『全能』1章20話 光る縄(20)
『全能』第20話
光る縄が、手首に食いこんでいた。
地下牢から引き出され、荷車に乗せられて、どれくらい揺られたのかわからない。目隠しを外されたとき、目の前には広場が広がっていた。人、人、人。石畳を埋めつくす顔が、いっせいにこちらを見ていた。
「火あぶりだ!」
「村を焼いた人殺しどもめ!」
ルルは、木の柱に背中を押しつけられた。光る縄が、胸と腰と足首に、何重にも巻きつけられていく。足元には、胸の高さまで積まれた薪。
左右の柱にも、五人の中隊長がひとりずつ縛られていった。
「ふざけるな」
右隣の柱で、ガスパールが低くうなった。
「フランベル家の者が、薪の上で、罪人として焼かれるだと?」
仕立てのいい外套は、とうに剥ぎ取られていた。それでもガスパールは、背筋だけはまっすぐに伸ばしていた。縛られた両手の指を、ぎりぎりと開いていく。
「炎よ、我が名に従え。万象を焼き、灰へと還せ」
空気が、熱を帯びた。
「――グラン・フラム!」
ガスパールの全身から、紅蓮の炎が噴き上がった。
柱の高さを越え、うねりながら天を衝く、巨大な火柱だった。最前列の群衆が悲鳴を上げてのけぞり、処刑人たちが松明を取り落として飛びすさる。熱風が、ルルの頬を叩いた。
第一中隊長の名は、伊達ではない。城壁さえ焼き崩すといわれる、火の上級魔法だった。
炎の舌が、手首の縄に食らいついた。
その瞬間、縄の紋様が、まばゆく光った。
炎が、吸いこまれていく。乾いた砂が水を吸うように、あれほどの火柱が、するすると細い縄の中へ消えていく。足元の薪には、焦げ跡ひとつつかなかった。
最後の火の粉が消えたとき、縄は何事もなかったように、ガスパールの手首を締めつけていた。
「……そんな、馬鹿な」
ガスパールの額から、汗がしたたり落ちた。
広場が、一瞬だけ静まりかえった。それから、どっと笑い声が起こった。
「見ろよ、最後の悪あがきだ!」
「いいぞ、もっとやれ! 自分で薪に火をつけてくれりゃ、手間がはぶけらあ!」
左隣の柱で、ソランジュが、くすりとも笑わずに顔を上げた。
白い指が、何かを握るように宙で動いた。いつも手放さなかった扇は、もうどこにもない。
「品のない炎ですこと」
ソランジュは、乾いた唇で言った。
「縄を切るなら、焼くより、断つものですわ」
ルルの髪が、ふわりと浮き上がった。
ソランジュのまわりで、風が鳴った。はじめは衣ずれのような音だった。それが見る間に、甲高い唸りへと変わっていく。石畳の砂ぼこりが渦を巻いて舞い上がり、群衆の帽子がいくつも吹き飛んだ。
「風よ、刃となれ。月を象り、あらゆる縛めを刈り取れ」
渦の中に、銀色の三日月が浮かび上がった。人の背丈ほどもある、透きとおった風の大鎌だった。
「――ファルクス・ウェンティ!」
大鎌が、閃いた。
空気そのものを裂くような音とともに、銀の刃が三度、続けざまに振り下ろされた。胸の縄へ。腰の縄へ。足首の縄へ。柱の木肌が、すぱりと削げて宙に飛んだ。
縄だけが、切れなかった。
紋様が光り、三日月の刃は、縄に触れたところから、ほどけるように消えていった。あとには、そよ風ひとつ残らなかった。
ソランジュは、しばらく自分の縄を見下ろしていた。
「……地下と、同じ紋様ですわね」
いつもの澄ました声が、かすかに震えていた。
ガスパールが、ぎり、と奥歯を鳴らした。
ルルは、何も言わなかった。
上級魔法でも、だめなのだ。グラン・フラムでも、ファルクス・ウェンティでも。あの縄は、触れた魔法そのものを食べてしまう。
知っている。七つ全部、試したのだから。
柱の向こうには、縄でつながれた隊の兵士たちが、列になって座らされていた。檻の見張りをしてくれた、あの若い兵士もいた。うつむいたまま、肩を震わせている。
わたしたちが燃えたら、次は、あの人たちの番だ。
広場を埋める顔を、ルルはひとつずつ見ていった。罵る顔。笑う顔。子供を肩車した父親。焼き菓子をかじる娘。
人垣のいちばん後ろに、灰色の修道服が見えた。
シスターだった。その前に、小さな頭が五つ並んでいる。ノエが、コレットの服の裾にしがみついて泣いていた。
……見に来ちゃ、だめなのに。
シスターが、まっすぐにこちらを見て、小さくうなずいた。ルルは、目をそらせなかった。
それから、焼け焦げた、見慣れない服の男を探している自分に気づいて、ルルは唇をかんだ。
地下牢に来た夜の、あの人の顔を思い出した。説明できたと話したときの、馬車の上と同じ顔。
最後に見たのが、あの顔でよかった。
もう一回だけ、信じてみた。その答えが、この柱だった。
それなのに、信じなければよかったとは、どうしても思えなかった。
来ないで。
見つかったら、あの人まで、ここに縛られる。
来ないでよね。……ばか。
そう思うのに、目だけが、勝手に人波を探していた。
----------------
「これより、東の村を焼いた罪人どもの、火刑を執り行う!」
触れ役の声が、広場に響きわたった。
羊皮紙が広げられ、罪状が読み上げられていく。焼けた家の数。死んだ者たちの名。
マルタン。フェルナン。アネット。ミレイユ。ニナ。ベルナール。ティボー。
名前が呼ばれるたびに、膝から力が抜けそうになった。
びゅーんって、来た。
健司は、人波をかき分けていた。肩がぶつかる。足を踏まれる。舌打ちと罵声が飛んでくる。それでも、前へ。
六本の柱が、すぐそこに見えた。真ん中の柱に、小さな影が縛られている。帽子のない、葡萄酒色の髪。
石の壇の上、きらびやかな天幕の下に、灰色のひげをたくわえ、緋色の衣をまとった聖王が座っていた。その脇には、若い審問官のウィギリウスが立っている。
壇の脇の火鉢から、処刑人たちが松明に火を移した。橙色の炎が、いくつも立ち上がる。
それだけで、右手が震えた。白い光。夜空に噴き上がる炎の柱。
健司は、右の手首のリボンを握りしめた。
ほんとのことだけ、言ってきて。
処刑人たちが、松明を手に、薪の山へ歩み寄っていく。
健司は、最前列の縄を乗り越えた。
「待ってください!」
声が、裏返った。
広場じゅうの目が、健司に向いた。
「なんだ、あいつ」
「おい、あれ、あの男だ。放免された、嘘つきの」
兵士がふたり駆け寄ってきて、健司の両腕をねじり上げた。石畳に、膝が落ちる。
「村を焼いたのは、僕です!」
笑い声が起こった。
「またそれか!」
「いいかげんにしろ、嘘つき!」
誰も、信じていなかった。三日前と、同じだった。
言葉では、届かない。わかっていた。
真ん中の柱で、ルルが目を見開いていた。その唇が、ばか、と動いたのが見えた。
健司は、ねじ上げられた腕のまま、顔を上げた。壇の上の聖王を、まっすぐに見た。
「あの夜、何が起きたのか。今から、ここで見せます」
聖王は、何も言わなかった。
放免された男が、自分から薪の前へ戻ってきた。そのわけを確かめるように、しばらく健司の顔を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと片手を上げた。
処刑人たちの足が、止まった。
----------------
健司は、目を閉じた。
懐の鏡には、触れなかった。もう、判断には困っていなかった。
(あの空に、花を)
念じた瞬間、視界いっぱいに、ウィンドウが開いた。
【事象の定義を開始します:熱の集約】
【以下の項目について説明を求めます】
【残り時間:5:00】
対象座標。熱源。熱の運び方。止める条件。
健司は、いちばん最初に座標を決めた。熱が、どこまで届いていいのか。あの夜、最初に決めなかったものを。
「対象座標は、この広場の真上。高さ三百メートル、半径二十メートルの球。集めた熱は、この球の外へは、ひとかけらも出さない。何が起きても、だ」
【承認:対象座標の指定】
「熱源は、広場の空気と、石畳の表面。地面から、屋根の高さまで。ただし、どこも氷点下五度より下には冷やさない」
【承認:熱源の指定】
閉じた。上も、下も。
広場の空気を、零度の少し下まで冷やす。それだけで集まる熱は、ざっと見積もって、火薬にして数百キロ分。三百メートル上で弾けるなら、地上に届くのは光と音だけだ。
「運び方。冷たい空気から熱を抜いて、熱い球の中へ移す」
熱は、温かいほうから冷たいほうへしか流れない。放っておけば、決して起こらないことだ。逆に流すには、仕事がいる。エアコンが、電気を食うのと同じだ。
だから、それは来た。
【未定義変数:大気中マナ濃度に対する熱輸送変換率】
赤い表示。あの夜と、同じ色。
指先が、冷たくなった。広場のざわめきが、遠のいていく。
健司は、きのう井戸の脇の石に引いた線を思い浮かべた。水の点と、火の点。そのあいだに引いた、誤差だらけの線。
見当は、つく。ただし、幅がある。幅の上の端を決めたのは、溶けなかったペンダントだった。
健司は、その幅のいちばん上の値を入れた。
少しずつ上げていけば、また時間が足りなくなる。だから、上の端から入る。足りないより、多すぎるほうがいい。どれだけ大きくなっても、球の外には出ない。そう、閉じてある。
【定義値では目標量を超過します。再定義してください】
残り二分三十秒。
あの夜は、ここで数字をいじった。わからないほうを、わかっているほうに合わせようとして。
今度は、逆だ。
「目標量を、再定義する。この値で運べる熱を、全部だ」
わからないものは、動かさない。わかっているほうを、合わせる。
【承認:熱輸送の定義】
「止める条件。熱は、球の中で使い切ったら終わり。光と音になって、空に散る」
【承認:停止条件の定義】
【全項目が承認されました。事象を実行します】
残り時間は、一分五十秒だった。
最初に来たのは、寒さだった。
広場を、見えない波が駆け抜けた。頬を刺すような冷気。誰かの吐く息が、白く煙った。石畳の上に、ぴしぴしと音を立てて、霜の花が広がっていく。処刑人の松明の炎が、ぐうっと縮んだ。
「な、なんだ……!」
「寒い、なんだこれ!」
悲鳴があがった。健司の腕をつかんでいた兵士の手が、かじかんでゆるんだ。
健司は、空を見上げた。
夕焼けの空の、はるか高みに、針の先ほどの光がともっていた。
光は、ふくらんだ。白く、まばゆく、見る見るうちに。
そして、咲いた。
夕焼けの空に、白金色の光の花が開いた。花びらのような光の筋が、四方の空を貫いていく。広場が、真昼のように明るくなった。誰の顔も、真っ白に照らし出された。
音は、そのあとから来た。
光から、ちょうど一拍遅れて、腹の底を揺さぶる轟音が、空から降ってきた。屋根の上の鳩が、いっせいに飛び立った。
大きい。
健司は、息をのんだ。思っていたより、ずっと。幅のいちばん上の値は、それだけの熱を運んでいた。
あの夜の、白い光と同じだった。
けれど、光の花は、球の外へはひとかけらも落ちてこなかった。空の高みで、ゆっくりとほどけ、薄れ、夕焼けの中に溶けていった。
誰も、焼かなかった。
----------------
広場は、静まりかえっていた。
罵声も、笑い声も、どこにもなかった。白い息だけが、何千という口から、ゆらゆらと立ちのぼっていた。
兵士の手は、もう健司の腕から離れていた。兵士は、かじかんだ自分の手のひらを、信じられないものを見るように見下ろしていた。
どこかで、小さな子供の声がした。
「……きれい」
健司は、目を閉じた。
あの夜、ニナを焼いたのと同じ光だった。それを今、知らない子供が、きれいだと言った。
健司は、ゆっくりと立ち上がった。霜のおりた石畳が、足の下できしんだ。
「あの夜も、同じ力でした」
声は、もう震えていなかった。
「魔物から村の人たちを守ろうとして、この力で火をつけました。でも、あの夜は、どこまで燃えていいのかを決めていなかった。止め方も、知らなかった。だから、村ごと、燃えました」
名前が、喉の奥からせり上がってきた。
「マルタンさんも、フェルナンさんも、アネットさんも、ミレイユも、ニナも。ベルナールさんも、ティボーさんも」
名前を知っているのは、それだけだった。名前も知らない人のほうが、ずっと多かった。
「僕が、焼きました」
健司は、壇の上を見上げた。
「砂は、嘘をついていません。僕には、魔力なんて、ほとんどありません」
ウィギリウスが、息をのむのがわかった。
「それでも、村を焼いたのは、僕です。この人たちは、何もしていません。……あれは、事故でした」
健司は、霜の残る石畳に両膝をついて、深く頭を下げた。
広場の誰も、口を開かなかった。石畳の霜が、少しずつ溶けはじめていた。
真ん中の柱で、ルルが健司を見ていた。
金色の瞳が、濡れて光っていた。
聖王が、立ち上がった。
広場で、閉じた火の花を見せました。
誰も焼かずに、あの夜と同じ光を上げましたね。
ブックマークしてもらえると励みになります。
2章以降は19時30分ごろ毎日更新予定です。




