『全能』1章19話 とけなかったもの(19)
『全能』第19話
朝になると、孤児院は一気に騒がしくなった。
寝藁から這い出してきた子供たちが、かまどの前の健司を見つけて、いっせいに足を止めた。
血のにじんだ手。泥だらけのスウェット。
「……おっさん」
ジャノが、かすれた声で言った。
コレットが、一歩前に出た。両手を、胸の前でぎゅっと握りしめている。
「ルル姉ちゃん、どうだった?」
五人の目が、健司を見ていた。
懐の鏡が、重く感じられた。
大丈夫だよ、と言うのは簡単だった。きっと助かる、と言えば、この子たちは今日一日、笑っていられるかもしれない。
健司は、首を振った。
「会えた。話もできた。……でも、助けられなかった」
誰も、何も言わなかった。
ノエの顔が、くしゃりと歪んだ。声も出さずに、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。リュカがその肩を抱いた。トマが、壁を蹴った。
「なんでだよ」
ジャノが、健司をにらみつけた。
「なんでだよ! おっさん、行くって言ったじゃねえか!」
「ジャノ」
コレットが、その袖を引いた。
「おっさんは、約束はできないって言ったよ。行く、って言っただけ。……ほんとに、行ってくれたんだよ」
ジャノは、唇をかんだ。それから、袖で乱暴に目をこすった。
「……知ってるよ」
健司は、子供たちの前に膝をついた。
「ルル姉ちゃん、笑ってたよ。パン十二口は、へたすぎだって」
一瞬、間があった。
それから、トマがぶはっと吹き出した。泣きながら、笑っていた。
「ほら、言われてやんの!」
「おっさん、へたくそだもんな」
「それから、コレット」
コレットが、びくりと肩を揺らした。
「すぐ、わたしの真似するんだから、って」
コレットの顔が、みるみる赤くなった。そして、そのままくしゃくしゃに崩れた。
「……だって」
しゃくりあげながら、コレットは言った。
「だって、ルル姉ちゃんみたいに、なりたいんだもん」
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昼過ぎ、健司は孤児院の裏の井戸の縁に腰かけていた。
手の中に、鏡がある。
判断に困ったときは、これを見て、自分の顔を見て、見つめ直しなさい。
ゆうべ、方法を並べては消していった。床を掘る。鍵を奪う。王様に訴える。残ったものは、ひとつもなかった。
いや。
ひとつだけ、ある。
明日の日没、ルルは牢から出される。魔封じの紋様の外へ。広場の、柱の上へ。王様も、きっとそこにいる。
言葉では、もう届かない。女神の前で嘘をついた男が、何を叫んでも。
それなら、見せるしかない。あの夜、何が起きたのかを。みんなの目の前で。
その考えが浮かんだとたん、右手が震えだした。
見せるということは、火を使うということだ。あの夜と同じ、『全能』の火を。人が大勢集まる広場で。柱に縛られたルルの、すぐそばで。
失敗すれば、もう止められない。今度は、広場ごと燃える。
健司は、鏡の中の自分を見た。
怖い、と顔に書いてあった。
怖いなら、怖さの正体を確かめればいい。研究室で実験に失敗したとき、いつもしていたことだ。何が起きたのか。どこで間違えたのか。全部書き出して、ひとつずつ確かめる。
健司は、かまどから炭のかけらをひとつ拾ってきて、井戸の脇の平たい石に、線を引きはじめた。
「おっさん、なにかいてんの?」
ノエが、赤い目をこすりながら、のぞきこんできた。
「……反省文、かな」
「はんせいぶん?」
「失敗したことを、書いておくんだ。同じ失敗を、しないように」
ノエは、石の上の線と数字をしばらく眺めて、首をかしげた。
「わかんない」
「僕も、まだ全部はわかってない」
ノエは少し考えてから、健司の隣にちょこんと座った。何も言わずに、炭の先を目で追っていた。
あの夜。説明は、途中まで通っていた。対象。範囲。可燃物。酸素。承認、承認。
止まったのは、マナだった。
水のときに通った値を、そのまま使った。足りないと言われて、増やしているうちに、時間が切れた。そして『真理』は、火力を正の方向に、勝手に引き上げた。
いや、間違えたのは、もっと前だ。
荒野で、意味のわからない数字のまま水が出たとき、それを成功と呼んだ。研究室なら、まだわかっていない、と書くところだった。わかっていないものを、わかったつもりで、もう一度使った。
健司は、石の上に、ふたつの点を打った。
ひとつは、荒野で水を集めたときの値。ちょうどいいと認められた、たったひとつの答え。
もうひとつは、あの夜の火。何度あったのか、どれだけの熱だったのか。あの朝、焼け跡で、嫌になるほど考えた。
砂は溶けて、ガラスになっていた。ティボーの槍の穂先も、溶けて垂れ下がっていた。千五百度は、とうに越えていたはずだ。
けれど、かまどのそばのペンダントは、溶けていなかった。
ぜーったい燃えないし、溶けないんだって。
二千四百度まで、溶けない金属。あの夜の火は、そのあいだのどこかにあった。
点が、ふたつある。
ふたつあれば、線が引ける。
もちろん、正確な線ではない。誤差だらけの、頼りない線だ。それでも、何ひとつわからなかったあの夜とは違う。誤差の上の端と下の端は、ニナたちのペンダントと、溶けた砂が教えてくれた。どこからが危ないのか、その幅くらいは見えてくる。
炭の先が、止まった。
それから、もうひとつ。
あの夜、火が村ごと燃やしたのは、火力が大きすぎたからだけではない。どこまで燃えていいのかを、最初に決めていなかったからだ。止める条件は、火力が決まってから判定される、後回しの項目だった。火力が変われば、それごと無効になった。
始めたら、止められない。
それなら、始める前に、閉じておけばいい。
健司は、炭を握ったまま、しばらく動かなかった。
隣で、ノエが小さなあくびをした。
健司は、もう一度、鏡をのぞいた。
本当に、わかっているのか。
わからない。全部は、わからない。マナが何なのかは、今もわからない。
けれど、わかっていることと、わからないことの境目は、見えた。
説明しよう。
今度は、王様の前で。広場に集まった、みんなの前で。
最後まで。
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夜、子供たちが寝静まってから、健司はかまどの前に座っていた。
炎の上で、熱気がゆらゆらと揺れながら、煙出しの穴へ吸いこまれていく。健司は、それをじっと見ていた。
繕いものをしていたシスターが、ふと手を止めた。
「あの子に、会えたのですね」
「はい。……叱られました。ばかじゃないの、って」
シスターの口元が、ほんの少しだけゆるんだ。
「あの子らしいこと」
それから、シスターは膝の上の繕いものに目を落とした。
「あの子は、怖いと言いましたか」
健司は、少しためらってから、うなずいた。
「……はい」
「そうですか」
シスターの手が、布の上で止まった。
「あの子は、小さいころから、一度もそれを口にしない子でした。疑われても、叩かれても、お腹が空いても。怖いとも、つらいとも言わずに、ただ、あの鏡をにらんでいた」
かまどの火が、ぱちりとはぜた。
「誰かに、怖いと言えたのなら」
シスターの声が、かすかに震えた。
「それだけでも、あの子は、ひとりではなかったのですね」
健司は、何も言えなかった。
シスターは、目元をそっと指でぬぐうと、何事もなかったように針を取り上げた。
健司は、懐から鏡を取り出した。
「これは、お返ししたほうが」
「持っていきなさい」
シスターは、首を振った。
「判断に困ったときに、見るためのものです。明日は、きっと、困るでしょうから」
健司は、手の中の鏡を見下ろした。
かまどの火に照らされて、自分の顔が映っていた。ひどい顔なのは、変わらなかった。それでも、目だけは、もうそらしていなかった。
健司は、鏡を懐の奥にしまった。
それきり、もうのぞかなかった。
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処刑の日は、よく晴れていた。
昼を過ぎると、スラムの路地から、人が少しずつ消えていった。誰もが、中央広場のほうへ流れていく。
「火あぶりだってよ」
「百人も焼くんだろ。見ものだぜ」
笑い声が、路地を抜けていった。
健司は、孤児院の扉の前に立っていた。懐には、鏡。ほかには、何も持っていなかった。
振り返ると、五人が並んでいた。その後ろに、シスターが立っていた。
「おっさん」
ジャノが、一歩前に出た。何か言おうとして口を開き、そのまま閉じた。
かわりに、コレットが言った。
「約束は、しなくていいよ」
健司は、コレットを見た。
「おっさんは、できない約束は、しないんでしょ。だから、いい」
コレットは、ぎゅっと唇を結んでから、続けた。
「そのかわり、ほんとのことだけ、言ってきて」
健司は、うなずいた。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい」
シスターの声だった。
健司は、人の流れに混じって、歩きだした。
「おっさん!」
背中に、ジャノの声が飛んできた。
「パン十二口、まだ返してもらってねえからな!」
健司は、振り返らなかった。かわりに、リボンを巻いた右手を、高く上げた。
いつか、ちゃんと返すよ。
あの日そう言ったのは、自分だった。
路地を抜けるにつれて、人の波はどんどん厚くなっていった。屋台の呼び声。子供を肩車した父親。焼き菓子のにおい。祭りの日のような浮かれた空気が、大通りを埋めていた。
誰もが、火あぶりを見に行くのだ。
健司は、右の手首のリボンを握りしめた。汚れて、色のあせた、赤いリボン。
怖かった。足は、今にも止まりそうだった。
それでも、健司は歩いた。
ほんとのことだけ、言ってきて。
コレットの声が、耳に残っていた。
大通りの先が、ふいに開けた。
中央広場だった。
石畳の真ん中に、木の柱が六本、まっすぐに立っていた。その足元には、薪が胸の高さまで積み上げられている。広場を見下ろす石の壇の上には、きらびやかな天幕が張られていた。
日が、西に傾きはじめていた。
決心が固まってきましたね。
ブックマーク、よろしくお願いします。
2章以降は19時30分ごろ毎日更新予定です。




