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『全能』  作者: 朝霧なぎ
1章 リジェクト
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『全能』1章1話 本当の査読者(1)

『全能』第1話

 

 午前二時十七分。


 栃木県のとある国立大学、理学部棟四階の研究室で、谷村健司はモニターに浮かぶ一文を、もう三度も読み返していた。


『本研究は学際的な意義を有するものの、既存のいずれの分野においても貢献は限定的であると判断せざるを得ない』


 リジェクト。今年に入って四本目だ。


「……限定的、ね」


 呟いた声は、古い空調の唸りにかき消された。


 健司の研究は、物理化学と生態学と情報工学をまたいでいる。熱力学のモデルで森の物質循環を記述し、それを機械学習で予測する。三つの分野をつないで初めて見える景色がある、と健司は信じている。


 だが査読者は三人とも、それぞれの分野の人間だった。物理の査読者は生態学の部分を「専門外につき判断できない」と書き、生態学の査読者は数式を読み飛ばし、情報工学の査読者は「新規性に乏しい」の一行で済ませた。


 どの分野から見ても、健司の論文は「よその子」なのだ。


 論文の本当の査読者は、人間じゃない。真理そのものだ。博士課程のころ、恩師はよくそう言っていた。


 今のところ、真理から返事が届いたためしはない。届くのは、人間の査読者からのリジェクトばかりだ。


 博士号を取って六年。三十四歳。肩書きはいまだにポスドク。契約は来年の三月で切れる。


「谷村くんは優秀だからねえ」


 教授はそう目を細めながら、自分の研究費の報告書を健司に書かせ、学生の実験指導を任せ、学会のポスター作りまで押しつける。そして今年の助教ポストは、教授の出身研究室の後輩が、論文二本で持っていった。


「頭がいいのと、評価されるのは、別の話だよ」


 送別会で、酔った先輩がそう言っていた。その先輩はいま、地方の予備校で物理を教えている。


 健司は、冷めきったコンビニのコーヒーをすすった。苦い。


 ブラウザの検索履歴には「35歳 研究職 転職」の文字が残っている。壁際の棚には、自分の論文の別刷りが、誰にも配られないまま積み上がっていた。


 優秀なのに、使い捨て。替えはいくらでもいる。いや、替えがいるどころか、最初から必要とされていないのかもしれない。


「……帰るか」


 ノートパソコンを閉じる。明日も九時から学生のゼミだ。


 研究室の電気を消すと、窓の外には北関東の、どこまでも平らで真っ暗な夜が広がっていた。


 ----------------


 アパートまでは、田んぼの中の一本道を自転車で十五分。


 街灯は百メートルおきにしかない。その三本目の下、ゴミ集積所の脇の側溝に、それは半分はまり込むようにして転がっていた。


 高さ三十センチほどの、白い石像だった。


 長い髪の女性が、両腕を広げて微笑んでいる。泥と苔にまみれ、片方の肩には誰かが捨てたらしい空き缶が引っかかっていた。粗大ゴミの日に出されて、回収されずに残ったのだろう。


 健司は自転車を止め、しばらくそれを見下ろした。


 笑っている。こんなところに捨てられて、泥まみれで、空き缶まで引っかけられて。それでも、慈愛に満ちた顔で笑っている。


 無性に、腹が立った。


「……何がおかしいんだよ」


 右足が上がる。蹴り飛ばせば、そのまま田んぼに落ちて、泥に沈んで、誰にも見つからずに終わる。自分の論文みたいに。


 だが、足は宙で止まった。


 蹴ったところで、何も変わらない。リジェクトは取り消されないし、契約も延びない。それどころか、石像相手に八つ当たりした三十四歳の男、という惨めさが一つ増えるだけだ。


 健司は足を下ろし、深いため息をついた。


「神様、ね」


 もし本当にいるなら、縋ってみたいものだ。科学者が言うことではないとわかっている。それでも今夜くらいは、何かに縋りたかった。


 健司は空き缶を外してゴミ集積所に放り込み、石像を抱え上げて、自転車の前かごに押し込んだ。


 ----------------


 問題は、そこからだった。


 六畳一間のアパートで、新聞紙の上に石像を置いた瞬間、健司の中の研究者が目を覚ましてしまったのである。


「表面は大理石……いや、もっと粒子が細かいな。苔は酸で落とすと石を傷めるから、まずは精製水と中性洗剤。こびりついた汚れは重曹のペーストで、溝は綿棒で……」


 気づけば午前四時だった。


 マイクロファイバーの布で最後の仕上げをすると、石像は見違えるように白く輝いていた。そして泥の下から、思いがけないものが出てきた。


 女神の髪を飾る冠に、小さな石が七つ、埋め込まれていたのだ。赤、青、黄、緑、茶、白、黒。どれも本物の宝石のように、深く澄んだ色をしていた。


「……きれいだな」


 それから、石像を磨くのが健司の日課になった。


 研究室から帰ると、まずは石像の前に座る。エタノールで軽く拭き、冠の七つの石を一つずつ綿棒で磨く。そのあいだ、誰にも言えない愚痴を、石像にだけぽつぽつとこぼす。


「今日、教授にまた報告書を押しつけられた」


「学生が実験でフラスコ割った。俺の予算で買い直すんだってさ」


「……来年、どうしようかな」


 石像は何も答えない。ただ、いつも変わらず微笑んでいる。


 それが、今の健司にとっては、少しだけ救いだった。


 ----------------


 石像を拾ってから、ちょうど三週間目の夜だった。


 いつものように冠の七つ目、黒い石を綿棒で磨き終えたとき。


 石像の目が、ぱちりと開いた。


「…………は?」


 健司は綿棒を持ったまま固まった。石の目が開くはずがない。疲労による幻覚か。ついに来たか。睡眠不足が四十時間を超えると、人間は――


「……こんなに丁寧に磨いてくれたの、あなたが初めて」


 声がした。鈴を転がすような、やけに甘ったるい声が。


 次の瞬間、石像の全身から七色の光があふれ出し、六畳間いっぱいに広がった。光が収まったとき、ちゃぶ台の上に立っていたのは、もう三十センチの石像ではなかった。


 等身大の、ものすごい美少女だった。


 虹色に揺らめく長い髪。七つの宝石をあしらった冠。ひらひらした白い衣。そして、なぜか異様に得意げな顔。


「ふっふーん! 驚いた? 驚いたでしょ! 私こそ、アルイシュターレの七属性をあまねく統べる、七彩の女神イリスティーナ様よ! さあ、ひれ伏していいわよ!」


「ちゃぶ台から降りてください」


「なんで!?」


 女神は涙目になりながら、しぶしぶ畳に降りた。それから健司の顔を、まじまじとのぞき込む。


「ねえ聞いて。私ね、ずーっと信仰が減っちゃって、力もなくなって、気づいたらこっちの世界で石ころみたいに転がってたの。誰も拾ってくれないし、蹴られるし、空き缶は引っかけられるし。もう本気で泣きそうだったんだから」


「はあ」


「それにね、あなた、最初の夜に一度、私のこと蹴ろうとしたでしょ」


 健司の背中が、ひやりとした。あのとき、石像の目は閉じていたはずだ。


「ひどくない!? 女神を蹴ろうとするなんて!」


 女神は頬をぷうっとふくらませた。それから、ころりと機嫌を直した。


「でも、やめたよね。足を上げて、止めて、下ろした。……あれで、ちょっと見直しちゃった」


「それから毎日毎日、磨いてくれて、話しかけてくれて。それでやっと力が戻って、今日、初めて目を開けられたの。そしたら目の前にあなたの顔があって――」


 女神の頬が、ぽっと赤く染まった。


「好き」


「……はい?」


「一目惚れしちゃった! だってあなた、すっごく優しい目をしてるんだもん!」


 健司が反応する間もなく、女神は勝手に話を進めていく。


「でもあなた、毎日すっごくつらそうだったよね。報われないとか、使い捨てだとか。かわいそう! だからね、決めたの!」


 女神は両手をぱっと広げた。


「現実がつらいなら、私の世界で何でもできる力をあげるね! 『全能』っていうの! 何でもできるんだから、もう誰にも馬鹿にされないよ!」


「待て、待ってください。何でもできるって、その力の原理は? エネルギー源はどこから――」


「細かいことはいいの! 私だっていつも、なんとなーくで使えてるし! 大丈夫大丈夫!」


 嫌な予感がした。研究者として、ものすごく嫌な予感がした。


 仕組みを理解せずに「なんとなく」で使える道具ほど、危ないものはない。


「いや、そういう問題じゃ――」


「あっ、裸足じゃかわいそう!」


 女神は玄関へぱたぱたと走っていき、百円ショップのサンダルをつかんで戻ってくると、健司の足にすぽっと履かせた。


「はい、ばっちり! いってらっしゃーい!」


 女神が指を鳴らす。


 冠の七つの石が一斉に輝き、部屋中が真っ白な光に飲み込まれた。足元の畳が、ぐにゃりと歪む。重力の向きがわからなくなる。体が、どこかへ引きずり込まれていく。


「待て、質量保存の法則は――」


 健司のツッコミは、最後まで言葉にならなかった。


 ----------------


 最初に感じたのは、風だった。


 冷房の乾いた風ではない。土と草の匂いをたっぷり含んだ、生きた風だ。


 健司はゆっくりと目を開けた。


 青い。


 視界いっぱいに、信じられないほど深い青空が広がっていた。雲が、北関東の空よりずっと低いところを流れている。背中には、ちくちくとした草の感触。どうやら、草原のど真ん中で仰向けに倒れているらしい。


 上体を起こす。


 地平線の向こうまで続く草原。遠くには雪をかぶった山脈。その手前に、ぽつんと小さな森が見える。そして頭上を、四枚の翼を持つ鳥が、ゆうゆうと横切っていった。


「……四枚?」


 鳥類の翼は二枚だ。脊椎動物の前肢が変化したものなのだから、四枚になるはずがない。


 そのとき、頭の中に、直接声が響いた。


 感情のない、機械的な声だった。


【異世界アルイシュターレへの転移が完了しました】


【付与者:七彩の女神イリスティーナ】


【『全能』を付与しました】


 健司は、しばらく何も言えなかった。


 アパートも、研究室も、積み上がった別刷りも、来年三月で切れる契約も、もうどこにもない。あるのは、この青空と、草原と、頭の中に残った一行のログだけだ。


『全能』。


 ありとあらゆることが、何でもできる力。


「……とりあえず」


 健司は、異世界の空を見上げて、ぽつりと呟いた。


「ここには査読がないんだよな」


 そのささやかな希望が、どれほど甘い見通しだったか。


 健司が思い知るのは、もう少しだけ先の話である。


ここまでお読みいただきありがとうございます!

ポスドクの健司が押し付けられた『全能』という名の劇薬。

明日の第2話からは、さっそくこの力の「取扱説明書」と格闘する実験が始まります。

(※もし少しでも気になったら、ブックマークしていただけると更新を追いやすくなります!)

2章以降は19時30分ごろ毎日更新予定です。


1章の文章にインデントを入れていなかったので修正しております。

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