『全能』1章23話 泉のほとり(23)
『全能』第23話
白い場所は、あの日から、何ひとつ変わっていなかった。
床も壁も天井もない。やわらかな光がどこまでも満ちていて、その真ん中に、泉がひとつあるだけだ。
泉の水面には、まっすぐな土の道が映っていた。
道の上を、ふたつの影が並んで歩いている。葡萄酒色の髪をした小さな女の子と、焦げて破れたスウェットに、裸足の男。
「……サンダル、結局、両方ともなくしちゃったのよね。せっかく私が履かせてあげたのに」
女神は、泉のふちで膝を抱えたまま、ぼそりと言った。
答える者は、いない。雲でできたクッションは、少し離れたところで、ぺしゃんこのまま転がっていた。もう、ずいぶん長いこと、あの上で寝そべっていない。きゃあきゃあ騒いでいたのが、遠い昔のことのようだった。
女神は、そっと自分の頭に手をやった。
冠の七つの石は、どれも光を失ったままだった。
三週間、毎晩、ケンジが綿棒でひとつずつ磨いて、取り戻してくれた光だった。それを、叶うはずのない願いに、全部使ってしまった。
だから、何もできない。声ひとつ、届けられない。
できるのは、見ていることだけだった。
水面の中で、ケンジが懐に手をやった。シスターにもらった、あの小さな手鏡がしまってあるところだ。
「判断に困ったら、私に聞けばいいのに。全知なんだから、なんだって答えてあげられるわよ」
言ってから、女神は膝の上に顎をのせた。
「……聞こえれば、だけど」
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あの朝から、十日あまり。そのあいだ、ずっと見ていた。
焼け跡に素手で穴を掘る、ケンジの指を見ていた。爪が割れて血がにじんでも、ケンジは手を止めなかった。喉が渇いているはずなのに、水ひとつ作らなかった。
作れなかったのだと、女神は知っていた。私が渡した力を、ケンジは怖がっていた。
兵士たちに囲まれて、石の枷で地面に縫いつけられるところも見ていた。雷を浴びせられるたびに、女神は泉を叩いた。水の球がケンジの頭を包んだときには、やめて、と叫んだ。
冠は、光らなかった。しぶきが散るだけだった。
全能で、と叫びかけて、女神は、自分の口を両手でふさいだ。
あの夜と、同じことを言うところだった。
「やめなさい」
その声は、女神のものではなかった。
兵士の輪を割って、黒いローブの女の子が駆けこんできた。小さな手が触れただけで、水の球は、ただの水に戻ってこぼれ落ちた。
女神は、ぺたんと座りこんだ。
「……よかったぁ」
それから、少しして、口をとがらせた。
その子――ルルは、ケンジに自分の夕食を半分あげた。左の手首にはハンカチを巻いてあげて、右の手首には、自分の赤いリボンまで巻いてあげた。
「ちょっと。近くない?」
誰も聞いていないのをいいことに、女神は泉に向かって文句を言った。
「半分こなら、私だってしたかったんだけど」
本当は、わかっていた。あの子がいなかったら、ケンジは王都に着く前に死んでいた。
文句を言いながら、女神は、あの子に向かって何度も頭を下げた。
王様の前で、ケンジが嘘をついたときも見ていた。
やって、いません。
あの声が震えていた理由なら、女神にもわかった。火刑、という言葉を突きつけられた男が、あの夜の白い光を思い出さないはずがない。
あの光は、女神も見たのだから。
あの子と隊の人たちに火あぶりが言い渡された、その夜。ケンジは、閉ざされた城門の前で、ひとりで両手を組んだ。
誰に祈っているのかは、聞かなくてもわかった。何を祈っているのかも。
ケンジが、初めて、私に祈ってくれた。
それなのに、私は、何ひとつ返せなかった。水面に両手を差し入れても、冠はぴくりとも光らなかった。門の上で、松明がぱちりとはぜただけだった。
大丈夫よ、とは、もう言えなかった。声が届いたとしても、言えなかっただろう。
「……そこは、自分のことを祈りなさいよ」
焼きもちなのか、なんなのか、自分でもわからなかった。ただ、涙が止まらなかった。
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孤児院の菜園の脇で、ケンジは、子供たちに魔法を習っていた。
「おなかの下のほうに、あったかいのがあるでしょ。それを、ふわっとさせて、手のひらから、ぐって」
「ほら!」
女神は、思わず身を乗り出した。
「ほらほら、ふわっとして、ぐっ! 私の説明と、おんなじじゃない! 通じるのよ、こういうので!」
水面の中で、ケンジは力みすぎて、何も起こせなかった。
「……通じてないじゃない」
女神は、がっくりと肩を落とした。
結局、ケンジは、子供たちの手元をじっと見て、真似をして、ずれたところを直して、円盤を浮かせた。指一本ぶんにも満たない高さだった。それでも子供たちは、浮いた、浮いた、と大喜びだった。
あの人は、そういう人だった。泥まみれの石像の汚れひとつ落とすのにも、まず、じっと見て、確かめてから手を動かす人。
磨かれていたのは自分なのだから、誰よりもよく知っていたはずだった。
子供たちと笑いながら、ケンジは、ときどき泣きそうな顔をした。あの村で、子供たちとボールを蹴った日のことを、思い出しているのだろう。あの日は、女神も泉の前で、手を叩いて笑っていた。
地下牢では、ケンジは、手鏡と陽炎で見張りの目をくぐり抜けた。光る板に、承認の文字がひとつずつ並んでいく。赤い表示は、最後まで出なかった。
説明しきったのだ。わかっていることだけで、組み立てて。
女神には、一度もできなかったことだった。
紋様の光る牢の中で、あの子は、説明できたんだ、と小さく息をのんだ。それから、よかったね、と笑った。
よかったね、ケンジ。それは、あの日、子供たちと笑うケンジを見ながら、女神が言った言葉だった。今のケンジには、あの子の声が届く。
その牢の鉄格子を、ケンジは、手のひらが血だらけになるまで引いた。一本も、動かなかった。女神にも、何もできなかった。
そして、処刑の広場。
光る板の文字を、女神は、今度は最初から読んでいた。
対象座標。熱がどこまで届いていいのかを、ケンジはいちばん最初に決めた。あの夜、最初に決めなかったものだった。高さ三百メートルの、小さな球。その外へは、ひとかけらの熱も出さない。
赤い表示が割りこんだとき、女神は泉のふちをつかんだ。あの夜と同じ色だった。
けれど、ケンジは、わからない数字をいじらなかった。わかっているほうを、合わせた。
夕焼けの空に、針の先ほどの光がともったとき、女神は息が止まった。あの夜と同じ、白い光だった。
けれど、光は、空の高みで花になった。
誰ひとり、焼かなかった。
「……きれい」
知らない子供の声が、泉の底から聞こえた。
女神は、両手で顔を覆った。
どかーんとやっちゃいなさい。あの夜、何も知らずにそう叫んだのは、自分だった。
ケンジは、誰も焼かないどかーんを、自分の手で見つけたのだ。
「見てたわよ、ケンジ」
涙で、水面がにじんだ。
「誰よりも、高いところから」
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道の上で、ルルが、前を向いたまま何か言った。ケンジが、それに短く答える。
女神は、ぼんやりとそれを見ていた。
玉座の間で、ケンジは言った。燃やしたものは、戻らない。だから、これからは、燃やさずに済むほうに、この力を使いたい、と。
女神が渡した力を、だ。
女神は、膝をぎゅっと抱えた。
それから、ケンジは、あの村の名前を尋ねた。王様は、知らないと言った。答えたのは、ルルだった。
シェーヌ。
その名前なら、女神は、最初から知っていた。焼け跡で、村の名前すら聞いていなかったと、ケンジが気づいたときも。
名前だけではない。ケンジが知らないままの、ほかの村の人たちの名前も。広場でケンジが見当をつけたマナの値が、本当はどれくらいなのかも。息をするように、わかっていた。
教えてあげられたなら、どれだけよかっただろう。
知っているのに、何ひとつ、届けられない。
全知なんて、ここでは、なんの役にも立たなかった。
女神は、泉の水面に、そっと指先を浸した。ひやりと冷たい。水面の中のケンジには、どうやっても、この指は届かない。
指を引くと、揺れのおさまった水面に、自分の顔が映った。光らない冠をのせた、泣きはらした顔だった。
判断に困ったときは、自分の顔を見て、見つめ直しなさい。シスターは、ケンジにそう言っていた。
この向こうへ、行けたなら。
力は、もう残っていない。
けれど――
女神は、自分の中の、息をするように何もかもがわかってしまう場所に、初めて、まっすぐ目を向けた。
差し出せるものが、まだ、ひとつだけ残っている。
その先を考えかけて、女神は、ぶるっと身ぶるいした。
それを手放したら、自分はどうなるのだろう。わかっていたことが、何ひとつ、わからなくなる。あの村の人たちの名前も、きっと。
ふわっとしてて、ぎゅっとしたら、ぼわっと。そんな説明しかできない女神に、何が残るというのだろう。
「……むり。むりむり、ぜったいむり」
女神は、首をぶんぶんと振った。
水面の中を、ふたつの影が、まっすぐな道の先へ歩いていく。
はい、ばっちり。いってらっしゃーい。あの日、ちゃぶ台の前でそう言って、何も考えずに指を鳴らした。
女神は、泉のふちに両手をついて、小さく息を吸った。
「……いってらっしゃい、ケンジ」
今度は、何もかも知ったうえで、そう言った。
届かない声だった。
ふたつの影が、少しずつ小さくなっていく。
女神は、それを、いつまでも見ていた。
女神。本当に健司のことが好きですね。
ブックマーク、よろしくお願いします。
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