『全能』2章2話 緑の橋(25)
『全能』第25話
乗合馬車の駅を離れて、辻の外れまで歩いた。
南へ向かう街道が、麦畑のあいだをまっすぐに延びていた。荷車の車輪の跡が、幾筋も遠くまで続いている。
「このへんでいいかな」
ルルは本を小脇に抱えなおして、健司の足もとへ手のひらを向けた。
「ブリーズ」
足首のあたりで、風が渦を巻いた。外套の裾がふわりとふくらみ、土ぼこりが輪になって広がっていく。
足の裏から、地面が消えた。
見下ろすと、新しい革靴の底と街道の土のあいだに、握りこぶしひとつぶんほどのすき間があった。踏みしめようとしても、何も踏めない。体じゅうの筋肉が、勝手にこわばった。
「ケンジさん、膝、がくがくしてる」
「……立っているだけで、精一杯です」
「力、抜いて。風が、ちゃんと支えてくれるから。あ、それと、浮いてるあいだは、足を動かさないでね」
「動かすと、どうなるんですか」
聞かずには、いられなかった。
ルルは少しだけ考えてから、にっこりした。
「やってみれば?」
健司は、おそるおそる右足を、半歩だけ前へ出した。
足の裏が、風を踏んだ。
次の瞬間、世界が横へ流れた。
体が、こまのように回っていた。外套の裾が傘のように広がり、麦畑と空とルルが、ひとつの色に溶けていく。手首のリボンが、耳もとでびゅうびゅうと鳴った。止まろうとして足を突っぱるほど、回るのは速くなった。
「あ、ほどくね!」
ルルの声と同時に、足もとの風が消えた。
握りこぶしひとつぶんの高さから、健司は街道の土の上に尻もちをついた。空が、まだ回っていた。
片足で風を踏めば、その力は体を回すほうへ逃げる。理屈は、すぐにわかった。わかったところで、目が回るのは治らない。
「……こうなるなら、初めから言ってください」
「言ったよ。動かさないで、って」
「どうなるのかを、です」
ルルは、しゃがみこんで健司の顔をのぞきこんだ。金色の瞳が、笑いをこらえていた。
「だって、ケンジさん。言っても、どうせ一回はやってみたでしょ」
言い返せなかった。
ルルは立ち上がって、もう一度、健司の足もとへ手のひらを向けた。二度目の「ブリーズ」で浮きあがった健司は、棒のように立ったまま、指一本動かさなかった。
ルルは、続けて自分の足もとにも手のひらを向けた。もう一度「ブリーズ」とつぶやくと、黒いローブの裾がふわりと浮いて、小さな体が、健司と同じ高さまで持ち上がった。
ひとりに、ひとつずつ。そういう魔法らしい。
肩の力だけを、そっと抜いてみた。やわらかいものの上に、体が載っている。水に浮かぶのとも違う。たとえようのない感触だった。
「じゃあ、行くよ。足、動かさないでね」
「動かしません」
景色が、動きだした。
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最初の十分で、健司は三回、目を閉じた。
麦畑が、飛ぶように後ろへ流れていく。街道は荷車でふさがっているので、ルルは道のわきの草の上を選んで進んだ。ふたりの通ったあとで、草が波のように倒れ、また起き上がっていく。
荷馬車の御者が、目をむいてこちらを振り返った。馬がいななく。ルルが、ひらひらと手を振った。
時速八十キロ。高速道路を走る車と、ほとんど変わらない。
それなのに、と健司は気づいた。
顔に、風が当たらない。
髪も外套の裾も、そよ風に吹かれたくらいにしか揺れていない。八十キロで進んでいるなら、目も開けていられないほどの風が、前から吹きつけてくるはずだった。
健司は、そっと右手を横へ伸ばした。
肘の先が、何かの境目を越えた。見えない手に叩かれたように腕が後ろへ持っていかれ、手首の赤いリボンが、ばたばたと鳴った。
「手、出さないで!」
ルルが、あわてて振り向いた。
「ちぎれはしないけど、痛いよ」
腕を引っこめると、指先がじんとしびれていた。
境目は、体から肘ほどのところ。その内側の空気だけが、健司といっしょに動いている。隣のルルの髪も、同じように、ほとんど揺れていなかった。ひとりにひとつずつ、見えない部屋があるようなものだ。走る電車の中で、前から風が吹いてこないのと同じだった。
「この風は、僕のまわりの空気ごと、運んでいるんですね」
「そうだよ。風に運んでもらうんだもん。風がぶつかってきたら、おかしいでしょ」
ルルは、当たり前のことを聞かれた顔で言った。
理屈は、合っていた。少なくとも、ルルの中では。
説明はいらないのに、あとから理屈をつけてみると、ちゃんと筋が通っている。この世界の魔法は、ときどき、健司が思うよりずっと理屈っぽかった。
一時間もすると、健司の膝も、ようやく笑うのをやめた。
隣を見ると、ルルは、浮いたまま本を開いていた。
「……前、見なくて大丈夫なんですか」
「見てる見てる」
ルルは、本から顔を上げずに答えた。
「酔いませんか」
「慣れてるもん。荷馬車の上でも、ずっと読んでたでしょ」
それは、たぶん、こんな速さではなかったはずだ。
健司は、前を見ていることにした。どちらかが見ていないと、落ち着かない。
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二時間ほど進んだところで、ルルのお腹が、盛大に鳴った。
ルルは、本で顔を隠した。
「……聞かなかったことにして」
「はい」
「魔法を使うとね、お腹がすくの。ほんとだからね。わたしが食いしんぼうなわけじゃないから」
小さな村の手前で、ふたりは降りた。
風がほどけて、革靴の底が、すとんと土についた。二時間ぶりの地面だった。とたんに、健司の膝が、かくんと折れた。
「ケンジさん、生まれたての子鹿みたい」
ルルが、くすくす笑った。
村の露店で、ルルは焼いた肉の串を四本と、黒パンを二つ買った。串を二本と、半分にちぎったパンを、健司の手に押しつける。残りは、あっというまにルルのお腹におさまった。
研究室にも、徹夜明けにこういう食べ方をする後輩がいた。
「……ほんとに、魔法のせいだからね」
「わかってます」
「わかってない顔してる」
村を出てしばらくすると、北へ向かう荷車が、目につくようになった。
一台や二台ではなかった。家財道具を山のように積んだ荷車が、間をおいて、ぽつり、ぽつりと続いている。寝台の枠、鍋、丸めた敷物。荷台のすき間に、子供が膝を抱えて座っていた。荷車の横を歩いている人たちもいた。誰も、急いではいなかった。急ぐ力も、残っていないように見えた。
浮いたまますれ違っていくふたりを、荷台の子供が、ぼんやりと目で追った。驚きもしなかった。
ルルが、本を閉じた。
何も言わなかった。健司も、何も聞かなかった。
そこに暮らしていた人たちは、どうなったのだろう。
駅の長椅子で、そう思った。その答えの、ほんの端のほうが、北へ向かって、ゆっくりと通り過ぎていった。
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日がだいぶ西へ傾いたころ、街道のわきに、背の高い石の柱が見えてきた。
柱のてっぺんに、金色の紋章が刻まれていた。真ん中の丸から、八方へ光の筋が伸びている。
柱のそばに関所があり、槍を持った兵士が十人ほどで、行き交う荷車をあらためていた。王都の門の兵士より、ずっと多い。
降りてきた二人連れを、兵士のひとりがいぶかしげに見た。ルルが、懐から封をした書状を出す。封の印を見るなり、兵士の背筋が伸びた。
「……お通りください。どうぞ、お気をつけて」
「ありがとうございます」
関所を抜けてから、健司はルルに聞いた。
「今のは」
「陛下の書状。出がけに、お城の人が届けてくれたの。これがあれば、どこの関所でも通してもらえるんだって」
「ここから先は、王様の土地ではないんですか」
「ここから先は、エクラ公爵領」
ルルは、また本を開いた。今度は、地図の頁だった。
「王様がじかに治めてる土地のまわりを、四つの公爵領が、ぐるっと囲んでるの。治めてるのは、みんな、王様のご親族」
ルルの指先が、地図の上で輪を描いた。
「北がエトワール。星って意味。東がソレイユ、太陽。西がリュンヌ、月。それで、南が、ここ。エクラ。輝き」
「空の光ばかりですね」
「そう。王様のご一族の領地だから、空の光の名前をもらってるんだって」
「輝きだけ、星や月みたいな、ものの名前じゃないんですね」
「南だからだよ。お日さまがいちばん高いところで光るのは、南の空でしょ。その、いちばん明るいときの光」
南中。太陽は、この世界でも南の空でいちばん高くなる。とうに気づいていたことだったが、こちらの人の言葉で聞くと、なぜか少しうれしかった。
「この土地を治めているのは、どんな人なんですか」
「エクラ公、ヴィクトル様。……お会いしたことはないの。どんな方かは、知らない」
ルルは、地図の下のへりを、指でなぞった。エクラ公爵領の、さらに南。
「でも、アーベントシュタインのすぐ隣だから。いちばん心配してらっしゃるのは、きっと、エクラ公だと思う」
健司は、関所を振り返った。並んだ槍の穂先が、傾いた日に光っていた。
街道の両わきの麦は、王の土地のものより心なしか背が高く、よく手入れされていた。畑に水を引く石組みも、まだ新しい。
豊かな土地だった。滅びた土地のすぐ隣とは、思えないほどに。
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ヴェルポンに着いたのは、夕日が麦畑を赤く染めるころだった。
街の入口を、川が流れていた。そこに架かる石の橋の欄干が、くすんだ緑色をしている。
銅の欄干だった。緑は、銅のさびの色だ。何十年も雨と風にさらされて、ようやくこの色になる。
緑の橋。それが街の名前の由来なのだと、ルルが教えてくれた。
橋のたもとで、ルルはブリーズをほどいた。今度は、膝はかくんとならなかった。ふらついただけだ。
「上手になったね」
「慣れました。……たぶん」
地面も踏まずに、千五百キロ。そのはずが、もう何度も降りた。昼には子鹿にもなった。それでも、三分の一は来た。
橋を渡ると、乗合馬車の駅があった。王都の辻の駅とよく似た大きな板に、行き先が書き出されている。いちばん下の段、南へ向かう行き先の上にだけ、新しい板が一枚、打ちつけてあった。
エクラ公の命により、当分のあいだ、南行きはすべて取りやめる。
「明日の朝、慌てなくていいように、先に関所を見ておこうか」
ルルが言って、ふたりは街の南の外れまで歩いた。
南の関所は、北のものとは比べものにならなかった。石を積んだ高い壁が街道をふさぎ、真ん中の大きな木の門には、太いかんぬきがかかっている。壁の上では、弓を持った兵士たちが、南の暗がりをにらんでいた。
ルルが書状を見せると、関所の隊長らしい男は、封の印を見て、深々と頭を下げた。
それから、首を横に振った。
「陛下のご命令とあれば、本来ならば、喜んでお通しいたします。ですが、この門だけは、開けられません」
「どうしてですか」
「この先は、魔物が出ます。公爵様のお許しなしに門を開ければ、街ごと危うくなる。たとえ陛下の書状があろうと、公爵様のお許しがなければ、この門は開けられないのです」
隊長は、申しわけなさそうに、街の奥を振り返った。夕闇の中に、灯りのともった石の砦が、黒々とそびえていた。
「公爵様は、南の守りのために、今はあの砦においでです。お許しを願い出られるのでしたら、明日の朝にでも」
ルルの顔から、すっと血の気が引いた。
「……公爵様に、直接」
お会いしたことはないの、とルルは言っていた。どんな方かは、知らない、と。
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宿は、橋の近くの、二階建ての古い建物だった。
「二部屋」
ルルは宿の主人に硬貨を渡しながら、きっぱりと言った。それから、健司のほうを見ないで、古びた革の本の余白に何か書きつけた。
貸し、二千プルの下に、一行増えていた。
夕食は、一階の食堂で、川魚の煮込みだった。
ルルは、二皿食べた。宿の主人が、空になった皿を下げながら、目を丸くした。
「お嬢ちゃん、魔法使いかい」
「……どうして、わかるの」
「魔法使いさんは、よく食べるからね」
ルルの耳が、赤くなった。健司は、聞かなかったことにした。
主人は、皿を重ねる手を止めた。
「関所に行ったんだって? 悪いことは言わない。南へ行くのは、やめときな。公爵さまが道を閉めたのは、それだけ、この先が危ないからさ」
主人は、暗くなった窓の外に目をやった。
「ここんとこ、南から逃げてくる人ばっかりでね。向こうへ行こうなんてのは、あんたたちが初めてだよ」
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二階の廊下の、それぞれの部屋の前で、ルルが振り向いた。
「あ、そうだ。プロテグラ」
ルルの目が、健司の胸もとをちらりと見た。
「あれ、一日しかもたないの。だから、明日の朝、またかけるね」
「毎朝、ですか」
「毎朝」
ルルは、なぜか得意げな顔をして、自分の部屋の扉を閉めた。
健司は、部屋の窓を開けた。
窓は、南を向いていた。家々の屋根の向こうに、関所の壁の上のかがり火が、点々と赤く並んでいる。その先の街道は、もう闇に沈んでいた。そのずっと先に、滅びた土地がある。
胸もとに手をやった。布の手ざわりは、昼間より、少しだけやわらかくなっている気がした。
南の闇の奥で、遠吠えがひとつ、長く尾を引いた。
つい試したくなっちゃうことってありますよね。
ブリーズでくるくる。
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