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『全能』  作者: 朝霧なぎ
1章 リジェクト
17/31

『全能』1章17話 陽炎(17)

『全能』第17話

 

 入ってすぐ、まっすぐ。


 下水道の中は、まったくの闇だった。


 石の蓋のすき間から差していた月明かりは、十歩も進まないうちに届かなくなった。健司は右手を壁にあてて、すり足で進んだ。指先に、ぬるりとした苔の感触がある。足首のあたりを、冷たい水が流れていく。


 目は、何の役にも立たなかった。


 そのかわり、健司は歩数を数えた。壁の継ぎ目に指が触れるたびに、頭の中に印をつけた。研究室の暗室で、手探りで装置を組んだときと同じだ。見えないなら、ほかのもので測ればいい。


 水の音が、大きくなった。


 左。


 ひとつめの分かれ道。ふたつめ。指先で、壁の切れ目を確かめる。三つめを、右。


 何かが、足の甲を駆け抜けていった。ねずみだろう。健司は、喉まで出かかった声を飲みこんだ。


 天井が、低くなった。腰をかがめても、頭をこすりそうになる。最後は、ほとんど這うようにして進んだ。胸の焦げ跡が石にこすれて、そのたびに息が詰まった。


 どれくらい進んだのか、わからなくなりかけたころだった。


 闇の先に、ぼんやりと、橙色の光がにじんだ。


 鉄の格子だった。太い鉄の棒が、通路をふさぐように並んでいる。その向こうから、松明の明かりが漏れていた。


 格子のいちばん下は、錆びて朽ち落ちていた。床とのあいだに、子供ならくぐれるほどのすき間がある。


 健司は、腹ばいになった。肩を斜めにして、頭を押しこむ。錆びた鉄が、背中を引っかいた。息を吐ききって胸をすぼめ、どうにか体を引き抜いた。


 この世界に来てから、ろくに食べていない。こけた頬が、初めて役に立った。


 格子の向こうは、狭い石の小部屋だった。すぐ脇に、もうひとつ鉄格子がある。子供たちの言っていた、いちばん端の牢だろう。中は真っ暗で、何も見えなかった。


 健司は足音を殺して、小部屋の出口へ近づいた。


 ----------------


 出口は、長い通路の端につながっていた。


 声が聞こえた。ひとりやふたりではない。笑い声と、さいころの転がる音と、椅子のきしむ音。


「おい、ちゃんと見てろって言われてるだろ」


「何を見るんだよ。あの紋様の牢は、どうせ誰にも開けられねえ。あと二日、座ってりゃ終わりの仕事だ」


 笑い声が、また起こった。


 健司は、出口の壁に背中を押しつけた。


 のぞけば、見つかる。松明に照らされた顔を、そのまま差し出すことになる。けれど、のぞかなければ、何もわからない。見張りが何人いるのか。どこにいるのか。ルルが、どこにいるのか。


 どうする。


 懐の中で、硬いものが胸に当たった。


 考えるより先に、手が動いていた。


 健司は鏡を取り出して、床に立てた。そのすぐ下に、手のひらをかざす。


 おなかの下の、あたたかいもの。


 鏡が、ぐらりと浮いた。


 円盤よりも、ずっと重い。指一本ぶん浮いたところで、ふらふらと傾きかける。健司は息を止めて、手のひらの角度をわずかに変えた。


 押し出すときは、後ろの、少し下へ。


 鏡が、すうっと滑りだした。床すれすれの高さで、壁の角を越えていく。健司は手を壁の陰に残したまま、鏡の面だけを見つめた。


 鏡の中に、通路が映った。


 長い通路だった。左右の壁に、松明が並んでいる。いちばん奥、上へ続く階段の下に大きな机があって、そのまわりに見張りたちが座っていた。


 ひとり、ふたり、と健司は数えた。八人。


 通路の向かい側、ほとんど真正面の壁に、横道が口を開けていた。入り口の石に、淡く光る紋様が刻まれている。


 魔法の牢だ。ルルは、たぶん、あの奥にいる。


 距離は、四歩。けれどその四歩のあいだ、松明に照らされた通路を、見張りたちの目の前で横切ることになる。


「おい。今、あっちで何か光らなかったか」


 机のひとりが、顔を上げた。


 健司の心臓が、跳ねた。鏡が、松明の明かりを跳ね返したのだ。


 受け止めるときは、通り道の下に、先に手を置いておく。


 健司が手のひらを引くと、鏡は床すれすれを滑って戻り、壁の陰の手の上に、かたんと落ちた。


「松明だろ。おまえ、負けがこんで、目までおかしくなってんだよ」


 笑い声が起こった。さいころの音が、また始まった。


 健司は壁に背中をつけたまま、ずるずると座りこんだ。全身から、汗が噴き出していた。


 手の中の鏡を、見下ろした。


 鏡には、自分の顔が映っていなかった。


 斜めに傾いた鏡の面には、今通ってきた小部屋の、暗い壁が映っていた。錆びた格子と、湿った石。そこに、健司の姿はなかった。


 自分の顔を見つめ直すための鏡が、自分のいない景色を映していた。


 健司は、息を止めた。


 鏡を斜めに立てれば、その後ろにあるものは隠れる。鏡の面には、横の壁が映る。正面から見る者には、壁が続いているようにしか見えない。舞台の手品で、見たことのある仕掛けだった。


 けれど、この鏡は小さすぎる。顔ひとつ隠すのがやっとだ。


 健司は、顔を上げた。


 通路の壁で、松明の炎が揺れていた。炎の上の空気がゆらゆらとゆがんで、その向こうの石の壁が、にじんで見える。どこまでが石で、どこからが継ぎ目なのか、形がつかめない。


 陽炎。


 温められた空気の中では、光がわずかに曲がる。夏のアスファルトの上で、遠くの景色が揺れて見えるのと同じだ。


 陽炎で、人の姿は消せない。光が曲がるのは、ほんのわずかだ。


 けれど、揺らすことならできる。


 鏡のまわりの空気を温めれば、鏡の縁も、その後ろにかがんだ自分の輪郭も、松明の上の壁と同じように揺らいで見える。顔は、鏡で隠す。残りは、揺らぎに紛れさせる。


 見張りたちは、この通路の壁が揺れるのを、毎晩見ている。揺れて見えるものを、人はまず、松明の熱だと思う。


 説明のつくものを、人は、わざわざ見直さない。査読者たちが、健司の論文にそうしたように。


 子供と同じくらいの力では、鏡はせいぜい胸の高さまでしか浮かない。


 それなら、自分が低くなればいい。


 ----------------


 けれど、空気を温めるには、『全能』がいる。


 そう思ったとたん、右手が震えだした。白い光。夜空に噴き上がる炎の柱。


 熱を作るには、エネルギーがいる。その出どころを問われたら、またあの赤い表示が出る。マナ。わからないもの。あの夜、村を焼いた数字。


 健司は、鏡の角度を変えて、もう一度のぞいた。


 今度は、自分の顔が映っていた。汗と泥にまみれた、ひどい顔だった。


 嘘をつきそうになったり、判断に困ったときは。


 本当に、わかっているのか。


 鏡の中の男に、健司は問いかけた。自分にだけは、嘘をつかない。


 熱は、作らなくていい。


 もう、そこにある。


 松明の炎は、絶えず熱を吐き出している。その熱は、炎の上の空気を温めて天井へ昇り、冷たい石に吸われて消えていく。誰の役にも立たずに、捨てられていく熱だ。


 熱は、温かいほうから冷たいほうへ流れる。放っておいても、そうなる。その流れる先を少し変えるだけなら、新しいエネルギーはいらない。


 何も足さない。何も作らない。わかっていることだけで、組み立てる。


 わからないものは、使わない。


 健司は、鏡の下に右手をかざした。指先は、まだ震えていた。それでも、手を引っこめなかった。


(鏡のまわりに、陽炎を)


 念じた瞬間、視界いっぱいに、半透明のウィンドウが開いた。


【事象の定義を開始します:空気の温度分布の変更】


【以下の項目について説明を求めます】


【残り時間:5:00】


 対象範囲。熱源。温度の分布。持続の条件。


 健司は、唇だけを動かした。


「熱源は、通路のこちら側の端の、松明二本。炎から天井へ昇っていく熱の、半分を使う。新しい熱は作らない。流れる先を変えるだけだ」


【承認:熱源の指定】


「流す先は、この鏡のまわり。鏡を中心に、両腕を広げたくらいの幅。鏡が動けば、いっしょに動く」


【承認:対象範囲の指定】


「温度は、鏡のすぐそばを、まわりの空気より三十度高く。外へ向かうほど、なめらかに下げる。どこにも、境目は作らない」


 温かい空気は薄くなり、光はそこを速く進む。速さの違う空気の中を通るとき、光は冷たいほうへ曲がる。曲がるのは、ほんのわずかだ。それでも、温度のむらが揺れれば、その向こうの景色も揺れる。二十歩先から見る目に、松明の陽炎と見分けがつかなければ、それで足りる。


【承認:温度分布の定義】


 そのとき、椅子を引く音がした。


 足音が、こちらへ近づいてくる。ひとり。のんびりとした、重い足音だった。


 残り二分十秒。


 健司は、ウィンドウから目を離さなかった。


「持続は、百を数えるあいだ。終わったら、熱の流れを元に戻す。松明の炎そのものには、触れない」


【承認:持続条件の定義】


 足音が、近い。


 健司は息を詰めて、ウィンドウの中央を見つめた。


 あの赤い表示が、来るはずだった。


 来なかった。


【全項目が承認されました。事象を実行します】


 残り時間は、一分四十秒だった。


 鏡のまわりの空気が、ふっと揺らいだ。頬に、ほのかな熱が触れる。通路の端の松明の炎が、わずかに横へなびいた。


 足音が、すぐそこで止まった。


「……なんだ、こっち。やけに暑いな」


 男は、首筋をぼりぼりとかいた。


「松明の油、足しすぎたんじゃねえのか」


 ぶつぶつとつぶやきながら、足音は遠ざかっていった。


 ----------------


 百のうち、二十はもう過ぎていた。


 健司は体を低くかがめ、浮かせた鏡の面を、斜めに傾けた。通路の脇の壁が、机のほうへ映るように。そして、手のひらでそっと押し出し、そのすぐ後ろについて、壁の陰から通路へ出た。


 松明の明かりが、背中を照らした。


 机のほうは、見えなかった。目の前には、鏡の裏の、擦り切れた木の縁があるだけだ。そのまわりの空気が、ゆらゆらと揺れている。


 こちらから見えないということは、向こうからも見えないということだ。光の通り道は、行きも帰りも変わらない。


 そう、わかっていた。わかっていても、膝が震えた。


 一歩。


 さいころの音が聞こえる。誰かが笑っている。


 二歩。


 鏡が、ぐらりと傾いた。健司は、手のひらの角度をそっと直した。力は込めない。流れてくるものを、通り道に置いておくだけ。


「……なあ」


 机のほうから、声がした。


「あっちの壁、なんか揺れてねえか」


 健司は、動きを止めた。


「松明の熱だろ。さっきあいつも、暑いって言ってたじゃねえか」


「そうか」


 さいころが、また転がった。


 三歩。四歩。


 横道の入り口の、淡く光る紋様が、すぐ横を流れていった。


 壁の陰に入ったところで、健司は鏡を手のひらに受け止めた。そのまま石の壁にもたれて、音を立てないように、長い息を吐いた。


 九十八、九十九、百。


 頬に触れていたかすかな熱が、すっと引いた。通路の向こうで、松明の炎が、まっすぐ上へ立ち直った。


 健司は、手の中の鏡をのぞいた。


 自分の顔が、映っていた。汗と泥にまみれて、目ばかりがぎらぎらしている。


 健司は、目をそらさなかった。


 ゲームの勘にも、わからない数字にも頼らずに、最後まで説明しきった。この世界に来て、初めてのことだった。


 横道は、奥へまっすぐ続いていた。壁一面に、淡く光る紋様が刻まれている。


 突き当たりに、牢がひとつだけあった。


 光る紋様の刻まれた鉄格子の向こうで、小さな影が、膝を抱えて座っていた。


 帽子は、なかった。葡萄酒色の長い髪が、肩に落ちている。襟元に、リボンはなかった。


 影が、ゆっくりと顔を上げた。


 金色の瞳が、大きく見開かれた。


「……どうして」


鏡と陽炎で見張りを欺き、ルルの牢までたどり着きました。


説明しきったのは、この世界に来て初めてですね。


ブックマーク、よろしくお願いします。


2章以降は19時30分ごろ毎日更新予定です。

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