『全能』1章17話 陽炎(17)
『全能』第17話
入ってすぐ、まっすぐ。
下水道の中は、まったくの闇だった。
石の蓋のすき間から差していた月明かりは、十歩も進まないうちに届かなくなった。健司は右手を壁にあてて、すり足で進んだ。指先に、ぬるりとした苔の感触がある。足首のあたりを、冷たい水が流れていく。
目は、何の役にも立たなかった。
そのかわり、健司は歩数を数えた。壁の継ぎ目に指が触れるたびに、頭の中に印をつけた。研究室の暗室で、手探りで装置を組んだときと同じだ。見えないなら、ほかのもので測ればいい。
水の音が、大きくなった。
左。
ひとつめの分かれ道。ふたつめ。指先で、壁の切れ目を確かめる。三つめを、右。
何かが、足の甲を駆け抜けていった。ねずみだろう。健司は、喉まで出かかった声を飲みこんだ。
天井が、低くなった。腰をかがめても、頭をこすりそうになる。最後は、ほとんど這うようにして進んだ。胸の焦げ跡が石にこすれて、そのたびに息が詰まった。
どれくらい進んだのか、わからなくなりかけたころだった。
闇の先に、ぼんやりと、橙色の光がにじんだ。
鉄の格子だった。太い鉄の棒が、通路をふさぐように並んでいる。その向こうから、松明の明かりが漏れていた。
格子のいちばん下は、錆びて朽ち落ちていた。床とのあいだに、子供ならくぐれるほどのすき間がある。
健司は、腹ばいになった。肩を斜めにして、頭を押しこむ。錆びた鉄が、背中を引っかいた。息を吐ききって胸をすぼめ、どうにか体を引き抜いた。
この世界に来てから、ろくに食べていない。こけた頬が、初めて役に立った。
格子の向こうは、狭い石の小部屋だった。すぐ脇に、もうひとつ鉄格子がある。子供たちの言っていた、いちばん端の牢だろう。中は真っ暗で、何も見えなかった。
健司は足音を殺して、小部屋の出口へ近づいた。
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出口は、長い通路の端につながっていた。
声が聞こえた。ひとりやふたりではない。笑い声と、さいころの転がる音と、椅子のきしむ音。
「おい、ちゃんと見てろって言われてるだろ」
「何を見るんだよ。あの紋様の牢は、どうせ誰にも開けられねえ。あと二日、座ってりゃ終わりの仕事だ」
笑い声が、また起こった。
健司は、出口の壁に背中を押しつけた。
のぞけば、見つかる。松明に照らされた顔を、そのまま差し出すことになる。けれど、のぞかなければ、何もわからない。見張りが何人いるのか。どこにいるのか。ルルが、どこにいるのか。
どうする。
懐の中で、硬いものが胸に当たった。
考えるより先に、手が動いていた。
健司は鏡を取り出して、床に立てた。そのすぐ下に、手のひらをかざす。
おなかの下の、あたたかいもの。
鏡が、ぐらりと浮いた。
円盤よりも、ずっと重い。指一本ぶん浮いたところで、ふらふらと傾きかける。健司は息を止めて、手のひらの角度をわずかに変えた。
押し出すときは、後ろの、少し下へ。
鏡が、すうっと滑りだした。床すれすれの高さで、壁の角を越えていく。健司は手を壁の陰に残したまま、鏡の面だけを見つめた。
鏡の中に、通路が映った。
長い通路だった。左右の壁に、松明が並んでいる。いちばん奥、上へ続く階段の下に大きな机があって、そのまわりに見張りたちが座っていた。
ひとり、ふたり、と健司は数えた。八人。
通路の向かい側、ほとんど真正面の壁に、横道が口を開けていた。入り口の石に、淡く光る紋様が刻まれている。
魔法の牢だ。ルルは、たぶん、あの奥にいる。
距離は、四歩。けれどその四歩のあいだ、松明に照らされた通路を、見張りたちの目の前で横切ることになる。
「おい。今、あっちで何か光らなかったか」
机のひとりが、顔を上げた。
健司の心臓が、跳ねた。鏡が、松明の明かりを跳ね返したのだ。
受け止めるときは、通り道の下に、先に手を置いておく。
健司が手のひらを引くと、鏡は床すれすれを滑って戻り、壁の陰の手の上に、かたんと落ちた。
「松明だろ。おまえ、負けがこんで、目までおかしくなってんだよ」
笑い声が起こった。さいころの音が、また始まった。
健司は壁に背中をつけたまま、ずるずると座りこんだ。全身から、汗が噴き出していた。
手の中の鏡を、見下ろした。
鏡には、自分の顔が映っていなかった。
斜めに傾いた鏡の面には、今通ってきた小部屋の、暗い壁が映っていた。錆びた格子と、湿った石。そこに、健司の姿はなかった。
自分の顔を見つめ直すための鏡が、自分のいない景色を映していた。
健司は、息を止めた。
鏡を斜めに立てれば、その後ろにあるものは隠れる。鏡の面には、横の壁が映る。正面から見る者には、壁が続いているようにしか見えない。舞台の手品で、見たことのある仕掛けだった。
けれど、この鏡は小さすぎる。顔ひとつ隠すのがやっとだ。
健司は、顔を上げた。
通路の壁で、松明の炎が揺れていた。炎の上の空気がゆらゆらとゆがんで、その向こうの石の壁が、にじんで見える。どこまでが石で、どこからが継ぎ目なのか、形がつかめない。
陽炎。
温められた空気の中では、光がわずかに曲がる。夏のアスファルトの上で、遠くの景色が揺れて見えるのと同じだ。
陽炎で、人の姿は消せない。光が曲がるのは、ほんのわずかだ。
けれど、揺らすことならできる。
鏡のまわりの空気を温めれば、鏡の縁も、その後ろにかがんだ自分の輪郭も、松明の上の壁と同じように揺らいで見える。顔は、鏡で隠す。残りは、揺らぎに紛れさせる。
見張りたちは、この通路の壁が揺れるのを、毎晩見ている。揺れて見えるものを、人はまず、松明の熱だと思う。
説明のつくものを、人は、わざわざ見直さない。査読者たちが、健司の論文にそうしたように。
子供と同じくらいの力では、鏡はせいぜい胸の高さまでしか浮かない。
それなら、自分が低くなればいい。
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けれど、空気を温めるには、『全能』がいる。
そう思ったとたん、右手が震えだした。白い光。夜空に噴き上がる炎の柱。
熱を作るには、エネルギーがいる。その出どころを問われたら、またあの赤い表示が出る。マナ。わからないもの。あの夜、村を焼いた数字。
健司は、鏡の角度を変えて、もう一度のぞいた。
今度は、自分の顔が映っていた。汗と泥にまみれた、ひどい顔だった。
嘘をつきそうになったり、判断に困ったときは。
本当に、わかっているのか。
鏡の中の男に、健司は問いかけた。自分にだけは、嘘をつかない。
熱は、作らなくていい。
もう、そこにある。
松明の炎は、絶えず熱を吐き出している。その熱は、炎の上の空気を温めて天井へ昇り、冷たい石に吸われて消えていく。誰の役にも立たずに、捨てられていく熱だ。
熱は、温かいほうから冷たいほうへ流れる。放っておいても、そうなる。その流れる先を少し変えるだけなら、新しいエネルギーはいらない。
何も足さない。何も作らない。わかっていることだけで、組み立てる。
わからないものは、使わない。
健司は、鏡の下に右手をかざした。指先は、まだ震えていた。それでも、手を引っこめなかった。
(鏡のまわりに、陽炎を)
念じた瞬間、視界いっぱいに、半透明のウィンドウが開いた。
【事象の定義を開始します:空気の温度分布の変更】
【以下の項目について説明を求めます】
【残り時間:5:00】
対象範囲。熱源。温度の分布。持続の条件。
健司は、唇だけを動かした。
「熱源は、通路のこちら側の端の、松明二本。炎から天井へ昇っていく熱の、半分を使う。新しい熱は作らない。流れる先を変えるだけだ」
【承認:熱源の指定】
「流す先は、この鏡のまわり。鏡を中心に、両腕を広げたくらいの幅。鏡が動けば、いっしょに動く」
【承認:対象範囲の指定】
「温度は、鏡のすぐそばを、まわりの空気より三十度高く。外へ向かうほど、なめらかに下げる。どこにも、境目は作らない」
温かい空気は薄くなり、光はそこを速く進む。速さの違う空気の中を通るとき、光は冷たいほうへ曲がる。曲がるのは、ほんのわずかだ。それでも、温度のむらが揺れれば、その向こうの景色も揺れる。二十歩先から見る目に、松明の陽炎と見分けがつかなければ、それで足りる。
【承認:温度分布の定義】
そのとき、椅子を引く音がした。
足音が、こちらへ近づいてくる。ひとり。のんびりとした、重い足音だった。
残り二分十秒。
健司は、ウィンドウから目を離さなかった。
「持続は、百を数えるあいだ。終わったら、熱の流れを元に戻す。松明の炎そのものには、触れない」
【承認:持続条件の定義】
足音が、近い。
健司は息を詰めて、ウィンドウの中央を見つめた。
あの赤い表示が、来るはずだった。
来なかった。
【全項目が承認されました。事象を実行します】
残り時間は、一分四十秒だった。
鏡のまわりの空気が、ふっと揺らいだ。頬に、ほのかな熱が触れる。通路の端の松明の炎が、わずかに横へなびいた。
足音が、すぐそこで止まった。
「……なんだ、こっち。やけに暑いな」
男は、首筋をぼりぼりとかいた。
「松明の油、足しすぎたんじゃねえのか」
ぶつぶつとつぶやきながら、足音は遠ざかっていった。
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百のうち、二十はもう過ぎていた。
健司は体を低くかがめ、浮かせた鏡の面を、斜めに傾けた。通路の脇の壁が、机のほうへ映るように。そして、手のひらでそっと押し出し、そのすぐ後ろについて、壁の陰から通路へ出た。
松明の明かりが、背中を照らした。
机のほうは、見えなかった。目の前には、鏡の裏の、擦り切れた木の縁があるだけだ。そのまわりの空気が、ゆらゆらと揺れている。
こちらから見えないということは、向こうからも見えないということだ。光の通り道は、行きも帰りも変わらない。
そう、わかっていた。わかっていても、膝が震えた。
一歩。
さいころの音が聞こえる。誰かが笑っている。
二歩。
鏡が、ぐらりと傾いた。健司は、手のひらの角度をそっと直した。力は込めない。流れてくるものを、通り道に置いておくだけ。
「……なあ」
机のほうから、声がした。
「あっちの壁、なんか揺れてねえか」
健司は、動きを止めた。
「松明の熱だろ。さっきあいつも、暑いって言ってたじゃねえか」
「そうか」
さいころが、また転がった。
三歩。四歩。
横道の入り口の、淡く光る紋様が、すぐ横を流れていった。
壁の陰に入ったところで、健司は鏡を手のひらに受け止めた。そのまま石の壁にもたれて、音を立てないように、長い息を吐いた。
九十八、九十九、百。
頬に触れていたかすかな熱が、すっと引いた。通路の向こうで、松明の炎が、まっすぐ上へ立ち直った。
健司は、手の中の鏡をのぞいた。
自分の顔が、映っていた。汗と泥にまみれて、目ばかりがぎらぎらしている。
健司は、目をそらさなかった。
ゲームの勘にも、わからない数字にも頼らずに、最後まで説明しきった。この世界に来て、初めてのことだった。
横道は、奥へまっすぐ続いていた。壁一面に、淡く光る紋様が刻まれている。
突き当たりに、牢がひとつだけあった。
光る紋様の刻まれた鉄格子の向こうで、小さな影が、膝を抱えて座っていた。
帽子は、なかった。葡萄酒色の長い髪が、肩に落ちている。襟元に、リボンはなかった。
影が、ゆっくりと顔を上げた。
金色の瞳が、大きく見開かれた。
「……どうして」
鏡と陽炎で見張りを欺き、ルルの牢までたどり着きました。
説明しきったのは、この世界に来て初めてですね。
ブックマーク、よろしくお願いします。
2章以降は19時30分ごろ毎日更新予定です。




