『全能』2章1話 この世界の物差し(24)
『全能』第24話
城壁の外にも、町があった。
まっすぐな道をしばらく行くと、いくつもの街道が分かれていく辻に出た。そこに、宿と店と馬小屋が、肩を寄せ合うように並んでいる。
荷車がひっきりなしに行き交い、馬がいななき、どこかで金物を打つ音が響いていた。鎧の兵士も、杖をついた巡礼も、背負い籠の行商人もいる。王都に出入りする旅人や商人は、みんなここで荷をほどき、また荷を積んでいくのだと、ルルが教えてくれた。
「旅の支度なら、ここがいちばん。中で買うより安いし、なんでもそろってるの」
ルルはそう言って、健司の足もとに目を落とした。
「まずは、靴ね」
健司も、自分の足を見下ろした。ひびと傷だらけの、裸足だった。女神が履かせてくれた百円ショップのサンダルをなくしてから、何日たったのか、もう数えていない。
店へ向かう途中、水がめの前で、男が手のひらから水を出して、旅人の水筒を満たしていた。荒野で、必死に説明して、ようやく手のひらに集めたのと同じ水だ。ここでは、それが小銭で売られている。
焼きたてのパンのにおいがした。
道ばたの露店で、前掛けをした娘が、指先をひょいと動かした。棚の黒パンがふわりと浮いて、客の手の中にすとんと落ちる。孤児院の子供たちに教わった、フロートだ。
「黒パン、ひとつ二十プル! 焼きたてだよ!」
ルルが、二つ買った。小さな硬貨が何枚か、ルルの手から娘の手に渡る。
健司は、受け取ったパンを手のひらにのせた。握りこぶしより、ひとまわり大きいくらいの丸いパン。日本なら、百円といったところだろう。
二十プルで、百円。なら、一プルは、およそ五円。
隣の露店では、干し肉がひと切れ六十プル。三百円。高すぎも、安すぎもしない。
標本が二つきりの見積もりだ。学会で発表したら、質問の手がいっせいに挙がるだろう。それでも、桁は合っている。
あのウィンドウの入力欄には、単位すら書いていなかった。この世界の物差しは、こうして自分で測って、ひとつずつ手に入れていくしかない。
まず、ひとつ。
「何、にやにやしてるの」
「いえ。パンが、おいしいので」
ルルは、変な人、という顔をした。
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ルルが選んだのは、辻でいちばん大きな店だった。
軒先に、上着や外套が何着もつるしてある。光の加減で、布の目の中に、細い線の模様がうっすらと浮かんで見えた。
奥から、恰幅のいいおかみが出てきた。健司の焦げたスウェットを上から下まで眺めて、片方の眉を上げる。
「……ずいぶんな格好だね」
「だから、来たの。旅の軽装備を、一式」
ルルが言うと、おかみはにやりと笑って、軒先の上着を一着下ろした。
「なら、これだね。紋様織りだよ。見た目はただの服だけどね、布に守りの魔法が織りこんである。小物の魔物の爪や牙なら、三、四発は通さない。それに、燃えにくい。焚き火の火の粉くらいじゃ、焦げもしない」
腕と頬に残った火傷の跡が、ちりりと引きつった。
あの夜に、この服があったら。考えかけて、やめた。燃えたのは、自分ではなかった。
おかみが、指を折って勘定した。
「靴まで入れて、一式で五十ドプル」
「……ド?」
「五万プル、ってこと」
ルルが、横から小声で言い直した。ドは、千。キロのようなものらしい。
二十五万円。ポスドクの手取りの、ちょうどひと月分だ。
円に直すから、高く見えるのかもしれない。比べるなら、この世界の稼ぎとだ。
「……ふつうの人は、ひと月にいくら稼ぐんですか」
「六万プルくらい」
ほぼ、ひと月分。やはり、高い。
「高すぎる」
ルルが、真顔で言った。
「五万プルあったら、本が三冊買えるよ」
本が三冊。一冊、一万七千プル近く。八万三千円。
装備の値段より、そっちに驚いた。
「本って、そんなに高いんですか」
「本は、魔法転写でしか作れないから、高いんだよ」
魔法転写。一冊ずつ、魔法で写しとるのだろう。活版印刷がなければ、本はこんなものなのかもしれない。
健司が円で測るものを、ルルは本で測るらしい。
ルルは、店の奥のつるし棚から、地味な服をひとそろい引っぱり出した。生成りのシャツ。厚手のズボン。くすんだ緑の上着に、頭巾のついた、膝までの外套。
「こっちでいい」
「そっちは、ただの旅人用だよ。靴をつけても、二千プル」
おかみが、つまらなそうに言った。二千プル。一万円。
靴だけは、自分で選んだ。
森の調査では、靴を甘く見た者から脱落していく。くるぶしまで包む、編み上げの革靴。かかとがぴたりと収まり、つま先に指一本ぶんの余裕があるものを、何足も履いて確かめた。何日ぶりかの靴は、足の裏が地面から遠くなったようで、少し落ち着かなかった。
「へえ。わかってるじゃないか、お兄さん」
おかみが、感心したように腕を組んだ。
店の奥の姿見に、緑の上着に外套をはおった男が映っていた。
この世界の、旅人だった。
「……悪くないんじゃない」
後ろで、ルルがそっぽを向いたまま言った。それから、健司の前に回りこんで、胸もとに手のひらをかざした。
「じっとしてて。プロテグラ」
指先から、淡い光がこぼれた。光は上着の布目にしみこむように広がり、袖の先から外套の裾まで行きわたると、ふっと消えた。
見た目は、何も変わらない。けれど、袖をつまむと、布の手ざわりが、ほんの少しだけ固くなったような気がした。
「これで、小物の魔物の爪や牙くらいなら、何回かは通さない。火の粉くらいなら、はじくよ」
おかみが、鼻を鳴らした。
「……商売あがったりだよ」
「それ、どういう仕組みで」
気づけば、口に出していた。ルルが、きょとんとした顔をした。
「仕組み? ……かければ、かかるの」
説明しなくても、かかる。説明を求めてくる自分の力とは、正反対だった。
「……二千プルも、払えません」
健司は、正直に言った。城で渡された袋には、黒パンと水筒しか入っていない。
「知ってる。出世払いでいいよ」
「出世、ですか」
健司は、思わず笑ってしまった。
「向こうでは、ずっと出世できない身分だったんですけど」
「じゃあ、こっちでして」
ルルは、あの古びた革の本を開いて、余白にさらさらと書きつけた。貸し、二千プル。
「利子は、つきますか」
「ジャノみたいなこと言わないで」
着てきたスウェットを、おかみが指さした。
「そっちは、処分しとこうか」
焦げて、破れて、血と泥と、墓の土がしみこんだ服だった。
「いえ。持っていきます」
健司は、それをたたんで、袋のいちばん底にしまった。ルルは、何も言わなかった。
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辻のまんなかには、乗合馬車の駅があった。
大きな板に、行き先がずらりと書き出されている。その前の長椅子で、ルルは、一冊の本を開いた。着替えを待つあいだに、向かいの古本の露店で買ってきたらしい。その土地の本が読めるかもしれない、と言っていたのは、本気だったようだ。
「あった。アーベントシュタイン辺境伯領」
ルルが、指で行をたどりながら読み上げた。
「国境の山から流れてくる川が、領地の真ん中を通り、その両岸に、麦の畑と葡萄の畑が広がる。森には鹿が多い。川をさかのぼった先が、領都アーベントシュタイン。実りの季節には、領地じゅうが麦の金色に染まる……」
そこで、ルルは顔を上げた。
「……滅びる前に、書かれた本だけど」
健司は、黙ってうなずいた。
「広さは、七十万シペグン。領都の街だけで、二十四シペグン」
「シペグン?」
「広さの単位。……あ、そっか」
ルルは立ち上がって、長靴のつま先で、地面に四角を描いた。
「このくらいが、一ペグン」
健司はしゃがんで、四角の一辺に手のひらを広げて当てた。親指の先から小指の先まで、ほぼ二十センチ。調査の現場で、何千回と定規がわりにしてきた手だ。
五つ分で、端から端に届いた。
一辺、一メートル。一ペグンは、ほぼ一平方メートル。
「シ、というのは」
「ドの、千倍」
千の、千倍。ドがキロなら、シはメガだ。一シペグンは、ほぼ百万平方メートル。一平方キロだ。街の二十四シペグンなら、二十四平方キロ。
物差しが、もうひとつ増えた。
「……街だけで、スイスのバーゼルくらいか」
「すいす? ばーぜる?」
「遠い国の、街の名前です。学会で、一度だけ行きました」
ライン川の両岸に広がる、路面電車の走る古い街だった。端から端まで、歩いても一時間と少し。それなのに、まる一日歩き回っても、とても回りきれなかった。
領地のほうは、七十万シペグン。日本の、倍近い。
魔物が、領地の半分を滅ぼすなんて。門を出たところで、ルルはそう言った。
半分でも、日本とほとんど変わらない。
数字になったとたん、かえって、うまく思い描けなくなった。
そこに暮らしていた人たちは、どうなったのだろう。
「それで、どうやって行くんですか」
「それなんだけど」
ルルは、駅の板を指さした。
「アーベントシュタインまで行く馬車は、もうないの。いちばん近い町までなら、出てる。四十ノルツくらいで走るから、速いよ」
四十ノルツ。話の流れからすると、速さの単位らしい。
「人が歩くと、何ノルツくらいですか」
「五ノルツくらいかな」
人が歩く速さは、時速四キロから五キロ。なら、一ノルツは、ほぼ時速一キロだ。三つめの物差しだった。
四十ノルツは、時速四十キロ。
そこへ、街道の向こうから、一台の馬車が駆けこんできた。四頭立ての大きな箱が、土ぼこりを巻き上げ、町なかを走る自動車ほどの速さで、みるみる近づいてくる。屋根には荷物が山と積まれ、窓からは、ぎっしり詰まった客の顔がのぞいていた。
「……あの速さで、ずっと?」
「街道の上ならね」
ルルは、こともなげに言った。
「でも、ねえ、ケンジさん」
ルルが、ぱたんと本を閉じた。
「馬車、やめない?」
「え?」
「ブリーズで行こう。風の魔法でね、地面からちょっとだけ浮いて、風に運んでもらうの。飛ぶのは、無理だけど。二人なら、わたしひとりでかけられるから」
ルルは、両手の指を八本立ててみせた。
「八十ノルツは出せるよ。馬車の倍」
時速、八十キロ。百メートル走の世界記録でも、平均すれば時速四十キロに届かない。その速さで転べば、崖から落ちるのと変わらない。
「浮いてるんだから、転ぶこともないよ」
顔に、出ていたらしい。
「アーベントシュタインまで、千五百ペゴ。途中の町に泊まりながら、一日五百ペゴずつ行けば、三日で着くよ」
千五百ペゴ。今度は、距離の単位らしい。
「八十ノルツで一時間進むと、何ペゴですか」
「八十ペゴ。……ケンジさん、さっきからそればっかり」
一ペゴは、ほぼ一キロ。四つめの物差しは、とんでもない数字を連れてきた。
「それに、馬車代だって、本が一冊買えちゃうんだから」
ルルは、にっと笑った。
「……浮いたまま、ですか」
「浮いたまま」
健司は、履いたばかりの革靴を見下ろした。まだ硬い革が、くるぶしを締めつけている。
履いて一時間もたたない靴で、地面も踏まずに、千五百キロ。
健司のこの世界のお勉強回です。
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