『全能』1章3話 大木の下(3)
『全能』第3話
昼食のあと、健司は村の真ん中の大木の下にいた。
正確には、大木の根元に座り込んだまま、動けなくなっていた。
「ケンジ、早くー!」
「……ちょっと待って。今、太ももと相談してるから」
ニナとミレイユのほかに、村の子供たちが五、六人、健司を取り囲んでいる。びゅーんって走るすごいひとが来た、とニナが村じゅうに言いふらしたせいだ。
全身が痛い。昼までは、まだ我慢できた。だが、座って昼飯を食べているうちに、筋肉は着実に固まっていたらしい。立ち上がろうとするだけで、太ももの裏がびきびきと音を立てる。
「ねえねえ、あれ取って!」
ニナが、大木の上を指さした。
見上げると、高い枝の先に、例の布のボールがまだ引っかかっていた。ニナが落ちたときに折れたのは手前の枝で、ボールはその先に残ったままだったのだ。
子供たちの期待に満ちた目が、いっせいに健司に注がれる。
「……わかったよ」
健司は、木の幹に手をかけた。
重心の位置。手足をかける順番。体重を枝に預ける角度。頭の中で組み立てた動きを、そのまま体に流し込む。脳のリミッターを外すと、さっきと同じように、筋肉が自分のものとは思えない力で応えた。
するすると幹を登っていく。下から、子供たちの歓声が上がった。
「すげえ!」
「おさるさんみたい!」
最後の枝に腕を伸ばし、ボールをつかむ。
「取ったぞー」
下に向かって、ボールを放る。子供たちが、わっと群がった。
問題は、降りるときだった。
枝から足を下ろした瞬間、太ももが、ぶちん、と嫌な悲鳴を上げた。
「いっ……!」
そこからは、登るときの身軽さが嘘のようだった。健司は幹にしがみつき、一本ずつ枝を確かめながら、亀のような速さで地面まで降りた。最後の一メートルで手が滑り、尻から落ちた。
「……あだっ」
子供たちが、どっと笑った。
「ケンジ、降りるのへたくそー!」
「うるさい。研究者は、上るのは得意なんだよ。降りるのが苦手なだけで」
自分で言って、少しだけ胸が痛んだ。ポスドクから一度も上に上がれなかった男の言うことではない。
それでも、子供たちの笑い声は、不思議と心地よかった。
そのあとは、ボール蹴りに付き合わされた。健司が足の振り方と当てる角度を組み立てて蹴ると、布のボールは村の端まで飛んでいき、子供たちは大喜びでそれを追いかけた。
「どうやったら、そんなに飛ぶの!?」
戻ってきたミレイユが、息を切らして聞いた。
健司は、地面に小枝で線を引いた。真上に蹴れば、落ちてくるだけ。真横に蹴れば、すぐ地面に着く。そのちょうど真ん中くらいの角度が、いちばん遠くまで飛ぶ。
ミレイユは、しばらく線をにらんでいた。それから、言われたとおりの角度でボールを蹴った。ボールは、さっきの倍も飛んだ。
「……ほんとだ」
ミレイユが、目をまるくして健司を見た。ほかの子供たちが、我先にと小枝の線のまわりに集まってくる。
健司は、その輪の真ん中で、少しだけ言葉に詰まった。
説明して、聞いてもらえた。それだけのことが、こんなにうれしいとは思わなかった。
蹴るたびに太ももが悲鳴を上げたが、健司は日が傾くまで、何度も何度もボールを蹴った。
----------------
夕方、村の入口のほうが騒がしくなった。
「おう、帰ったぞ」
柵の門をくぐってきたのは、二人の大男だった。
一人は、熊のような体つきの、白髪まじりのひげ面の男。もう一人はそれより少し若く、日焼けした腕に古い傷あとがいくつも走っている。二人とも使い込まれた槍を肩にかつぎ、腰には仕留めたらしい野うさぎを何羽もぶら下げていた。
「ベルナールのおじちゃん! ティボーのおじちゃん!」
子供たちが、いっせいに駆け寄っていく。
「お、なんだなんだ。今日はやけに元気がいいな」
ひげ面の男、ベルナールが、ニナをひょいと肩に担ぎ上げた。
「あのね、このひとがね、びゅーんって走って、ニナを助けてくれたの! 木にも、するするって登ったの!」
「ほう」
ベルナールが、健司を上から下まで眺めた。スウェット、片方だけのサンダル、すりむけた膝。
「村長の娘を拾ったってのは、あんたか。ずいぶん妙な格好だな」
「……遠くから来たもので」
「そうかい」
ベルナールは、それ以上は聞かなかった。代わりに、ごつい手で健司の背中をばんと叩いた。全身の筋肉に響いて、健司は声にならない悲鳴を上げた。
「ニナを助けてくれて、ありがとよ。俺たちがいりゃあ、あんな高い木には登らせなかったんだがな」
あとからマルタンが教えてくれたところによると、二人はもともと王国の兵士だったのだという。魔物との戦いで何度も手柄を立て、年を取って退いてから、この村に住みついた。今では村の守りを一手に引き受けている。昼にマルタンが言っていた腕のいい魔法使いとは、この二人のことだった。
「熊みたいなのがベルナール、傷だらけのほうがティボーだ。二人とも、火の魔法なら王都の兵隊にも負けねえ」
マルタンは、どこか誇らしげにそう言った。
----------------
日が沈むと、荒野は急に冷え込んだ。
村長の家で夕飯までごちそうになり、そろそろ失礼しようかと健司が腰を上げたときだった。
遠くで、長く尾を引く遠吠えが聞こえた。
マルタンの顔色が変わった。
「……来たか」
ほとんど同時に、外からベルナールの太い声が響いた。
「門のほうだ! ガキどもは家から出るな!」
健司は、思わず外へ飛び出していた。
柵の門の向こう、月明かりの荒野に、二つの影がうずくまっていた。
狼だ。だが、健司の知っている狼より、ひと回りもふた回りも大きい。背中の毛は針のように逆立ち、裂けた口からは黄ばんだ牙がのぞいている。そして目が、熾火のように赤く光っていた。
「魔物……」
健司の喉が、ひとりでに鳴った。
門の前に、ベルナールとティボーが並んで立つ。二人とも槍を構えていたが、いきなり突きかかろうとはしなかった。
ティボーが、槍の穂先に手のひらをかざす。
ぼう、と音を立てて、穂先に炎がともった。
ベルナールは槍を地面に突き立て、両手を前に突き出した。その手のひらの間に、こぶし大の火の玉がふくらんでいく。
一匹目の魔物が、低くうなりながら飛びかかってきた。
「おらぁっ!」
ベルナールが、火の玉を投げつける。
火の玉は魔物の鼻先で弾け、火の粉がぱっと散った。
魔物が、甲高い悲鳴を上げて跳びのいた。
大きな傷を負わせたわけではない。毛先が少し焦げた程度だ。それなのに魔物は耳を伏せ、尻尾を巻き、目に見えて怯えている。
二匹目が、横から回り込もうとした。ティボーが、燃える槍を大きく振る。炎の軌跡が闇を裂いた瞬間、二匹目もまた、弾かれたように後ろへ下がった。
「行け! 二度と来るんじゃねえぞ!」
ベルナールが、もう一つ火の玉を足元に叩きつける。地面で炎が弾け、二匹の魔物は身をひるがえして、荒野の闇へと逃げていった。
戦いは、ほんの数分で終わった。
健司は、門の脇で立ち尽くしていた。
槍の刃そのものには、魔物はほとんど反応しなかった。怯えたのは、炎が見えた瞬間だけだ。焦げたのは毛先だけなのに、まるで命の危険でも感じたように逃げていった。
あいつらは、火を嫌う。小さな火でも、十分にひるむ。
研究者の頭が、勝手に観察結果を整理していく。
「怖かったか、兄ちゃん」
槍の火を消したティボーが、にやりと笑った。
「この辺の魔物は、火をひどく嫌うんだ。焚き火ひとつでも、まず寄ってこねえ。だから夜は火を絶やさねえのが、荒野の決まりさ」
----------------
「今夜は泊まっていけ。外は危ない」
家に戻ると、マルタンが、有無を言わせない口調で言った。
「そうよ。狭いけど、居間に毛布を敷けば寝られるから」
アネットもうなずく。ニナとミレイユは、健司の袖を両側からつかんで離さない。
健司は、ありがたいと思った。心の底から。
だからこそ、首を横に振った。
「いえ。もう十分すぎるくらい、お世話になりました。お昼も夕飯もいただいて、これ以上は甘えられません」
「何言ってんだ。娘の恩人だぞ」
「それに、僕みたいな素性の知れない男が泊まったら、村の人たちも落ち着かないでしょうから」
研究室で、誰かに迷惑をかけるのが何より怖かった。頼みごとひとつするのにも、何日も悩んだ。三十四年かけて染みついた性分は、異世界に来たくらいでは抜けてくれない。
マルタンはしばらく黙っていたが、やがて大きくため息をついた。
「……頑固なやつだな。わかった。その代わり、これだけは持っていけ」
アネットが、包みを持ってきた。干し肉と黒パンと、水の入った革袋。マルタンは、薪をひと抱え、健司の腕に押しつけた。
「火を絶やすなよ。ティボーの言ったとおりだ」
ベルナールが、村の外れまで健司を送ってくれた。
柵から少し離れた、荒野の小高い岩陰。そこからなら、村の灯りがよく見える。ベルナールは手早く薪を組むと、指先にぽっと火をともし、あっという間に焚き火をこしらえてくれた。
「何かあったら、でかい声で叫べ。すぐ行ってやる」
「ありがとうございます。本当に、何から何まで」
ベルナールは、ひらひらと手を振って村へ戻っていった。
健司は、焚き火の前に腰を下ろした。
ぱちぱちと薪がはぜる。全身の筋肉が痛む。それでも腹は満ちていて、胸の奥は温かかった。
荒野の向こうに、村の小さな灯りがいくつもまたたいている。ニナとミレイユは、もう眠っただろうか。
いつか、ちゃんと恩を返そう。
健司はそう心に決めて、薪をひとつくべた。
そのころ。
荒野の闇の、ずっと奥で。
赤い光が、ひとつ、またひとつと、数を増やしていた。
ニナを助けて魔物の影が見えてきました。
次回どうなるのか乞うご期待。
ブックマーク、よろしくお願いします。
2章以降は19時30分ごろ毎日更新予定です。




