↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『全能』  作者: 朝霧なぎ
2章 未定義変数
25/30

『全能』2章2話 緑の橋(25)

『全能』第25話

 

 乗合馬車の駅を離れて、辻の外れまで歩いた。


 南へ向かう街道が、麦畑のあいだをまっすぐに延びていた。荷車の車輪の跡が、幾筋も遠くまで続いている。


「このへんでいいかな」


 ルルは本を小脇に抱えなおして、健司の足もとへ手のひらを向けた。


「ブリーズ」


 足首のあたりで、風が渦を巻いた。外套の裾がふわりとふくらみ、土ぼこりが輪になって広がっていく。


 足の裏から、地面が消えた。


 見下ろすと、新しい革靴の底と街道の土のあいだに、握りこぶしひとつぶんほどのすき間があった。踏みしめようとしても、何も踏めない。体じゅうの筋肉が、勝手にこわばった。


「ケンジさん、膝、がくがくしてる」


「……立っているだけで、精一杯です」


「力、抜いて。風が、ちゃんと支えてくれるから。あ、それと、浮いてるあいだは、足を動かさないでね」


「動かすと、どうなるんですか」


 聞かずには、いられなかった。


 ルルは少しだけ考えてから、にっこりした。


「やってみれば?」


 健司は、おそるおそる右足を、半歩だけ前へ出した。


 足の裏が、風を踏んだ。


 次の瞬間、世界が横へ流れた。


 体が、こまのように回っていた。外套の裾が傘のように広がり、麦畑と空とルルが、ひとつの色に溶けていく。手首のリボンが、耳もとでびゅうびゅうと鳴った。止まろうとして足を突っぱるほど、回るのは速くなった。


「あ、ほどくね!」


 ルルの声と同時に、足もとの風が消えた。


 握りこぶしひとつぶんの高さから、健司は街道の土の上に尻もちをついた。空が、まだ回っていた。


 片足で風を踏めば、その力は体を回すほうへ逃げる。理屈は、すぐにわかった。わかったところで、目が回るのは治らない。


「……こうなるなら、初めから言ってください」


「言ったよ。動かさないで、って」


「どうなるのかを、です」


 ルルは、しゃがみこんで健司の顔をのぞきこんだ。金色の瞳が、笑いをこらえていた。


「だって、ケンジさん。言っても、どうせ一回はやってみたでしょ」


 言い返せなかった。


 ルルは立ち上がって、もう一度、健司の足もとへ手のひらを向けた。二度目の「ブリーズ」で浮きあがった健司は、棒のように立ったまま、指一本動かさなかった。


 ルルは、続けて自分の足もとにも手のひらを向けた。もう一度「ブリーズ」とつぶやくと、黒いローブの裾がふわりと浮いて、小さな体が、健司と同じ高さまで持ち上がった。


 ひとりに、ひとつずつ。そういう魔法らしい。


 肩の力だけを、そっと抜いてみた。やわらかいものの上に、体が載っている。水に浮かぶのとも違う。たとえようのない感触だった。


「じゃあ、行くよ。足、動かさないでね」


「動かしません」


 景色が、動きだした。


 ----------------


 最初の十分で、健司は三回、目を閉じた。


 麦畑が、飛ぶように後ろへ流れていく。街道は荷車でふさがっているので、ルルは道のわきの草の上を選んで進んだ。ふたりの通ったあとで、草が波のように倒れ、また起き上がっていく。


 荷馬車の御者が、目をむいてこちらを振り返った。馬がいななく。ルルが、ひらひらと手を振った。


 時速八十キロ。高速道路を走る車と、ほとんど変わらない。


 それなのに、と健司は気づいた。


 顔に、風が当たらない。


 髪も外套の裾も、そよ風に吹かれたくらいにしか揺れていない。八十キロで進んでいるなら、目も開けていられないほどの風が、前から吹きつけてくるはずだった。


 健司は、そっと右手を横へ伸ばした。


 肘の先が、何かの境目を越えた。見えない手に叩かれたように腕が後ろへ持っていかれ、手首の赤いリボンが、ばたばたと鳴った。


「手、出さないで!」


 ルルが、あわてて振り向いた。


「ちぎれはしないけど、痛いよ」


 腕を引っこめると、指先がじんとしびれていた。


 境目は、体から肘ほどのところ。その内側の空気だけが、健司といっしょに動いている。隣のルルの髪も、同じように、ほとんど揺れていなかった。ひとりにひとつずつ、見えない部屋があるようなものだ。走る電車の中で、前から風が吹いてこないのと同じだった。


「この風は、僕のまわりの空気ごと、運んでいるんですね」


「そうだよ。風に運んでもらうんだもん。風がぶつかってきたら、おかしいでしょ」


 ルルは、当たり前のことを聞かれた顔で言った。


 理屈は、合っていた。少なくとも、ルルの中では。


 説明はいらないのに、あとから理屈をつけてみると、ちゃんと筋が通っている。この世界の魔法は、ときどき、健司が思うよりずっと理屈っぽかった。


 一時間もすると、健司の膝も、ようやく笑うのをやめた。


 隣を見ると、ルルは、浮いたまま本を開いていた。


「……前、見なくて大丈夫なんですか」


「見てる見てる」


 ルルは、本から顔を上げずに答えた。


「酔いませんか」


「慣れてるもん。荷馬車の上でも、ずっと読んでたでしょ」


 それは、たぶん、こんな速さではなかったはずだ。


 健司は、前を見ていることにした。どちらかが見ていないと、落ち着かない。


 ----------------


 二時間ほど進んだところで、ルルのお腹が、盛大に鳴った。


 ルルは、本で顔を隠した。


「……聞かなかったことにして」


「はい」


「魔法を使うとね、お腹がすくの。ほんとだからね。わたしが食いしんぼうなわけじゃないから」


 小さな村の手前で、ふたりは降りた。


 風がほどけて、革靴の底が、すとんと土についた。二時間ぶりの地面だった。とたんに、健司の膝が、かくんと折れた。


「ケンジさん、生まれたての子鹿みたい」


 ルルが、くすくす笑った。


 村の露店で、ルルは焼いた肉の串を四本と、黒パンを二つ買った。串を二本と、半分にちぎったパンを、健司の手に押しつける。残りは、あっというまにルルのお腹におさまった。


 研究室にも、徹夜明けにこういう食べ方をする後輩がいた。


「……ほんとに、魔法のせいだからね」


「わかってます」


「わかってない顔してる」


 村を出てしばらくすると、北へ向かう荷車が、目につくようになった。


 一台や二台ではなかった。家財道具を山のように積んだ荷車が、間をおいて、ぽつり、ぽつりと続いている。寝台の枠、鍋、丸めた敷物。荷台のすき間に、子供が膝を抱えて座っていた。荷車の横を歩いている人たちもいた。誰も、急いではいなかった。急ぐ力も、残っていないように見えた。


 浮いたまますれ違っていくふたりを、荷台の子供が、ぼんやりと目で追った。驚きもしなかった。


 ルルが、本を閉じた。


 何も言わなかった。健司も、何も聞かなかった。


 そこに暮らしていた人たちは、どうなったのだろう。


 駅の長椅子で、そう思った。その答えの、ほんの端のほうが、北へ向かって、ゆっくりと通り過ぎていった。


 ----------------


 日がだいぶ西へ傾いたころ、街道のわきに、背の高い石の柱が見えてきた。


 柱のてっぺんに、金色の紋章が刻まれていた。真ん中の丸から、八方へ光の筋が伸びている。


 柱のそばに関所があり、槍を持った兵士が十人ほどで、行き交う荷車をあらためていた。王都の門の兵士より、ずっと多い。


 降りてきた二人連れを、兵士のひとりがいぶかしげに見た。ルルが、懐から封をした書状を出す。封の印を見るなり、兵士の背筋が伸びた。


「……お通りください。どうぞ、お気をつけて」


「ありがとうございます」


 関所を抜けてから、健司はルルに聞いた。


「今のは」


「陛下の書状。出がけに、お城の人が届けてくれたの。これがあれば、どこの関所でも通してもらえるんだって」


「ここから先は、王様の土地ではないんですか」


「ここから先は、エクラ公爵領」


 ルルは、また本を開いた。今度は、地図の頁だった。


「王様がじかに治めてる土地のまわりを、四つの公爵領が、ぐるっと囲んでるの。治めてるのは、みんな、王様のご親族」


 ルルの指先が、地図の上で輪を描いた。


「北がエトワール。星って意味。東がソレイユ、太陽。西がリュンヌ、月。それで、南が、ここ。エクラ。輝き」


「空の光ばかりですね」


「そう。王様のご一族の領地だから、空の光の名前をもらってるんだって」


「輝きだけ、星や月みたいな、ものの名前じゃないんですね」


「南だからだよ。お日さまがいちばん高いところで光るのは、南の空でしょ。その、いちばん明るいときの光」


 南中。太陽は、この世界でも南の空でいちばん高くなる。とうに気づいていたことだったが、こちらの人の言葉で聞くと、なぜか少しうれしかった。


「この土地を治めているのは、どんな人なんですか」


「エクラ公、ヴィクトル様。……お会いしたことはないの。どんな方かは、知らない」


 ルルは、地図の下のへりを、指でなぞった。エクラ公爵領の、さらに南。


「でも、アーベントシュタインのすぐ隣だから。いちばん心配してらっしゃるのは、きっと、エクラ公だと思う」


 健司は、関所を振り返った。並んだ槍の穂先が、傾いた日に光っていた。


 街道の両わきの麦は、王の土地のものより心なしか背が高く、よく手入れされていた。畑に水を引く石組みも、まだ新しい。


 豊かな土地だった。滅びた土地のすぐ隣とは、思えないほどに。


 ----------------


 ヴェルポンに着いたのは、夕日が麦畑を赤く染めるころだった。


 街の入口を、川が流れていた。そこに架かる石の橋の欄干が、くすんだ緑色をしている。


 銅の欄干だった。緑は、銅のさびの色だ。何十年も雨と風にさらされて、ようやくこの色になる。


 緑の橋。それが街の名前の由来なのだと、ルルが教えてくれた。


 橋のたもとで、ルルはブリーズをほどいた。今度は、膝はかくんとならなかった。ふらついただけだ。


「上手になったね」


「慣れました。……たぶん」


 地面も踏まずに、千五百キロ。そのはずが、もう何度も降りた。昼には子鹿にもなった。それでも、三分の一は来た。


 橋を渡ると、乗合馬車の駅があった。王都の辻の駅とよく似た大きな板に、行き先が書き出されている。いちばん下の段、南へ向かう行き先の上にだけ、新しい板が一枚、打ちつけてあった。


 エクラ公の命により、当分のあいだ、南行きはすべて取りやめる。


「明日の朝、慌てなくていいように、先に関所を見ておこうか」


 ルルが言って、ふたりは街の南の外れまで歩いた。


 南の関所は、北のものとは比べものにならなかった。石を積んだ高い壁が街道をふさぎ、真ん中の大きな木の門には、太いかんぬきがかかっている。壁の上では、弓を持った兵士たちが、南の暗がりをにらんでいた。


 ルルが書状を見せると、関所の隊長らしい男は、封の印を見て、深々と頭を下げた。


 それから、首を横に振った。


「陛下のご命令とあれば、本来ならば、喜んでお通しいたします。ですが、この門だけは、開けられません」


「どうしてですか」


「この先は、魔物が出ます。公爵様のお許しなしに門を開ければ、街ごと危うくなる。たとえ陛下の書状があろうと、公爵様のお許しがなければ、この門は開けられないのです」


 隊長は、申しわけなさそうに、街の奥を振り返った。夕闇の中に、灯りのともった石の砦が、黒々とそびえていた。


「公爵様は、南の守りのために、今はあの砦においでです。お許しを願い出られるのでしたら、明日の朝にでも」


 ルルの顔から、すっと血の気が引いた。


「……公爵様に、直接」


 お会いしたことはないの、とルルは言っていた。どんな方かは、知らない、と。


 ----------------


 宿は、橋の近くの、二階建ての古い建物だった。


「二部屋」


 ルルは宿の主人に硬貨を渡しながら、きっぱりと言った。それから、健司のほうを見ないで、古びた革の本の余白に何か書きつけた。


 貸し、二千プルの下に、一行増えていた。


 夕食は、一階の食堂で、川魚の煮込みだった。


 ルルは、二皿食べた。宿の主人が、空になった皿を下げながら、目を丸くした。


「お嬢ちゃん、魔法使いかい」


「……どうして、わかるの」


「魔法使いさんは、よく食べるからね」


 ルルの耳が、赤くなった。健司は、聞かなかったことにした。


 主人は、皿を重ねる手を止めた。


「関所に行ったんだって? 悪いことは言わない。南へ行くのは、やめときな。公爵さまが道を閉めたのは、それだけ、この先が危ないからさ」


 主人は、暗くなった窓の外に目をやった。


「ここんとこ、南から逃げてくる人ばっかりでね。向こうへ行こうなんてのは、あんたたちが初めてだよ」


 ----------------


 二階の廊下の、それぞれの部屋の前で、ルルが振り向いた。


「あ、そうだ。プロテグラ」


 ルルの目が、健司の胸もとをちらりと見た。


「あれ、一日しかもたないの。だから、明日の朝、またかけるね」


「毎朝、ですか」


「毎朝」


 ルルは、なぜか得意げな顔をして、自分の部屋の扉を閉めた。


 健司は、部屋の窓を開けた。


 窓は、南を向いていた。家々の屋根の向こうに、関所の壁の上のかがり火が、点々と赤く並んでいる。その先の街道は、もう闇に沈んでいた。そのずっと先に、滅びた土地がある。


 胸もとに手をやった。布の手ざわりは、昼間より、少しだけやわらかくなっている気がした。


 南の闇の奥で、遠吠えがひとつ、長く尾を引いた。


つい試したくなっちゃうことってありますよね。


ブリーズでくるくる。


ブックマークをいただけると更新がわかりやすいです。☆を付けていただけると励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。