『全能』1章14話 頼みごと(14)
『全能』第14話
南へ下るにつれて、王都の顔が変わっていった。
石畳が途切れ、踏み固められた土の道になる。道幅が狭くなり、建物と建物の隙間に、つぎはぎの板を打ちつけただけの小屋がひしめきはじめる。頭の上には、洗濯物を干した縄が何本も渡されていて、朝の光をまだらに遮っていた。
どぶのにおいがした。煮炊きの煙と、腐りかけた野菜と、湿った藁のにおいも混じっている。
王都の南の、スラムだった。
軒先に座りこんだ老人が、焦点の合わない目で通りを眺めている。裸足の子供が三人、健司の横を駆け抜けていった。そのうちのひとりが、立ち止まって振り返り、健司の手元をじっと見た。何か食べ物を持っていないか、確かめる目だった。
パンがひとつ消えると、大騒ぎになるの。
荷馬車の上で、ルルはそう言っていた。
健司は、路地の入り口で足を止めた。
城のある大通りとは、まるで別の街だった。それでも、ここもたしかに同じ王都なのだ。ルルは、この路地のどこかで育った。
井戸端で洗い物をしていた女に、孤児院の場所を尋ねた。女は健司の破れたスウェットをじろりと見て、それから黙って路地の奥を指さした。
「突き当たりを右。白い壁の、ちっちゃい建物だよ」
礼を言って歩きだすと、背中に声が飛んできた。
「あんた、あそこに何の用だい。今日はやめときな。あそこの子が、火あぶりになるって話でね。みんな、それどころじゃないよ」
健司は、振り返れなかった。
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突き当たりを右に曲がると、その建物があった。
白い漆喰の壁は、ところどころはがれて、下の土壁がのぞいている。屋根の上に、小さな木の聖印がひとつ。扉の前には、ちっぽけな菜園があった。
その菜園の前で、子供たちが何かをしていた。
五人。いちばん大きな男の子でも、ニナよりいくつか上くらいだろうか。輪になってしゃがみこみ、真ん中の地面を、じっと見つめている。
地面から、木の円盤がふわりと浮いていた。
皿ほどの大きさの、薄い板だった。手で支えているわけでもないのに、子供たちの輪の真ん中で、くるくると回りながら、膝の高さに浮かんでいる。
健司は、思わず足を止めた。
糸も、風もない。それなのに、円盤はぶれることなく、同じ高さを保って回り続けている。こんな状況だというのに、研究者の頭が、どうやって浮いているのかを勝手に考えはじめていた。
その気配に、子供たちがいっせいに振り返った。円盤が、ぽとりと地面に落ちた。
「あ、落ちた」
「おまえが急に来るからだぞ」
いちばん大きな男の子が立ち上がり、健司をにらみつけた。日に焼けた顔に、生意気そうな目つきをしている。
「なんだよ、おっさん。ここは孤児院だぞ。食いもんなら、ないからな」
「ジャノ。お客さまに失礼でしょう」
男の子の後ろから、女の子がぴしゃりと言った。ジャノと呼ばれた男の子が、口をとがらせる。
健司は、乾いた唇を開いた。
「……ルルさんの、知り合いです」
空気が、変わった。
五人の顔から、表情が抜け落ちた。いちばん小さな男の子が、隣の女の子の服の裾をぎゅっとつかんだ。
「ルル姉ちゃんの?」
小さな男の子が、震える声で言った。
「ねえ。ルル姉ちゃん、帰ってくる? 火あぶりになるって、ほんと?」
健司は、答えられなかった。
扉が、きしんで開いた。
「ノエ。泣かないの」
出てきたのは、灰色の修道服を着た、小柄な老女だった。白いものの混じった髪を頭巾に包み、目尻に深いしわを刻んでいる。手には、木のお玉を持ったままだった。
「中にお入りなさい。ちょうど、スープが煮えたところです」
老女は、健司の顔を見て、それから右の手首に目を落とした。
その目が、わずかに見開かれた。
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孤児院の中は、外から見るよりもさらに狭かった。
長い木の机がひとつと、壁ぎわに積み上げられた寝藁。奥のかまどで、鍋がことことと音を立てている。
シスターは健司を机の端に座らせると、子供たちを表の菜園へ追い出した。それから、スープの椀とパンをひとつ、健司の前に置いた。
「そのリボン」
向かいに腰を下ろして、シスターは静かに言った。
「わたしが、あの子に縫ってあげたものです。魔法学校に入る日に。襟元に結んで、よく似合うと言ったら、あの子、真っ赤になって」
健司は、自分の右手首を見下ろした。
色のあせた、赤いリボン。指の間でくしゃくしゃに潰れて、端がほつれかけている。
「あの子は、自分のものを人にあげる子ではありません。パンなら、いくらでも半分にしますけれど」
シスターの目が、健司を見た。責める目ではなかった。ただ、じっと、健司の奥にあるものを見ようとしているようだった。
「あなたが、放免された方ですね」
健司の喉が、ひくりと動いた。
お触れは、もうスラムにまで届いているのだ。村を焼いた疑いをかけられ、魔力の砂で放免された男。その代わりに、ルルたちが死罪になった。
「……はい」
「そうですか」
シスターは、それ以上は何も聞かなかった。
「冷めないうちに、お食べなさい」
健司は、椀を見つめた。
受け取れない、と思った。あの夜と同じように。自分には、そんな資格はない。
けれど、そのとき、耳の奥で声がした。
ご飯を食べるのに、資格なんていらないでしょう。
だから、捨てさせないで。
健司は、両手で椀を持ち上げた。
「……いただきます」
スープは、あたたかかった。根菜と豆を煮込んだだけの、素朴な味だった。それなのに、塩気がちょうどよくて、体の芯までしみていく。
スープもおいしいんだから。
得意げに言ったルルの声を、思い出した。
健司は、椀が空になるまで、顔を上げなかった。
シスターは、その様子を黙って見ていた。
「あの子も、小さいころは、そうやって食べていました」
ぽつりと、シスターが言った。
「誰にも取られないように、椀を抱えこんで。ひと口も、こぼさないように」
人に頼みごとをするのは、昔から苦手だった。けれど、もう、迷っている時間はなかった。
「シスター」
空の椀を置いて、健司は言った。
「ルルさんを、助けたいんです」
シスターの手が、膝の上で小さく握られた。
「城の中に、入る方法を知りませんか。地下牢でも、どこでもいい。どんな細い道でもいいんです」
シスターは、長いあいだ黙っていた。
それから、ゆっくりと首を振った。
「わたしたちのような者が、お城の中のことなど、知るはずがありません」
静かな声だった。
「知っていれば、とうに、わたしが行っています」
シスターは、窓の外に目をやった。菜園の向こうで、子供たちの声がしている。
「あの子は、昔からそうでした。誰かがお腹を空かせていると、自分の分を差し出してしまう。誰かが疑われていると、自分のことのように怒る。……今度も、きっとそうなのでしょう」
シスターは、それ以上は言わなかった。言わなくても、健司にはわかった。
今度の誰かは、自分だった。
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孤児院の裏の、井戸の縁に腰かけて、健司はぼんやりと空を見上げていた。
日は、もう高くなりはじめている。
あと、二日半もない。
城に入る道は、ない。誰も知らない。仮に入れたとして、自分に何ができる。魔力は、一般人程度。剣も使えない。
力なら、ある。
けれど、右手をかざそうとしただけで、指先が震えだす。白い光が、まぶたの裏で弾ける。
健司は、膝の上で両手を握りしめた。
「おい、おっさん」
声がして、顔を上げた。
ジャノだった。後ろに、ほかの四人がくっついている。しっかり者らしい女の子と、さっき泣きそうになっていた小さな男の子。それに、男の子がもう二人。
「城に、忍びこみたいんだろ」
健司は、目を見開いた。
「さっき、シスターと話してたの、聞いてた」
ジャノは、悪びれもせずに言った。女の子が、ジャノの頭を小突く。
「コレット、いてえって」
「盗み聞きは、悪いことです」
コレットと呼ばれた女の子は、つんとすましてから、健司に向き直った。
「でも、わたしたちも、ルル姉ちゃんを助けたいです」
ジャノが、にやりと笑った。
「地下牢にさ、傭兵のおっさんがいるんだよ」
「傭兵?」
「うん。そいつが、すげえ話をしてくれるんだ」
「絵本みたいなお話なの」
コレットが、ほんの少しだけ目を輝かせた。
「勇者さまが魔物の王さまをやっつけるお話とか、星の国まで旅をするお話とか」
「竜をやっつけるやつが、いちばんおもしろい」
元気そうな男の子が、勢いこんで言った。
「ちがうよ、トマ。いちばんは、空を飛ぶお城のお話だよ」
いちばん小さなノエが、むきになって言い返す。
「どっちでもいいだろ」
ジャノが、二人の頭をまとめて押さえつけた。
地下牢に、話をしてくれる傭兵がいる。
健司は、その言葉を頭の中でくり返した。
地下牢にいる人間から、話を聞いている。つまりこの子たちは、地下牢の誰かと、言葉を交わせる場所を知っているということだ。
健司は、子供たちの顔を見回した。
そのとき、ふと気づいた。子供たちの裸足の足元から、かすかに、湿った石と下水のにおいがする。路地のどぶとは違う、地面の下にこもったようなにおいだった。
「待って。どうして、地下牢にいる人のことを、君たちが知ってるんだ」
子供たちが、顔を見合わせた。
いちばんすばしっこそうな男の子が、にいっと口の端を上げた。
ジャノが、腕を組んで胸を張る。
「教えてほしけりゃ」
井戸の縁に、ジャノの足がどんと乗った。
「おれたちと、遊んでくれよ」
遊んでる暇はあったのかな……。
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