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『全能』  作者: 朝霧なぎ
1章 リジェクト
19/32

『全能』1章19話 とけなかったもの(19)

『全能』第19話

 

 朝になると、孤児院は一気に騒がしくなった。


 寝藁から這い出してきた子供たちが、かまどの前の健司を見つけて、いっせいに足を止めた。


 血のにじんだ手。泥だらけのスウェット。


「……おっさん」


 ジャノが、かすれた声で言った。


 コレットが、一歩前に出た。両手を、胸の前でぎゅっと握りしめている。


「ルル姉ちゃん、どうだった?」


 五人の目が、健司を見ていた。


 懐の鏡が、重く感じられた。


 大丈夫だよ、と言うのは簡単だった。きっと助かる、と言えば、この子たちは今日一日、笑っていられるかもしれない。


 健司は、首を振った。


「会えた。話もできた。……でも、助けられなかった」


 誰も、何も言わなかった。


 ノエの顔が、くしゃりと歪んだ。声も出さずに、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。リュカがその肩を抱いた。トマが、壁を蹴った。


「なんでだよ」


 ジャノが、健司をにらみつけた。


「なんでだよ! おっさん、行くって言ったじゃねえか!」


「ジャノ」


 コレットが、その袖を引いた。


「おっさんは、約束はできないって言ったよ。行く、って言っただけ。……ほんとに、行ってくれたんだよ」


 ジャノは、唇をかんだ。それから、袖で乱暴に目をこすった。


「……知ってるよ」


 健司は、子供たちの前に膝をついた。


「ルル姉ちゃん、笑ってたよ。パン十二口は、へたすぎだって」


 一瞬、間があった。


 それから、トマがぶはっと吹き出した。泣きながら、笑っていた。


「ほら、言われてやんの!」


「おっさん、へたくそだもんな」


「それから、コレット」


 コレットが、びくりと肩を揺らした。


「すぐ、わたしの真似するんだから、って」


 コレットの顔が、みるみる赤くなった。そして、そのままくしゃくしゃに崩れた。


「……だって」


 しゃくりあげながら、コレットは言った。


「だって、ルル姉ちゃんみたいに、なりたいんだもん」


 ----------------


 昼過ぎ、健司は孤児院の裏の井戸の縁に腰かけていた。


 手の中に、鏡がある。


 判断に困ったときは、これを見て、自分の顔を見て、見つめ直しなさい。


 ゆうべ、方法を並べては消していった。床を掘る。鍵を奪う。王様に訴える。残ったものは、ひとつもなかった。


 いや。


 ひとつだけ、ある。


 明日の日没、ルルは牢から出される。魔封じの紋様の外へ。広場の、柱の上へ。王様も、きっとそこにいる。


 言葉では、もう届かない。女神の前で嘘をついた男が、何を叫んでも。


 それなら、見せるしかない。あの夜、何が起きたのかを。みんなの目の前で。


 その考えが浮かんだとたん、右手が震えだした。


 見せるということは、火を使うということだ。あの夜と同じ、『全能』の火を。人が大勢集まる広場で。柱に縛られたルルの、すぐそばで。


 失敗すれば、もう止められない。今度は、広場ごと燃える。


 健司は、鏡の中の自分を見た。


 怖い、と顔に書いてあった。


 怖いなら、怖さの正体を確かめればいい。研究室で実験に失敗したとき、いつもしていたことだ。何が起きたのか。どこで間違えたのか。全部書き出して、ひとつずつ確かめる。


 健司は、かまどから炭のかけらをひとつ拾ってきて、井戸の脇の平たい石に、線を引きはじめた。


「おっさん、なにかいてんの?」


 ノエが、赤い目をこすりながら、のぞきこんできた。


「……反省文、かな」


「はんせいぶん?」


「失敗したことを、書いておくんだ。同じ失敗を、しないように」


 ノエは、石の上の線と数字をしばらく眺めて、首をかしげた。


「わかんない」


「僕も、まだ全部はわかってない」


 ノエは少し考えてから、健司の隣にちょこんと座った。何も言わずに、炭の先を目で追っていた。


 あの夜。説明は、途中まで通っていた。対象。範囲。可燃物。酸素。承認、承認。


 止まったのは、マナだった。


 水のときに通った値を、そのまま使った。足りないと言われて、増やしているうちに、時間が切れた。そして『真理』は、火力を正の方向に、勝手に引き上げた。


 いや、間違えたのは、もっと前だ。


 荒野で、意味のわからない数字のまま水が出たとき、それを成功と呼んだ。研究室なら、まだわかっていない、と書くところだった。わかっていないものを、わかったつもりで、もう一度使った。


 健司は、石の上に、ふたつの点を打った。


 ひとつは、荒野で水を集めたときの値。ちょうどいいと認められた、たったひとつの答え。


 もうひとつは、あの夜の火。何度あったのか、どれだけの熱だったのか。あの朝、焼け跡で、嫌になるほど考えた。


 砂は溶けて、ガラスになっていた。ティボーの槍の穂先も、溶けて垂れ下がっていた。千五百度は、とうに越えていたはずだ。


 けれど、かまどのそばのペンダントは、溶けていなかった。


 ぜーったい燃えないし、溶けないんだって。


 二千四百度まで、溶けない金属。あの夜の火は、そのあいだのどこかにあった。


 点が、ふたつある。


 ふたつあれば、線が引ける。


 もちろん、正確な線ではない。誤差だらけの、頼りない線だ。それでも、何ひとつわからなかったあの夜とは違う。誤差の上の端と下の端は、ニナたちのペンダントと、溶けた砂が教えてくれた。どこからが危ないのか、その幅くらいは見えてくる。


 炭の先が、止まった。


 それから、もうひとつ。


 あの夜、火が村ごと燃やしたのは、火力が大きすぎたからだけではない。どこまで燃えていいのかを、最初に決めていなかったからだ。止める条件は、火力が決まってから判定される、後回しの項目だった。火力が変われば、それごと無効になった。


 始めたら、止められない。


 それなら、始める前に、閉じておけばいい。


 健司は、炭を握ったまま、しばらく動かなかった。


 隣で、ノエが小さなあくびをした。


 健司は、もう一度、鏡をのぞいた。


 本当に、わかっているのか。


 わからない。全部は、わからない。マナが何なのかは、今もわからない。


 けれど、わかっていることと、わからないことの境目は、見えた。


 説明しよう。


 今度は、王様の前で。広場に集まった、みんなの前で。


 最後まで。


 ----------------


 夜、子供たちが寝静まってから、健司はかまどの前に座っていた。


 炎の上で、熱気がゆらゆらと揺れながら、煙出しの穴へ吸いこまれていく。健司は、それをじっと見ていた。


 繕いものをしていたシスターが、ふと手を止めた。


「あの子に、会えたのですね」


「はい。……叱られました。ばかじゃないの、って」


 シスターの口元が、ほんの少しだけゆるんだ。


「あの子らしいこと」


 それから、シスターは膝の上の繕いものに目を落とした。


「あの子は、怖いと言いましたか」


 健司は、少しためらってから、うなずいた。


「……はい」


「そうですか」


 シスターの手が、布の上で止まった。


「あの子は、小さいころから、一度もそれを口にしない子でした。疑われても、叩かれても、お腹が空いても。怖いとも、つらいとも言わずに、ただ、あの鏡をにらんでいた」


 かまどの火が、ぱちりとはぜた。


「誰かに、怖いと言えたのなら」


 シスターの声が、かすかに震えた。


「それだけでも、あの子は、ひとりではなかったのですね」


 健司は、何も言えなかった。


 シスターは、目元をそっと指でぬぐうと、何事もなかったように針を取り上げた。


 健司は、懐から鏡を取り出した。


「これは、お返ししたほうが」


「持っていきなさい」


 シスターは、首を振った。


「判断に困ったときに、見るためのものです。明日は、きっと、困るでしょうから」


 健司は、手の中の鏡を見下ろした。


 かまどの火に照らされて、自分の顔が映っていた。ひどい顔なのは、変わらなかった。それでも、目だけは、もうそらしていなかった。


 健司は、鏡を懐の奥にしまった。


 それきり、もうのぞかなかった。


 ----------------


 処刑の日は、よく晴れていた。


 昼を過ぎると、スラムの路地から、人が少しずつ消えていった。誰もが、中央広場のほうへ流れていく。


「火あぶりだってよ」


「百人も焼くんだろ。見ものだぜ」


 笑い声が、路地を抜けていった。


 健司は、孤児院の扉の前に立っていた。懐には、鏡。ほかには、何も持っていなかった。


 振り返ると、五人が並んでいた。その後ろに、シスターが立っていた。


「おっさん」


 ジャノが、一歩前に出た。何か言おうとして口を開き、そのまま閉じた。


 かわりに、コレットが言った。


「約束は、しなくていいよ」


 健司は、コレットを見た。


「おっさんは、できない約束は、しないんでしょ。だから、いい」


 コレットは、ぎゅっと唇を結んでから、続けた。


「そのかわり、ほんとのことだけ、言ってきて」


 健司は、うなずいた。


「……行ってきます」


「いってらっしゃい」


 シスターの声だった。


 健司は、人の流れに混じって、歩きだした。


「おっさん!」


 背中に、ジャノの声が飛んできた。


「パン十二口、まだ返してもらってねえからな!」


 健司は、振り返らなかった。かわりに、リボンを巻いた右手を、高く上げた。


 いつか、ちゃんと返すよ。


 あの日そう言ったのは、自分だった。


 路地を抜けるにつれて、人の波はどんどん厚くなっていった。屋台の呼び声。子供を肩車した父親。焼き菓子のにおい。祭りの日のような浮かれた空気が、大通りを埋めていた。


 誰もが、火あぶりを見に行くのだ。


 健司は、右の手首のリボンを握りしめた。汚れて、色のあせた、赤いリボン。


 怖かった。足は、今にも止まりそうだった。


 それでも、健司は歩いた。


 ほんとのことだけ、言ってきて。


 コレットの声が、耳に残っていた。


 大通りの先が、ふいに開けた。


 中央広場だった。


 石畳の真ん中に、木の柱が六本、まっすぐに立っていた。その足元には、薪が胸の高さまで積み上げられている。広場を見下ろす石の壇の上には、きらびやかな天幕が張られていた。


 日が、西に傾きはじめていた。


決心が固まってきましたね。


ブックマーク、よろしくお願いします。


2章以降は19時30分ごろ毎日更新予定です。

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