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『全能』  作者: 朝霧なぎ
1章 リジェクト
18/35

『全能』1章18話 本当のこと(18)

『全能』第18話

 

「……どうして」


 ルルの唇が、もう一度、そう動いた。


 健司は、鉄格子の前に膝をついた。


「ルルさん」


 ルルは、膝を抱えたまま動かなかった。金色の瞳だけが、健司の顔と、横道の入り口とを、何度も行き来した。


 それから、ふいに、鉄格子のすぐそばまで膝で寄ってきた。


「……ばかじゃないの」


 押し殺した声だった。


「ここ、どこだかわかってる? 通路には、見張りがいっぱいいるんだよ。見つかったら、ケンジさんもここに入れられるの。今度こそ、言い訳なんて誰も聞いてくれないんだから」


「すみません」


「すみません、じゃなくて」


 ルルは、鉄格子をつかんだ。紋様が、細い指の下でかすかに光った。


「どうやって、入ってきたの」


「下水道からです。孤児院の子たちに、道を教えてもらいました」


 ルルの目が、まん丸になった。


「ジャノたち?」


「はい。そのかわり、円盤遊びにつきあわされて、晩ごはんのパンを十二口とられました」


 ルルは、ぽかんと口を開けた。


 それから、慌てて両手で口を押さえた。肩が、小刻みに震えている。笑いをこらえているのだと気づくまでに、少しかかった。


「……十二口って。ケンジさん、へたすぎ」


「最初は、浮かせることもできなかったので」


「もう。あの子たち、シスターにばれたら、すっごく怒られるのに」


「シスターは、知ってました。わたしは何も聞いていません、何も見ていません、って」


 ルルは、口を押さえていた手を、ゆっくりと下ろした。


「……シスターらしいね」


「パンは、結局、返してもらいました」


「返して?」


「ひと口ずつ受け取って、それを自分のパンにくっつけて、僕の皿に戻してきたんです。おなかを空かせてる人がいたら、パンを半分あげるの、ルル姉ちゃんがいつもそう言ってたから、って」


 ルルは、何も言わなかった。


 ただ、膝の上に下ろした手を、ぎゅっと握りしめた。


「……コレットでしょ、それ言ったの」


「はい」


「あの子、すぐ、わたしの真似するんだから」


 声が、少しだけ揺れていた。


 その目が、健司の右の手首で止まった。


 色のあせた赤いリボンは、泥と血で、すっかり汚れていた。


「それ、まだ巻いてたの」


「……返したほうが、いいですか」


「いいよ。持ってて」


 ルルは、少しだけ口をとがらせた。


「でも、ハンカチは汚れるためにあるけど、リボンは、そうじゃないんだからね」


 ----------------


 健司は、鉄格子越しに、ルルの顔をまっすぐに見た。


「話さなきゃいけないことがあって、来ました」


 ルルの顔から、笑みが消えた。


「王様の前で、僕は、やっていませんと言いました」


 健司は、膝の上で拳を握りしめた。


「本当のことを言うつもりでした。全部話しますって、約束したのに。口を開いたら、出てきたのは嘘でした」


 ルルは、何も言わなかった。


「火刑だと言われて、怖くなったんです。村が燃えたときの白い光を思い出して、自分があの中で焼かれるところを考えてしまって。気づいたら、口が勝手に」


 言いながら、喉の奥が焼けるように痛んだ。


「怖かったから、嘘をつきました。そのせいで、ルルさんが」


「知ってたよ」


 静かな声だった。


「嘘だってことは、知ってた。あのとき、ケンジさんの声、震えてたもん」


 ルルは、鉄格子に額を寄せた。


「でも、どうしてなのかは、わからなかった。……そっか。怖かったんだ」


「約束を、破りました」


 健司は、石の床に額がつくほど、頭を下げた。


「ごめんなさい」


 長い沈黙が落ちた。遠くで、さいころの転がる音がした。


「……顔、上げて」


 健司は、顔を上げた。


 ルルは、膝を抱えなおしていた。その膝の上で、細い指がぎゅっと組み合わされている。指先が、かすかに震えていた。


「わたしもね、怖いよ」


 ぽつりと、ルルは言った。


「火あぶりなんて、怖いに決まってるじゃない」


 健司は、何も言えなかった。


「……それを言いに来たの? わざわざ、下水道を通って?」


「それと、もうひとつ」


 健司は、懐の鏡に手を触れた。


「ここまで来るのに、『全能』を使いました」


 ルルが、小さく息をのんだ。


「見張りの前を通るのに、空気の温度を変えて、松明の陽炎に紛れたんです。わからないものは、ひとつも使いませんでした。マナも使わずに、自分でわかっていることだけで説明して、最後まで通りました」


「……説明、できたんだ」


 ルルは、しばらく健司の顔を見つめていた。


 それから、ふっと目元をゆるめた。


「よかったね」


 明後日には焼かれるという場所で、ルルはそう言って笑った。


「今の顔。馬車の上で、研究の話をしてたときと、同じ顔してた」


 ----------------


「ここから、出ましょう」


 健司は、鉄格子をつかんだ。


 冷たかった。指の下で、紋様が脈を打つように、淡く光った。


 健司は、牢のまわりを見回した。鍵穴を探した。蝶番を探した。扉の継ぎ目を探した。


 どこにもなかった。


 鉄格子は、床の石から生えたように、天井の石へとまっすぐに伸びている。人を入れたのなら、出す方法もあるはずだった。けれど、その方法は、目に見えるところには何ひとつなかった。


「無理だよ」


 ルルが、静かに言った。


「魔封じの牢なの。中からも、外からも、魔法じゃ開かない。開けられるのは、この紋様を刻んだ人だけ。わたしも、ここに入れられてから、ずっと試してたの。七つ、全部」


 健司は、紋様を見つめた。


 わからないものは、よく見る。見て、真似て、ずれたところを直す。研究室で、何百回とくり返してきたことだった。


 けれど、どれだけ見ても、何ひとつわからなかった。何でできているのか。何を封じているのか。なぜ光っているのかさえ。


『全能』を使うには、これを説明しなければならない。


 わからないまま念じれば、もう止められない。あの夜、キャンセルだと叫んでも、何ひとつ止まらなかったように。


 そして今度燃えるのは、この牢の中だ。


 健司は、鉄格子を両手で握りしめて、引いた。


 びくともしなかった。もう一度。肩が軋み、胸の焦げ跡が裂けるように痛んだ。手のひらの皮がむけて、鉄が血でぬるりと滑った。


 それでも、鉄格子は、ほんのわずかも動かなかった。


 健司は、頭の中で、手当たりしだいに方法を並べた。


 床を掘る。床の石にも、同じ紋様が刻まれている。


 見張りから鍵を奪う。鍵穴が、そもそもない。


 王様に、もう一度訴える。女神の前で嘘をついた男の言葉を、誰が聞くというのか。


 ひとつ並べるたびに、ひとつ消えていった。研究室で、行き詰まった実験の手順を書き出していた夜と同じだった。ただ、あのころは、まだ明日があった。


「ケンジさん」


 ルルの手が、鉄格子の内側から、健司の手に重なった。


「もう、いいよ」


 健司は、手を離せなかった。


 村を焼くことはできたのに。見張りの目を欺くことも、できたのに。目の前の、この子ひとりを、ここから出すことができない。


 なんでもできる力を、もらったはずだった。


「……仕方ないよ」


 ルルは、少しだけ笑った。


「わたし、こういうの、慣れてるから。何を言っても、どうにもならないこと」


 その笑い方を、健司は知っていた。


 パンを盗んだと疑われて、何を言っても信じてもらえなかった子の、笑い方だった。


 ----------------


 通路のほうで、椅子が大きくきしんだ。


「おい。そろそろ、奥の見回りの時間だぞ」


「あと一回振ってからでいいだろ」


 ルルの手が、ぱっと離れた。


「行って」


「でも」


「見回りが来る。しゃべり声で、ばれちゃう」


 ルルは、鉄格子の奥へ膝で下がった。


「行って。……ばか」


 最後の一言は、ほとんど声になっていなかった。


 健司は、立ち上がった。足が、自分のものではないように重かった。


 横道の入り口の陰で、健司は鏡を取り出した。


(鏡のまわりに、陽炎を)


【事象の定義を開始します:空気の温度分布の変更】


【以下の項目について説明を求めます】


【残り時間:5:00】


 さっきと同じ説明を、さっきと同じ順番で、唇だけで並べていく。


【承認:熱源の指定】


【承認:対象範囲の指定】


【承認:温度分布の定義】


【承認:持続条件の定義】


【全項目が承認されました。事象を実行します】


 鏡を押し出し、低くかがんで、その後ろにつく。


 来るときには、あれほど遠かった四歩だった。


「……なあ」


 机のほうから、聞き覚えのある声がした。


「やっぱり、あっちの壁、揺れてねえか」


「だから、松明の熱だって」


「なんか、また暑くなってきたな。誰だよ、油足したの」


「おまえ、まだ負けがこんでんのか。目までおかしくなってんだよ」


 笑い声が起こった。


 健司は、笑えなかった。


 小部屋の陰に転がりこんだとき、背後で、重い足音が横道へ入っていった。


「異常なし、っと」


 間延びした声が、紋様の光る通路に響いた。ルルは、何も答えなかった。


 健司は、錆びた格子のすき間に、腹ばいで体を押しこんだ。


 下水道を逆にたどって、石の蓋を押し上げたとき、空は白みはじめていた。


 孤児院の扉を開けると、かまどの火が、まだ小さく燃えていた。


 シスターが、椅子に座ったまま、繕いものを膝にのせていた。一晩じゅう、そこにいたのだとわかった。


 シスターは、何も聞かなかった。


 健司の血だらけの手を見て、それから顔を見て、黙って立ち上がり、鍋を火にかけた。


 健司は、かまどの前に座りこんだ。


 しばらくして、目の前に、湯気の立つ椀が差し出された。


 健司は、両手でそれを受け取った。傷だらけの手のひらに、椀の熱がしみた。


 ひと口すすった。昨日と同じスープのはずなのに、何の味もしなかった。


 椀を膝に下ろして、皮のむけた手のひらを見下ろした。


 なんでもできるはずの手は、鉄格子一本、動かせなかった。


 あと、一日と半分。


 懐の中で、鏡がひやりと冷たかった。


助け出すことはできませんでした……。


ブックマークしてもらえると嬉しいです。


2章以降は19時30分ごろ毎日更新予定です。

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