『全能』1章2話 赤い文字(2)
『全能』第2話
草原は、歩けば歩くほど色を失っていった。
一時間も歩くと、足元の緑はまばらになり、赤茶けた地面がむき出しになる。背の低い灌木がところどころにしがみつくように生えているだけの、乾いた荒野だった。
「……せめて、靴くらいは履かせてほしかった」
健司は自分の足元を見下ろした。
部屋着のスウェットに、女神が履かせていった百円ショップのサンダル。石像を磨いていたときの格好のまま、異世界に放り出されたのだ。財布もスマホもない。ポケットに入っていたのは、使いかけの綿棒が一本だけだった。
太陽が高い。喉が渇く。
それでも、健司は不思議と焦っていなかった。
『全能』。ありとあらゆることが、何でもできる力。
あの調子のいい女神の言うことが本当なら、水も食べ物も、どうにでもなるはずだ。
「……いや、待て」
健司は足を止めた。
研究者の性分が頭をもたげる。正体のわからない装置を、いきなり本番で使う馬鹿はいない。まずは、小さな実験からだ。
ちょうどいい。喉はからからだった。
健司は両手を合わせて、お椀の形にした。
(ここに、水を)
念じた、その瞬間だった。
視界いっぱいに、半透明のウィンドウがいくつも開いた。
【事象の定義を開始します:大気中水分の凝結】
【以下の項目について説明を求めます】
【残り時間:5:00】
【定義の開始後は、中断できません】
「……は?」
カウントダウンが、無慈悲に減っていく。4:58。4:57。
いちばん下の一文が、目に引っかかった。一度始めたら、途中で降りる道はない、ということだ。物騒な仕様だった。
「説明……? 何を説明しろって」
ウィンドウには、項目がずらりと並んでいた。対象範囲。気温。湿度。水蒸気の集め方。凝結によって生じる熱の行き先。
健司は、ごくりと唾を飲み込んだ。
わかる。全部、わかる。
健司は、乾ききった空気を吸い込み、頭の中で数字を並べた。
気温はおそらく三十度前後。肌のひりつき方からして、湿度は二割もない。それなら空気一立方メートルあたりの水蒸気は、せいぜい六グラム。コップ一杯、二百グラムの水を得るには、三十立方メートル以上の空気が要る。
「対象範囲は、俺を中心に半径三メートルの半球。その中の空気から、水蒸気だけを手のひらの上に集める。集めた水蒸気を冷やして凝結させる。凝結で出る熱は、範囲の外の大気に逃がす――」
口に出すたびに、ウィンドウの項目が一つずつ緑色に変わっていく。
【承認】【承認】【承認】
「……なんだこれ。査読か?」
自分で言って、乾いた笑いが漏れた。ここには査読がない、なんて思った自分が馬鹿みたいだ。本当の査読者は真理そのもの、という恩師の口ぐせが、妙な形で当たってしまった。
だが、最後の一つだけは、赤い文字のまま残った。
【未定義変数:大気中マナ濃度に対する凝結変換率】
「マナ……?」
聞いたことのない単語――いや、聞いたことはある。
学生時代、徹夜で遊んだRPG。魔法を使うたびに減っていく、青いゲージ。MP、マジックポイント。作品によっては、マナとも呼ばれていた。
「……まさか、そういうことか」
水蒸気を一か所に集めるのも、熱を外へ逃がすのも、放っておいて自然に起こることではない。どこかから、エネルギーを持ってこなければならない。その出どころを聞かれているのだとしたら。
あの女神は、七属性がどうとか言っていた。魔法のある世界なら、空気中にその燃料のようなものが漂っていても、不思議はない。
ウィンドウの下には、数値の入力欄があった。単位すら書いていない。
残り二分。考えている時間はない。
「ゲームなら、最初はとりあえず控えめに振るよな」
健司は、小さな数字を入れた。
【定義値では目標量に達しません。再定義してください】
「足りないか。じゃあ、倍」
【定義値では目標量を超過します。再定義してください】
「多すぎる……なら、その間。いや、もう少しだけ下げて」
まるで、ゲームのバランス調整だった。回復量は、多すぎても少なすぎてもいけない。プレイヤーとして何百時間も触れてきた、あの感覚。
残り四十秒。
【全項目が承認されました。事象を実行します】
ふっと、まわりの空気が手のひらへ吸い寄せられるように動いた。手のひらが、ひやりと冷たくなる。
指の間に、細かな水滴がにじみ出る。それが寄り集まり、ふくらみ、やがて透きとおった水が、両手のお椀の中にとぷんと溜まった。
コップ一杯ぶん。ちょうど、健司が思い描いたとおりの量だった。
おそるおそる口をつける。
冷たい。うまい。生まれてこのかた飲んだどんな水より、うまかった。
「……できた」
一気に飲み干して、健司は空を仰いだ。
説明すれば、通る。きちんと理屈を立てれば、世界のほうが応えてくれる。
研究室では、どれだけ丁寧に説明しても、誰も耳を貸してくれなかったのに。
ふと、研究者の自分が、頭の隅で手を挙げた。
あの数字は、何だったのか。単位もわからない。何に比例するのかもわからない。研究室なら、意味のわからない値で結果が出たとき、それを成功とは書かない。「まだわかっていない」と書く。
だが、喉は潤い、水はうまかった。
マナとかいう謎のパラメータも、ゲームの感覚で調整すれば、なんとかなる。
三十四年間、「わからない」と「できない」に囲まれて生きてきた。その自分が今、手のひらひとつで世界を動かしている。
「なんでも、できるのか……」
乾いた荒野のど真ん中で、健司は、子供みたいに笑った。
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村を見つけたのは、それから二時間ほど歩いたころだった。
荒野の先に、細い煙が何本か立ちのぼっている。近づくと、低い木の柵に囲まれた、小さな集落が見えてきた。
湧き水を囲むように、二十軒ほどの家が寄り添っている。どれも木造で、屋根は乾いた草で葺かれていた。柵の外には麦らしき畑が広がり、村の真ん中には、この荒野でただ一本、大きな木が枝を広げている。
人が、暮らしている。
健司が胸をなでおろしたとき、その大木の下から、甲高い声が聞こえてきた。
「ニナ、降りてってば! 危ないって言ってるでしょ!」
「だってー! ボールがひっかかっちゃったんだもん!」
見上げると、大木の高い枝に、小さな女の子がしがみついていた。六つか七つくらいだろうか。その先の枝には、布を丸めたボールが引っかかっている。木の下では、十歳くらいの少女が、両手を口に当てて叫んでいた。
女の子が、ボールに手を伸ばす。小さな体が、細い枝の先へとずれていく。
枝が、大きくしなった。
健司の目が、勝手にその枝を測っていた。枝は、片側だけが幹につながっている。先に重さがかかれば、いちばん無理がかかるのは、幹に近い根元だ。その根元の皮が、細く白く裂けはじめていた。森の調査で何度も見た、折れる寸前の枝の形だった。
折れる。
高さは四メートル近い。落ちはじめたら、地面まで一秒もかからない。柵の入口から大木までは、二十メートル以上ある。折れてから走ったのでは、間に合わない。
(走れ――!)
念じたのは、それだけだった。
ウィンドウは開かなかった。代わりに、全身の筋肉が、いっせいに悲鳴を上げた。
火事場の馬鹿力。脳が普段かけているリミッターを外せば、人間の筋肉は本来の限界まで力を出せる。そんな話を、どこかで読んだことがある。
地面を蹴る。サンダルが片方、どこかへ吹っ飛ぶ。太ももの筋肉が、自分のものとは思えない力で縮み、体が前へ前へと放り出される。
みしり、と嫌な音がした。
枝が折れる。
「ニナっ!」
小さな体が、真っ逆さまに落ちていく。
人間が出せる限界の速さ。ただし、三十四歳の運動不足の研究者の体で。
二十メートルを、三秒足らずで駆け抜ける。
滑り込むように差し出した両腕の中に――
どさっ、と小さな体が落ちてきた。
衝撃が、腕から肩へ、背骨へと突き抜ける。勢いを殺しきれず、健司はニナを抱えたまま、地面をごろごろと転がった。
「……っ、てぇ……!」
息が止まる。肩が外れたかと思った。太ももは攣りかけて、ぴくぴくと痙攣している。膝はすりむけて血がにじみ、裸足になった右足の裏には、小石がいくつも食い込んでいた。
腕の中で、ニナがもぞもぞと顔を上げる。
「…………びゅーんって、来た」
そして、ぱあっと顔を輝かせた。
「びゅーんって来た! ねえ、ミレイユ、見た!? このひと、すっごく速かった!」
「み、見たけど……ニナ、怪我は!?」
姉らしき少女が駆け寄ってきて、妹の体をあちこち確かめる。ニナはどこも痛くないらしく、きゃっきゃと笑っていた。
痛いのは、こっちだ。
健司は地面に大の字になったまま、荒い息をついた。全身の関節がきしむ。明日は確実に、とんでもない筋肉痛だ。いや、明日まで待ってくれる気がしない。
騒ぎを聞きつけたのか、家々から村人たちが顔を出した。その中から、日に焼けたがっしりした男が、血相を変えて駆けてくる。
「ニナ! ミレイユ! 何があった!」
「お父さん! このひとがね、びゅーんって来て、ニナのことぎゅってしてくれたの!」
男は娘たちを抱き寄せ、それから、地面に転がったままのスウェット姿の怪しい男を、じっと見つめた。
「……あんた、今のは魔法か? とんでもない脚だったが」
「え? あ、いや、その……まあ、そんなようなもの、です」
正確には、自分の体を限界まで動かしただけだ。だから、あのウィンドウも出なかったのだろう。健司は、痛みでぼんやりする頭で、そう考えた。
男は、しばらく健司の顔を見ていた。それから、深々と頭を下げた。
「娘を助けてくれて、ありがとう。俺はこの村の村長をしてる、マルタンだ」
マルタンは、ごつごつした手を差し出した。
「立てるか?」
「……たぶん、無理です」
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「遠いところから来た、ってのはわかったよ。細かいことはいいから、とにかく食ってくれ」
村長の家は、村でいちばん大きな木造の家だった。といっても、居間と台所がひと続きになった、質素な造りだ。
テーブルには、豆と干し肉のスープと、固い黒パンが並んでいる。
「おかわり、たくさんあるからね!」
村長の奥さん、アネットが、明るく笑いながら鍋をかき回す。それから、かまどの前にしゃがみこんで、ひとさし指を薪に向けた。
指先に、ぽっと小さな炎がともる。
炎は薪に燃え移り、弱まっていたかまどの火が、ふたたび勢いを取り戻した。
健司は、思わずスプーンを止めた。
「……今の、魔法ですか」
「え? ああ、このくらいならね。火を起こすくらいは、村のみんなちょっとずつできるのよ」
アネットは、なんでもないことのように言った。
この世界には、魔法が当たり前にあるらしい。
荒野で見た、あのウィンドウの文字が頭をよぎった。大気中マナ濃度。ゲームでいうMPのようなものがこの世界の空気には満ちていて、村の人たちはそれを少しずつ使って火を起こしている。そう考えれば、つじつまは合う。
マナを、どうやって測っているのか。どのくらいの火に、どのくらい使うのか。聞いてみたい言葉が、喉もとまで上がってきた。
だが、口は開かなかった。
分野をまたぐ研究をしていると、よその分野の初歩を尋ねるたびに、そんなことも知らないのかという顔をされた。いつからか、人に聞かずに、自分で調べる癖がついていた。
わざわざ聞くまでもない。理屈は、もうわかっている。
それなら、自分の力もさほど目立たずに済むかもしれない。健司は少しだけほっとして、スープをすすった。塩気がきいていて、うまかった。
「わしらの国はな、テルトロワっていうんじゃ」
話し好きらしい村長の父親、フェルナンが、長いあごひげをなでながら教えてくれた。
ここはテルトロワ王国の東、荒野の外れ。王都はずっと西にあって、馬車でも何日もかかる。テルトロワは、昔から魔法の国として知られているのだという。
「先代の王様の頃はな、まわりの七つの国が、どこもひどい内乱でのう。そこで王様が、この国の七人の賢者さまを一人ずつ送り込んで、向こうの王様と一緒に治めさせたんじゃ。おかげで今は、どこも平和になった」
「七人の、賢者」
「火、水、雷、風、土、光、闇。それぞれの魔法を極めきったお方たちじゃよ。もう何百年も生きておられる」
フェルナンは、少しだけ寂しそうに笑った。
「その代わり、この国には今、賢者さまがひとりもおらん。最近は『七色の賢者』なんて呼ばれとる娘っこがおるらしいが、ありゃあ――」
「親父、子供の前だ」
マルタンが、ぼそりと遮った。
「おお、すまんすまん」
フェルナンが肩をすくめる。そのやりとりの意味は、健司にはわからなかった。
「あとは、荒野の魔物には気をつけな」
マルタンが、黒パンをちぎりながら言った。
「最近、数が増えてる。ときどき王都から兵隊が見回りに来てくれるが、毎日ってわけじゃない。まあ、この村には腕のいい魔法使いもいるし、めったなことはないけどな」
「ねえねえ、ケンジ!」
食事が終わるころ、ニナが椅子から身を乗り出してきた。首から下げた小さなペンダントが、窓からの光を受けて、きらりと虹色に光る。
「それ、きれいだね」
「でしょ! お守りなの! ミレイユとお父さんと、おそろい!」
見れば、ミレイユとマルタンの胸元にも、同じペンダントが下がっていた。銀色の地金に、うっすらと七色の光沢が走っている。
「アルポテチウムって金属でな」
マルタンが、少し照れくさそうに言った。
「魔法でしか形を変えられない、えらく硬い金属だ。こいつらが生まれたとき、無理して王都の職人に作ってもらった」
「ぜーったい燃えないし、溶けないんだって!」
ニナが、得意げに胸を張る。
「融点は、どのくらいなんです?」
思わず研究者の口ぐせが出た健司に、マルタンは首をかしげた。
「ゆうてん? ああ、溶ける熱さか。たしか、二千四百度とか言ってたかな」
二千四百度。鉄が溶けるのが千五百度あまりだから、それよりはるかに高い。そんなもの、普通の炉ではとても加工できない。
「だから、魔法でしか形を変えられないのか……」
「そういうこった。ま、うちのちょっとした財産ってやつだ」
マルタンは、娘たちの頭をくしゃりとなでた。ニナがくすぐったそうに笑い、ミレイユが、髪がぐちゃぐちゃになると口をとがらせる。アネットが鍋を洗いながら笑い、フェルナンが、うまそうに茶をすすっている。
健司は、その光景を、ぼんやりと眺めていた。
こんなふうに誰かと昼飯を食べたのは、いつ以来だろう。研究室では、いつもモニターの前で、ひとりでコンビニのおにぎりをかじっていた。
「ねえケンジ、ご飯食べたら遊んで! さっきの、びゅーんって走るやつ、もう一回見たい!」
「こら、ニナ。お客さんを困らせないの」
健司は、まだじんじんと痛む太ももをさすった。正直に言えば、今日はもう一歩も走りたくない。
それでも、ニナのきらきらした目を見ていると、断る気にはなれなかった。
「……走るのは勘弁してほしいけど、ほかの遊びなら、いいよ」
健司は、自然と笑っていた。
ニナが歓声を上げる。ミレイユも、口では文句を言いながら、そわそわと椅子から立ち上がった。
乾いた荒野の果てで見つけた、小さな村。
ここでなら、やり直せるかもしれない。
健司は、本気でそう思っていた。
水を作るところから、すでに「説明」が始まっています。
村にたどり着いて、少しだけほっとしたところで終わりです。
ブックマークしてもらえると、続きを書きやすくなります。
2章以降は19時30分ごろ毎日更新予定です。




