獣の体より重い。マンホールが浮いてきたのと同じで、頭までは沈まない。腹か、胸のあたりで止まる。
【承認:粒子間の結びつきの定義】
【未定義変数:大気中マナ濃度に対する結合変換率】
三度目の赤い文字が出きる前に、健司は答えていた。
要らない。
【判定:新たなエネルギーの発生なし。変換率の定義は不要です】
続くのは、百を数えるあいだ。終われば、粒はまたかみ合う。沈んだものを、抱えこんだまま。
【承認:復元条件の定義】
土手のほうで、兵士の悲鳴が上がった。水路の端を回りこんだ二頭が、兵士たちの列へ突っこもうとしていた。
その前に、ルルが飛び降りた。
片手で風の刃を放ち、もう片方の手で、地面を石の壁に変える。一頭が壁に頭から突っこみ、もう一頭は、風に足をすくわれて転がった。帽子が飛んでも、ルルは振り返りもしなかった。
【全項目が承認されました。事象を実行します】
「公爵様、幕を」
光の幕が、消えた。
獣たちが、われ先にと岸へ這い上がった。
一歩、二歩。蹄が、岸の土に沈んだ。
獣たちがもがくほど、足もとの土は揺れ、揺れるほど、泥に変わっていった。脚が沈み、腹が沈み、もがく背中から、水が噴き出す。一頭、また一頭と、黒い巨体が、岸の泥に胸まで沈んで、動けなくなっていった。
百を数え終わるころには、もがく力も尽きていた。
土が、元に戻った。沈んだ獣たちを、抱えこんだまま。
夜の畑に、荒い鼻息と、うめき声だけが残った。
「……なるほど」
石の小橋の上で、エクラ公がつぶやいた。
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健司は、大きく息を吐いた。
三度。説明は、三度とも最後まで通った。誰も、焼いていない。
そのとき、背中のほうで、麦が鳴った。
水路のほうを向いていた体をひねって振り向くと、麦の壁が、内側から割れていた。
主だった。
ほかの獣の、倍はあった。片方の牙は折れ、もう片方は、鎌のように反りかえっている。顔じゅうに古い傷が走り、片方の目は、白く濁っていた。群れが水路へ突っこんでいくあいだ、こいつだけは、麦の中を回りこんでいたのだ。
光の筋は、まだ水路のほうを向いていた。主は、闇の中から、まっすぐ健司へ向かってきた。
逃げようとして、足が動かせないことを思い出した。浮いたまま足を動かせば、その場で回るだけだ。体の限界を外す力なら、説明はいらない。けれど、踏みしめる地面がない。ルルは、土手の下で、二頭の獣と向きあっている。
『全能』は、五分かかる。
間に合わない。
地面が揺れる。生臭い息が、届くほど近い。光の残っているほうの目と、健司の目が合った。
「光よ、矢となれ」
本の一節を読み上げるような声だった。
「夜を穿ち、あまねく射よ」
健司の頭上の闇に、光の点がともった。ひとつではなかった。十、百、千。夜空そのものが降りてきたように、無数の光の点が、畑の上を埋めつくした。
「――サギッタエー・ルキス」
光の点が、いっせいに、降った。
一本一本が、細い光の矢だった。矢は雨のように畑に降りそそぎ、そのどれもが、獣の上にだけ落ちた。泥に沈んだ群れの一頭一頭に。兵士たちの列に迫っていた二頭に。そして、健司の目の前に。
主の巨体が、健司の一歩手前で、どさりと崩れ落ちた。
地響きが、靴の裏の、握りこぶしひとつぶん下を通りすぎていった。
光の矢は、獣に吸いこまれるように消え、それきり、畑はしんと静まりかえった。兵士たちにも、麦にも、ひとつの焦げ跡も残っていなかった。
石の小橋の上で、エクラ公が、ゆっくりと手を下ろした。
小橋を駆け渡ってきたルルが、健司の隣で立ち止まった。帽子をなくした髪が、夜風に乱れている。ルルが指を鳴らすと、足もとの風がほどけて、靴の底が土についた。
「……今の、サギッタエー・ルキス」
声が、かすれていた。
「本でしか、読んだことない。光の、いちばん上の魔法。……わたしにも、使えない」
ルルは、小橋の上のエクラ公を振り返った。
「あの砂時計なら、光だけで、きっと七つめまで落ちる」
六つめで止まった砂を、健司は覚えていた。
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エクラ公は、手袋の指先を整えながら、小橋を下りてきた。
「合格だ」
健司は、主の巨体を見下ろした。
「でも、最後は、公爵様が」
「君は、倒そうと思えば、倒せたはずだ」
エクラ公は、水路と、泥に沈んだ獣たちを順に見た。
「滑らせた先に、杭の一本でも立てておけばよかった。水路の壁まで、あの地面のように滑らせておけば、群れは二度と上がってこられなかった。君には、それができた。だが、そうしなかった。四十頭の群れを、一頭も殺さずに、すべて止めた」
片眼鏡の奥の金色の瞳が、健司をまっすぐに見た。
「力は、十分に見せてもらった。……ひとつ、聞いてもいいかね。君は、命を奪うことを、ひどく恐れているように見える。何か、あったのかね」
健司は、しばらく黙っていた。
鏡は、出さなかった。判断には、困っていなかった。
「村をひとつ、焼きました。助けたかった人たちごと」
エクラ公は、何も言わなかった。
「それから、この力で、命を奪うような使い方をするのが、怖いんです。燃やさずに済むほうに使いたいと、決めたので」
「その心がけは、正しい」
エクラ公は、踏み荒らされた麦畑に目をやった。
「だが、この麦は、冬のあいだの、この街のパンだ。あの群れを生かして帰せば、明日の夜も、あさっての夜も、麦は減る。冬になれば、子供から飢える」
健司は、泥にまみれた穂を見た。
「それに、今夜の君の力は、始まる前から、終わり方が決まっていた。光は人のほうへは向かず、滑る地面も泥も、同じだけの時をおいて、きちんと元に戻った。君が焼いたという村の夜とは、違うのだろう」
エクラ公は、少しだけ声をやわらげた。
「倒さねば、多くの人が死ぬ場面もある。今の君なら、安全に力を使えるのだから、よく考えて使いなさい」
燃やさずに済むほうに使う。その答えは、変わらない。けれど、迷っているあいだに、誰かが死ぬのなら。
「……はい」
次は、自分の手で倒す。迷って、誰かを死なせる前に。
そう決めて、健司は、主の目を閉じてやった。
エクラ公は、うなずいて、ルルのほうを向いた。
「南の門は、夜明けに開けさせよう。それから、ルイーズ殿。砦の本で、読みたいものがあれば、持っていくといい」
ルルの目が、まんまるになった。
「ほんとうですか」
その声に、ルルのお腹の音が重なった。
ひときわ大きな音だった。夜の畑に、よく響いた。
ルルは、両手で顔を覆った。
「……聞かなかったことにしてください」
エクラ公は、片眼鏡を外して、目もとをぬぐった。どうやら、笑っているらしかった。
「まずは、食事かな」
東の空が、うっすらと白みはじめていた。
滑らせて、沈めて、それでも殺さなかった。
エクラ公に「合格」と言われたのは、その判断のほうだと思うよね。
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