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『全能』  作者: 朝霧なぎ
2章 未定義変数
26/29

『全能』2章3話 捨てていた光(26)

『全能』第26話

 

 扉を叩く音で、目が覚めた。


「ケンジさん、起きてる?」


 窓の外は、まだ白みはじめたばかりだった。扉を開けると、帽子までかぶったルルが、廊下に立っていた。


「おはよう。じっとしてて」


 ルルは、健司の胸もとに手のひらをかざした。


「プロテグラ」


 指先からこぼれた淡い光が、上着の布目にしみこんでいく。袖をつまむと、ゆうべやわらかくなっていた布が、また少しだけ固くなっていた。


「はい、今日のぶん」


「ありがとうございます」


「……毎朝、だからね」


 ルルは、なぜか満足そうにうなずいた。それから急に真顔になって、自分の帽子のつばを両手で直した。


「ねえ。寝ぐせ、ついてない?」


「帽子で、見えません」


「そういうことじゃなくて」


 公爵に会うのは、健司ではなく、ルルのほうらしかった。


 ----------------


 砦の中は、思っていたのと違った。


 石の廊下を抜けて通された部屋は、壁という壁が本棚だった。床にも机にも、開いたままの本が積み重なっている。武具のかわりに地図と書きつけが壁に留められ、窓辺には、古びた天球儀がひとつ置かれていた。


 隣で、ルルが息をのむ音がした。目が、本棚から離れない。


「待たせたね」


 本棚のあいだから、背の高い男が現れた。


 若かった。三十にも届いていないように見える。無造作に額にかかる黒い髪。右の目に、細い鎖のついた片眼鏡。その奥の瞳は、金色だった。金の縁取りの黒いローブをまとい、黒い手袋の手に、読みかけの本を一冊持っている。腰には、金の籠をかぶせた細身の剣。


 剣より、本のほうが似合う人だと、健司は思った。


「エクラ公、ヴィクトルだ。楽にしてくれ」


 ルルが、慌てて膝を折った。


「ルイーズと申します。こちらは、ケンジ」


「知っているよ。ゆうべ、南の関所の隊長が知らせてきた」


 ルルが差し出した書状を受け取ると、エクラ公は、片手で封を開いた。目を走らせる速さは、本を読む人のそれだった。


「七色の賢者殿、と呼ぶべきかな」


 ルルの肩が、小さくこわばった。


「……いや。王都では、あまりいい意味で使われていないそうだね。ルイーズ殿と呼ぼう。七つの属性を、どれも六割まで。私には、ひとつで精一杯だ。とても、まねができない」


 ルルは、何か言いかけて、口を閉じた。帽子のつばの下で、耳が赤くなっていた。


 エクラ公は、本を閉じて、健司に目を向けた。


「さて。書状には、君たちを南へ通すようにと書いてある。だが、あの門の先で死なせてよいとは、書いていない」


「……はい」


「王都の広場に、魔法ではない光の花が咲いたそうだね。噂は、ここまで届いている。広場が凍えるほど冷えて、空の上で、大きな花が開いたと」


 片眼鏡の奥で、金色の瞳が細められた。


「この街の西の畑に、毎晩、魔物の群れが出る。猪に似た、大きな獣だ。麦を食い荒らし、土を掘り返し、兵士が松明を持って出れば、麦の中に消える。夜の麦畑では、どこにいるのかさえわからない。この半月で、畑の三分の一がやられた」


 エクラ公は、本を机に置いた。


「あれを片づけられるなら、南へ行っても、死にはしないだろう。門は、そのあとで開けよう」


「……ひとつ、先に申し上げておきます」


 健司は、言葉を選んだ。


「僕の力は、すぐには使えません。使う前に、説明が要るんです。長いときは、五分くらい」


「説明。誰に」


 健司は、答えにつまった。


 真理、と言っても、伝わるはずがない。


「……世界に、です」


 エクラ公は、笑わなかった。片眼鏡を指で押し上げて、何かを書き留めるように、ひとつうなずいただけだった。


「五分か。覚えておこう」


 それから、ほんの少しだけ、口の端を上げた。


「私も行く。魔法ではない火というものを、学者としては、見ずにはいられなくてね」


 砦を出たところで、ルルが、健司の袖を引いた。


「エクラ公はね、四人の公爵様のなかで、いちばんお若い方なの。本で読んだことはあったけど」


「あんなに、本の多い部屋は初めて見ました」


「……一冊くらい、見せてもらえないかな」


 ルルの目は、まだ、砦の窓のほうを見ていた。


 ----------------


 夜の畑は、静かだった。


 街の西の外れ、川に沿って麦畑が広がっている。畑の手前を、真新しい石組みの用水路が、まっすぐに区切っていた。きのう、ブリーズで通りすぎながら見たのと同じ、新しい石組みだ。水路には、石の小橋がひとつかかっている。


 その麦が、ところどころ、なぎ倒されていた。根こそぎ掘り返された土が黒く盛り上がり、踏みしだかれた穂が、泥にまみれている。


 水路のこちら側、岸から二十歩ほど下がったところに、松明を持った兵士が二十人ほど並んでいた。その横の土手の上に、ルルがいる。何かあったら兵士たちを守ってほしいと、エクラ公に頼まれていた。


 健司とエクラ公は、小橋を渡って、麦畑の際に立った。


 麦の奥で、ざわりと穂が揺れた。


 低い、喉を鳴らすような声。ひとつではない。右からも、左からも聞こえる。


 兵士のひとりが、松明を高く掲げた。炎が照らすのは、水路のまわりだけだった。その先は、ただの闇と、揺れる麦だ。


「これでは、どうにもならない」


 健司の隣で、エクラ公が手のひらを上に向けた。


 白い光の玉が、ふわりと浮かんだ。詠唱もない。手のひらを返しただけだった。土手の上で、ルルが目を見張るのが見えた。


 昼間のような光だった。けれど、光は四方へ散って、麦の上半分を照らすのが精一杯だった。背の高い麦の根もとには、かえって濃い影が落ちる。


「見えるのは、麦の穂先だけだ。あの獣は、麦の中に身を伏せている」


 健司は、光の玉を見上げた。


 玉から出た光の半分は、空へ逃げている。残りの多くも、足もとの地面に吸われている。麦の奥まで届くのは、ほんのわずかだ。


 もったいない、と思った。


 それから、もうひとつ思い出した。


 森の調査で、夜に鹿を数えたことがある。懐中電灯で暗がりを照らすと、鹿の目が光る。夜に生きる獣の目の奥には、光を跳ね返す層がある。跳ね返った光は、来た道をまっすぐに帰る。だから、明かりを自分の目の高さに構えたときにだけ、獣の目は光って見える。


 本物の猪の目には、その層がない。けれど、夜ごと闇の中で畑を荒らす獣なら、持っていてもおかしくない。外れたとしても、光が麦の奥まで届くぶん、損はない。


「公爵様。その光の玉を、僕たちの目の高さまで下げて、動かさずにいていただけますか」


 エクラ公は、片眼鏡の奥で健司を見た。何も聞かずに、光の玉を下ろした。


 健司は、玉を見つめた。


 怖さは、あった。けれど、手は震えていなかった。わかっていることだけで、組み立てればいい。


(公爵の光を、前へ)


 頭の周りに、半透明のウィンドウが開いた。


【事象の定義を開始します:光の進む向きの変更】


【残り時間:5:00】


 エクラ公の目が、健司の唇の動きを追っていた。公爵には、窓は見えていないはずだった。


 光源は、公爵の光の玉。玉そのものには、触れない。魔法から生まれた光でも、生まれてしまえば、光は光だ。


【承認:光源の指定】


 範囲は、玉のまわり、半歩。そこを通って、玉から出ていく光だけ。外から戻ってくる光には、触れない。


【承認:対象範囲の指定】


 光の量は、変えない。足さない。引かない。向きだけを変える。四方へ散っていく光を、前へ、細い円錐の中にそろえる。鏡が光を跳ね返すのと、同じことだ。新しいものは、何もいらない。


【承認:光路の定義】


【未定義変数:大気中マナ濃度に対する光路変換率】


 赤い文字だった。あの夜、村を焼く前に見たのと、同じ色。


 地下牢では、出なかった表示だ。熱が温かいほうから冷たいほうへ流れるのは、もともと起こることだった。けれど、何もない宙で光が曲がることは、もともとは起こらない。だから、聞いてくるのだろう。


 今度は、答えがわかっていた。


 要らない。新しいエネルギーは、使わない。光の量は、変えていない。足してもいないし、引いてもいない。変換するものが、ない。


【判定:新たなエネルギーの発生なし。変換率の定義は不要です】


 赤い文字が、消えた。


 円錐の向きは、玉の向きに従う。公爵が玉を回せば、光の筋も回る。ただし、筋が人のいるほうを向いたら、そのぶんの光は空へ逃がす。人の目は、焼かない。


【承認:照射方向の定義】


 続くのは、玉が消えるまで。


【承認:持続条件の定義】


【全項目が承認されました。事象を実行します】


 残り時間は、まだ一分半あった。


 光の玉が、ふっと暗くなった。


 次の瞬間、一本の白い光の筋が、闇をまっすぐに貫いた。


 麦畑の奥の奥、川向こうの土手の草まで、白く浮かび上がる。足もとの土は暗くなったのに、光の筋の中だけが、切り取られたように明るい。兵士たちが、どよめいた。


「公爵様。ゆっくり、左から右へ」


 エクラ公が、指先ひとつ動かさずに、光の玉をわずかに回した。光の筋が、麦の上をなでていく。


 麦の中に、光るものがあった。


 ふたつ並んだ、緑がかった金色の点。その隣にも。その奥にも。光の筋が動くたびに、点は数を増やしていった。十。二十。三十。


 麦の海に、星が落ちたようだった。


 四十対ほどの目が、まぶしさに凍りついたように、じっとこちらを見返していた。いちばん奥の、ひときわ高いところに、ひとつだけ、大きな目があった。対になるはずのもうひとつは、光らなかった。その目だけが、まぶしさにも細められずに、こちらを見ていた。


「……ほぅ」


 エクラ公が、小さく息をもらした。


 宙に浮かんだ自分の光の玉を見やり、それから、麦畑の奥まで伸びる光の筋を見た。


「光を、強くしたわけではないね。私の光は、何も変わっていない。……捨てていた光を、拾い集めたのか」


「はい」


「それに、あの目だ。獣の目が光を返すことは、知っていた。だが、光の玉を目の高さに置けと言われたのは、初めてだよ」


「光は、来た道をまっすぐ帰るので」


 エクラ公は、しばらく黙っていた。片眼鏡の奥で、目が、何かを楽しむように光った。


「興味深い」


 エクラ公は、光の玉を、ゆっくりと兵士たちのほうへ回した。


 光の筋が、兵士たちの手前で、すっと夜空へそれた。


「人のいるほうへは、向かないのだね」


「そう決めてから、始めたので」


「始める前に、か」


 エクラ公は、それだけ言って、光の筋を麦畑へ戻した。


 麦畑の奥で、何頭かが、まぶしさに耐えかねたように鼻を鳴らした。前脚で、土をかいている。


 目がくらんでいるのは、長くはもたない。光に慣れれば、あの群れは、光のもとへ、こちらへ来る。そのときに、五分は待ってくれない。


 今のうちに、始めておかなければならなかった。


(あいつらの、足もとを)


 二つめのウィンドウが開いた。


【事象の定義を開始します:接触面の摩擦の変更】


【残り時間:5:00】


 麦畑のいちばん奥で、ひとつだけの大きな目が、ゆっくりと細められた。


 低い声が、夜の底を這うように響いた。


 四十対の光る目が、いっせいに、こちらへ動きはじめた。


本が好きだとつい本に食いついちゃいますよね。


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