『全能』1章18話 本当のこと(18)
『全能』第18話
「……どうして」
ルルの唇が、もう一度、そう動いた。
健司は、鉄格子の前に膝をついた。
「ルルさん」
ルルは、膝を抱えたまま動かなかった。金色の瞳だけが、健司の顔と、横道の入り口とを、何度も行き来した。
それから、ふいに、鉄格子のすぐそばまで膝で寄ってきた。
「……ばかじゃないの」
押し殺した声だった。
「ここ、どこだかわかってる? 通路には、見張りがいっぱいいるんだよ。見つかったら、ケンジさんもここに入れられるの。今度こそ、言い訳なんて誰も聞いてくれないんだから」
「すみません」
「すみません、じゃなくて」
ルルは、鉄格子をつかんだ。紋様が、細い指の下でかすかに光った。
「どうやって、入ってきたの」
「下水道からです。孤児院の子たちに、道を教えてもらいました」
ルルの目が、まん丸になった。
「ジャノたち?」
「はい。そのかわり、円盤遊びにつきあわされて、晩ごはんのパンを十二口とられました」
ルルは、ぽかんと口を開けた。
それから、慌てて両手で口を押さえた。肩が、小刻みに震えている。笑いをこらえているのだと気づくまでに、少しかかった。
「……十二口って。ケンジさん、へたすぎ」
「最初は、浮かせることもできなかったので」
「もう。あの子たち、シスターにばれたら、すっごく怒られるのに」
「シスターは、知ってました。わたしは何も聞いていません、何も見ていません、って」
ルルは、口を押さえていた手を、ゆっくりと下ろした。
「……シスターらしいね」
「パンは、結局、返してもらいました」
「返して?」
「ひと口ずつ受け取って、それを自分のパンにくっつけて、僕の皿に戻してきたんです。おなかを空かせてる人がいたら、パンを半分あげるの、ルル姉ちゃんがいつもそう言ってたから、って」
ルルは、何も言わなかった。
ただ、膝の上に下ろした手を、ぎゅっと握りしめた。
「……コレットでしょ、それ言ったの」
「はい」
「あの子、すぐ、わたしの真似するんだから」
声が、少しだけ揺れていた。
その目が、健司の右の手首で止まった。
色のあせた赤いリボンは、泥と血で、すっかり汚れていた。
「それ、まだ巻いてたの」
「……返したほうが、いいですか」
「いいよ。持ってて」
ルルは、少しだけ口をとがらせた。
「でも、ハンカチは汚れるためにあるけど、リボンは、そうじゃないんだからね」
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健司は、鉄格子越しに、ルルの顔をまっすぐに見た。
「話さなきゃいけないことがあって、来ました」
ルルの顔から、笑みが消えた。
「王様の前で、僕は、やっていませんと言いました」
健司は、膝の上で拳を握りしめた。
「本当のことを言うつもりでした。全部話しますって、約束したのに。口を開いたら、出てきたのは嘘でした」
ルルは、何も言わなかった。
「火刑だと言われて、怖くなったんです。村が燃えたときの白い光を思い出して、自分があの中で焼かれるところを考えてしまって。気づいたら、口が勝手に」
言いながら、喉の奥が焼けるように痛んだ。
「怖かったから、嘘をつきました。そのせいで、ルルさんが」
「知ってたよ」
静かな声だった。
「嘘だってことは、知ってた。あのとき、ケンジさんの声、震えてたもん」
ルルは、鉄格子に額を寄せた。
「でも、どうしてなのかは、わからなかった。……そっか。怖かったんだ」
「約束を、破りました」
健司は、石の床に額がつくほど、頭を下げた。
「ごめんなさい」
長い沈黙が落ちた。遠くで、さいころの転がる音がした。
「……顔、上げて」
健司は、顔を上げた。
ルルは、膝を抱えなおしていた。その膝の上で、細い指がぎゅっと組み合わされている。指先が、かすかに震えていた。
「わたしもね、怖いよ」
ぽつりと、ルルは言った。
「火あぶりなんて、怖いに決まってるじゃない」
健司は、何も言えなかった。
「……それを言いに来たの? わざわざ、下水道を通って?」
「それと、もうひとつ」
健司は、懐の鏡に手を触れた。
「ここまで来るのに、『全能』を使いました」
ルルが、小さく息をのんだ。
「見張りの前を通るのに、空気の温度を変えて、松明の陽炎に紛れたんです。わからないものは、ひとつも使いませんでした。マナも使わずに、自分でわかっていることだけで説明して、最後まで通りました」
「……説明、できたんだ」
ルルは、しばらく健司の顔を見つめていた。
それから、ふっと目元をゆるめた。
「よかったね」
明後日には焼かれるという場所で、ルルはそう言って笑った。
「今の顔。馬車の上で、研究の話をしてたときと、同じ顔してた」
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「ここから、出ましょう」
健司は、鉄格子をつかんだ。
冷たかった。指の下で、紋様が脈を打つように、淡く光った。
健司は、牢のまわりを見回した。鍵穴を探した。蝶番を探した。扉の継ぎ目を探した。
どこにもなかった。
鉄格子は、床の石から生えたように、天井の石へとまっすぐに伸びている。人を入れたのなら、出す方法もあるはずだった。けれど、その方法は、目に見えるところには何ひとつなかった。
「無理だよ」
ルルが、静かに言った。
「魔封じの牢なの。中からも、外からも、魔法じゃ開かない。開けられるのは、この紋様を刻んだ人だけ。わたしも、ここに入れられてから、ずっと試してたの。七つ、全部」
健司は、紋様を見つめた。
わからないものは、よく見る。見て、真似て、ずれたところを直す。研究室で、何百回とくり返してきたことだった。
けれど、どれだけ見ても、何ひとつわからなかった。何でできているのか。何を封じているのか。なぜ光っているのかさえ。
『全能』を使うには、これを説明しなければならない。
わからないまま念じれば、もう止められない。あの夜、キャンセルだと叫んでも、何ひとつ止まらなかったように。
そして今度燃えるのは、この牢の中だ。
健司は、鉄格子を両手で握りしめて、引いた。
びくともしなかった。もう一度。肩が軋み、胸の焦げ跡が裂けるように痛んだ。手のひらの皮がむけて、鉄が血でぬるりと滑った。
それでも、鉄格子は、ほんのわずかも動かなかった。
健司は、頭の中で、手当たりしだいに方法を並べた。
床を掘る。床の石にも、同じ紋様が刻まれている。
見張りから鍵を奪う。鍵穴が、そもそもない。
王様に、もう一度訴える。女神の前で嘘をついた男の言葉を、誰が聞くというのか。
ひとつ並べるたびに、ひとつ消えていった。研究室で、行き詰まった実験の手順を書き出していた夜と同じだった。ただ、あのころは、まだ明日があった。
「ケンジさん」
ルルの手が、鉄格子の内側から、健司の手に重なった。
「もう、いいよ」
健司は、手を離せなかった。
村を焼くことはできたのに。見張りの目を欺くことも、できたのに。目の前の、この子ひとりを、ここから出すことができない。
なんでもできる力を、もらったはずだった。
「……仕方ないよ」
ルルは、少しだけ笑った。
「わたし、こういうの、慣れてるから。何を言っても、どうにもならないこと」
その笑い方を、健司は知っていた。
パンを盗んだと疑われて、何を言っても信じてもらえなかった子の、笑い方だった。
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通路のほうで、椅子が大きくきしんだ。
「おい。そろそろ、奥の見回りの時間だぞ」
「あと一回振ってからでいいだろ」
ルルの手が、ぱっと離れた。
「行って」
「でも」
「見回りが来る。しゃべり声で、ばれちゃう」
ルルは、鉄格子の奥へ膝で下がった。
「行って。……ばか」
最後の一言は、ほとんど声になっていなかった。
健司は、立ち上がった。足が、自分のものではないように重かった。
横道の入り口の陰で、健司は鏡を取り出した。
(鏡のまわりに、陽炎を)
【事象の定義を開始します:空気の温度分布の変更】
【以下の項目について説明を求めます】
【残り時間:5:00】
さっきと同じ説明を、さっきと同じ順番で、唇だけで並べていく。
【承認:熱源の指定】
【承認:対象範囲の指定】
【承認:温度分布の定義】
【承認:持続条件の定義】
【全項目が承認されました。事象を実行します】
鏡を押し出し、低くかがんで、その後ろにつく。
来るときには、あれほど遠かった四歩だった。
「……なあ」
机のほうから、聞き覚えのある声がした。
「やっぱり、あっちの壁、揺れてねえか」
「だから、松明の熱だって」
「なんか、また暑くなってきたな。誰だよ、油足したの」
「おまえ、まだ負けがこんでんのか。目までおかしくなってんだよ」
笑い声が起こった。
健司は、笑えなかった。
小部屋の陰に転がりこんだとき、背後で、重い足音が横道へ入っていった。
「異常なし、っと」
間延びした声が、紋様の光る通路に響いた。ルルは、何も答えなかった。
健司は、錆びた格子のすき間に、腹ばいで体を押しこんだ。
下水道を逆にたどって、石の蓋を押し上げたとき、空は白みはじめていた。
孤児院の扉を開けると、かまどの火が、まだ小さく燃えていた。
シスターが、椅子に座ったまま、繕いものを膝にのせていた。一晩じゅう、そこにいたのだとわかった。
シスターは、何も聞かなかった。
健司の血だらけの手を見て、それから顔を見て、黙って立ち上がり、鍋を火にかけた。
健司は、かまどの前に座りこんだ。
しばらくして、目の前に、湯気の立つ椀が差し出された。
健司は、両手でそれを受け取った。傷だらけの手のひらに、椀の熱がしみた。
ひと口すすった。昨日と同じスープのはずなのに、何の味もしなかった。
椀を膝に下ろして、皮のむけた手のひらを見下ろした。
なんでもできるはずの手は、鉄格子一本、動かせなかった。
あと、一日と半分。
懐の中で、鏡がひやりと冷たかった。
助け出すことはできませんでした……。
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