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『全能』  作者: 朝霧なぎ
1章 リジェクト
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『全能』1章21話 半分のパン(21)

『全能』第21話

 

 聖王は、壇の端まで歩み出た。


 広場じゅうの目が、その一点に吸い寄せられた。


 聖王は、しばらく空を見上げていた。光の花が溶けていった、夕焼けのあたりを。


 それから、緋色の衣の袖を、ゆっくりと持ち上げた。袖口に、白いものが光っていた。


 霜だった。


「ウィギリウス」


 低い声だった。叫んだわけでもないのに、広場の隅々にまで届いた。


 若い審問官が、一歩前に出た。


「今のに、魔力の流れはあったか」


 ウィギリウスは、すぐには答えなかった。灰色の目が、健司を見て、それから空を見た。


「……ございません、陛下」


 声が、わずかにかすれていた。


「砂の一粒ほども。わたくしには、何ひとつ感じられませんでした」


 広場が、ざわりと揺れた。


「火の魔法で、広場が凍えたためしはない」


 聖王は、袖口の霜を指先で払った。


「砂は、嘘をつかぬ。余は、そう申した。この男に、村を焼く魔力はない」


 聖王の目が、健司の上で止まった。


「だが、村は焼けた。そして今、余の頭の上で、見たこともない火が咲いた」


 しばらく、聖王は何も言わなかった。


 やがて、短く告げた。


「処刑は、中止とする」


 広場が、どよめいた。


「なんだって」


「人殺しを、逃がすのか!」


「いや、待て。今のは、魔法じゃないって……」


「じゃあ、なんなんだよ、あれは」


 怒鳴り声と、ささやき声と、まだ白い息とが、広場の上で入りまじった。


「……おい、でかい声を出すな」


 誰かが、押し殺した声で言った。


「あいつが今のを、もう一回、この広場の上でやったらどうする」


 怒鳴り声が、ひとつ、またひとつと、しぼんでいった。何千という目が、霜の上に膝をついた男を、遠巻きに見ていた。


 聖王が、片手を上げた。それだけで、残っていたざわめきも、すっと消えた。


「罪人どもの縄を解け。沙汰は、追って下す。……その男は、城へ連れてゆけ」


 ウィギリウスが、壇の階段を下りてきた。柱の前に立ち、ルルを縛る縄の紋様に、そっと指先を触れる。


 紋様の光が、すうっと消えた。


 グラン・フラムを飲みこみ、ファルクス・ウェンティを食った縄は、ただの麻縄のように、ぱさりと薪の上に落ちた。


 ウィギリウスは、縄が落ちたあとも、しばらく自分の指先を見つめていた。それから、もう一度、空を見上げた。光の花が咲いていた、あたりを。


 灰色の目の奥で、何かが静かに燃えていた。


 ルルの膝が、崩れた。


 柱の向こうで縄を解かれた若い兵士が、転がるように駆け寄って、ルルの体を支えた。


 隣の柱では、ガスパールが、自由になった両手を見下ろしたまま立ちつくしていた。その目が、ゆっくりと健司に向いた。


「……貴様」


 かすれた声だった。焼け跡で健司を見下ろしていたときの冷たさは、どこにもなかった。


「いったい、何者だ」


 健司は、答えられなかった。答えを持っていなかった。


 ソランジュは、空を見上げていた。


「……何ですの、あれは」


 誰に向けたのでもない、小さなつぶやきだった。


 健司の両腕を、新しい兵士たちがつかんだ。引き立てられていく途中で、健司は一度だけ振り返った。


 若い兵士の腕の中で、ルルがこちらを見ていた。唇が、何かを言おうとして動いた。声は、届かなかった。


 それでいい、と健司は思った。


 柱の上で、薪に囲まれていた子が、今は兵士の腕の中で息をしている。帽子もなく、髪はぼさぼさで、頬には煤がついている。それでも、生きている。


 それだけで、よかった。


 人垣の向こうで、小さな声が、おっさん、と叫んだ気がした。


 ----------------


 城の地下の、狭い石の牢だった。


 光る紋様は刻まれていない。ただの鉄格子と、ただの石の床。それでも、ここから出られないことに変わりはなかった。


 健司は、壁にもたれて座っていた。


 村を焼いたと、自分の口で言った。王の前で。広場の、何千という人の前で。


 火をもって贖う。この国の決まりは、もう知っている。


 怖くないと言えば、嘘になる。けれど、不思議と、体の震えは止まっていた。


 健司は、懐から鏡を取り出した。


 鉄格子の向こうの松明に照らされて、自分の顔が映っていた。ひどい顔だった。それでも、目はそらさなかった。


 嘘は、ついていない。


 そのとき、足音が近づいてきた。


「……起きていますか」


 聞き覚えのある声だった。


 鉄格子の向こうに、若い兵士が立っていた。荷馬車の檻を見張っていた、あの兵士だった。広場で、ルルを支えていた兵士だ。


「見張りの交代に、紛れこんできました」


 兵士は、あたりをうかがってから、しゃがみこんだ。両手に、小さな包みを持っている。


「隊長から、預かってきました」


 鉄格子の隙間から差し入れられた包みを、健司は受け取った。


 ハンカチに包まれた、黒いパンだった。


 ちょうど、半分にちぎってあった。


「それから、伝言です」


 兵士は、少しだけ気まずそうに咳払いをした。


「ご飯を食べるのに、資格なんていらないでしょう。……だそうです」


「隊長は、ご自分の夕食を半分にちぎって、わたし、お腹いっぱいだから、っておっしゃって」


 兵士は、そこで少し言いよどんだ。


「……そのあと、お腹が鳴ってましたけど」


 健司は、ハンカチの上のパンを見下ろした。


 荒野の夜。冷めた豆のスープ。鉄格子の隙間から押しこまれた、半分のパン。


 視界が、にじんだ。


「それと、もうひとつだけ」


 兵士は、まっすぐに健司を見た。


「自分も、柱の向こうにいました。隊の、ほかのみんなも。……ありがとうございました」


 兵士は、深く頭を下げた。それから立ち上がり、鉄格子に背を向けた。


「自分は、何も見ていません。ここには星がないので、交代の時間まで、天井の石の数でも数えています」


 健司は、思わず笑った。笑いながら、パンにかじりついた。


 硬くて、ぱさぱさしていて、少しだけ塩の味がした。


 パンを食べ終えると、健司はハンカチをていねいにたたんで、懐の鏡の隣にしまった。


 ルルが、生きている。隊の人たちも。あの若い兵士も。


 明日、何を言い渡されてもいい。そう思えたのは、この世界に来て初めてだった。


 健司は、冷たい石の壁にもたれて、目を閉じた。


 ----------------


 翌朝、健司は玉座の間に引き立てられた。


 両脇を兵士に固められて、長い回廊を歩く。高い窓から差しこむ朝の光が、石の床に白い四角をいくつも並べていた。


 スラムの孤児院でも、今ごろ、子供たちが寝藁から這い出しているころだろう。パン十二口、まだ返していない。


 そんなことを考えている自分に、健司は少しだけ驚いた。


 高い天井。玉座の背後の壁に彫りこまれた、見上げるほど大きな女神の像。その上を、七色の光が斜めに横切っている。魔法裁判の日と、何もかも同じだった。


 違うのは、自分の足が、もう震えていないことだけだった。


 玉座の一段下に、三人の審問官が並んでいた。壁ぎわには、貴族たちが息をひそめている。


 健司は、玉座の前に膝をついた。


「タニムラ・ケンジ」


 聖王の声が、高い天井に響いた。


「汝は、村を焼いたと申したな」


「はい」


「この間で、女神に誓って、やっていないと申した口でか」


「……はい。あのときは、嘘をつきました」


 壁ぎわが、ざわりと揺れた。誓い破り、と誰かがささやいた。


「なぜ、嘘をついた」


「怖かったからです」


 健司は、顔を上げた。


「火刑だと聞いて、怖くなりました。それで、口から嘘が出ました」


 聖王の表情は、少しも動かなかった。


「陛下」


 眉間に深いしわを刻んだ審問官、セウェリヌスが、一歩進み出た。


「この者は、女神の御前で誓いを破った者にございます。そのような者の言葉を」


「誓いを破ったのは、昨日までの話だ」


 聖王は、セウェリヌスのほうを見もしなかった。


「昨日、この者は、何千の目の前で、自ら罪を明かした。黙っていれば、誰にも知られずに済んだ罪をな」


 セウェリヌスは、口をつぐんで一歩下がった。


「では、なぜ昨日は名乗り出た。黙っていれば、汝は放免のままだった」


 健司は、少しだけ考えた。答えは、もう決まっていた。


「本当のことを言うと、約束したからです」


 全部話します、とうなずいた荷馬車の上。ほんとのことだけ言ってきて、と言った小さな声。


「……一度、破ってしまったので。今度は、守りたかったんです」


 聖王は、長いあいだ健司を見下ろしていた。


「あの火は、何だ」


「熱を、運びました」


 健司は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「広場の空気から熱を集めて、空の一点に移しました。魔法ではありません。だから、砂には映りません」


「その力を、どこで得た」


 健司は、口を開きかけて、止まった。


 女神にもらった、と言って、誰が信じるだろう。ちゃぶ台の上で胸を張っていた、あの調子のいい女神に。


 けれど、嘘はつけない。もう、つかないと決めた。


 健司は、もう一度口を開いた。


「女神様に――」


「よい」


 聖王が、片手を上げた。


「どこで得たかは、問わぬ」


 そう言ったとき、聖王の目が、ほんの一瞬だけ、背後の女神の像へ向いた気がした。


 玉座の上で、聖王がゆっくりと指を組んだ。


「魔力によらぬ力は、砂では測れぬ。審問官にも見抜けぬ。誰にも知られぬまま、村ひとつを焼くことができる。……恐ろしい力だ」


 聖王は、そこで言葉を切った。


「だが汝は、昨日、その火を空の上に閉じこめた。広場を凍えさせはしたが、誰ひとり焼かなかった」


 組んだ指の上で、聖王の目が細くなった。


「力そのものより、そちらのほうが、余には珍しい」


 健司は、うなずいた。


「はい。だから、罰を受けます」


 玉座の間が、しんと静まった。


 健司は、目を閉じた。火をもって贖う。覚悟は、ゆうべのうちに済ませていた。


 けれど、聞こえてきたのは、宣告ではなかった。


 低い、笑い声だった。


 健司は、目を開けた。


 聖王が、笑っていた。ほんのわずかに口の端を上げただけの、短い笑いだった。それでも、たしかに笑っていた。


 ただ、組んだ指の上の目だけは、少しも笑っていなかった。


「面白い力だ」


 聖王は、身を乗り出した。


「我が国のために、役立てる気はないか?」


処刑は中止になり、健司は城に連れていかれます。


ルルからのパン。温かいですね。


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