『全能』1章13話 三日目の昼(13)
『全能』第13話
夜になっても、健司は城門の前を離れなかった。
固く閉ざされた門扉の両脇で、松明が燃えている。槍を持った門番が二人、ときどき思い出したように健司のほうを見て、また前を向いた。追い払われないのは、相手にする価値もないと思われているからだろう。
石畳に座りこんで、門を見上げる。
もしかしたら、出てくるかもしれない。
陛下が考えを改めて、隊の人たちが放免されるかもしれない。あの門が開いて、黒い帽子の小さな影が出てくるかもしれない。
そんなはずがないことは、わかっていた。わかっていても、ここを離れられなかった。
夜風が冷たかった。破れたスウェットの隙間から、熱を奪っていく。胸の焦げ跡が、脈を打つたびに疼いた。
城壁の上の窓に、ぽつぽつと灯りがともっている。あのどこかに、ルルがいるのだろうか。それとも、もっと深い、灯りの届かない場所に。
門番たちの話し声が、風に乗って聞こえてきた。
「三日後の火あぶり、見に行くか」
「百人も焼くとなりゃ、薪が足りるのかね」
笑い声が、夜に溶けていった。
健司は、両手を組んだ。
祈る相手は、ひとりしか思いつかなかった。
ちゃぶ台の上で胸を張っていた、調子のいい女神。なんでもできる力をあげる、と得意げに笑っていた顔。
女神様。
届くかどうかも、わからない。届いたとしても、あの女神に何ができるのかもわからない。それでも、祈らずにはいられなかった。
どうか、あの子を。
ルルさんを、助けてください。
僕のせいなんです。全部、僕の。
門の上で、松明がぱちりとはぜた。答えは、どこからも返ってこなかった。
組んだ両手の上に、額を押しつける。右の手首で、赤いリボンが頬に触れた。
まぶたが、重くなっていく。
寝ちゃだめだ、と思った。その思いごと、意識がゆっくりと沈んでいった。
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揺れていた。
ごとごとと、車輪が石を踏む音がする。檻の鉄格子越しに、乾いた荒野がゆっくりと流れていく。
王都へ向かう、三日目の昼だった。
「隊長殿は、また罪人のお守りか」
前を行く馬の上から、セザールの笑い声が降ってきた。
檻を積んだ荷馬車の御者台には、ルルが座っていた。手綱を握る兵士の隣で、膝の上に分厚い本を広げている。
「見張りです。罪人から目を離すわけにはいきませんから」
ルルは、本から目を上げずに答えた。セザールは鼻を鳴らして、馬を進めていった。
蹄の音が遠ざかると、ルルはぱたんと本を閉じて、御者台からくるりと振り返った。
「行った?」
「……行きました」
「よし」
ルルは御者台の背もたれに頬杖をついて、鉄格子の中をのぞきこんだ。手綱を握る兵士は、聞こえないふりをして前だけを見ている。檻の見張りをしてくれた、あの若い兵士だった。
「ねえ、ケンジさん。昨日の続き、聞かせて。ケンジさんのいたところでは、空を飛ぶ鉄の箱があるんでしょう」
「飛行機、ですか」
「ひこうき」
ルルは、確かめるように繰り返した。
「それも、説明すれば動くの?」
「説明は、いらないです。そういうふうに作ってあるので」
「ふうん。説明しないと動かない力と、説明しなくても動く箱。変なの」
ルルは、楽しそうに笑った。
この三日、ずっとこうだった。ルルは暇さえあれば御者台に座り、健司の話を聞きたがった。日本のこと。研究のこと。論文と、査読と、なかなか通らない書類のこと。健司が話すことは、どれもルルにとっては知らないことばかりらしかった。
査読の話をしたときだけ、ルルは珍しく眉を寄せた。
「いっしょうけんめい説明しても、わかってもらえないの? 何回も?」
「何回も、です」
「……ケンジさんのいたところも、大変なんだね」
あの夜と同じ言葉だった。健司は、なぜかそれが少しだけうれしかった。
「ルルさんは」
健司は、ずっと聞きたかったことを口にした。
「どうして、あの夜、ご飯を持ってきてくれたんですか」
ルルは、少しだけ黙った。
それから、荒野の向こうに目をやった。
「わたしね、孤児院の前に捨てられてたんだって」
さらりとした口調だった。
「王都の南のスラムの、ちっちゃな孤児院。生まれたばかりで、布にくるまれて、扉の前に置かれてたらしいの。持ってたのは、ルイーズって名前を縫いつけた布切れ一枚だけ」
ルルは、自分の手のひらを眺めた。
「シスターがひとりと、うるさい子たちがいっぱいいてね。みんな、いつもお腹を空かせてた。パンがひとつ消えると、大騒ぎになるの。そういうとき、真っ先に疑われるのは、だいたいわたしだった」
「どうして」
「さあ。目つきが悪かったからかな」
ルルは、冗談めかして肩をすくめた。
「わたし、やってないって言ったんだけどね。何回言っても、だめだった。誰も聞いてくれない。言えば言うほど、嘘つきって言われる。そのうち、何も言わなくなった」
健司は、黙って聞いていた。
説明しようとすればするほど、言葉が出てこなくなる。その感覚を、健司は知っていた。
「でも、シスターだけは違った。わたしの話を、最後まで聞いてくれた。それで、パンを半分ちぎって、わたしにくれたの。お腹が空いてるなら、そう言いなさいって」
ルルは、小さく笑った。
「だから、かな。お腹を空かせてる人を見ると、パンを半分あげたくなるの。それだけ」
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「魔法は、いつから」
「十歳のとき」
ルルは、指を折って数えた。
「孤児院の裏で、ちっちゃい子が井戸に落ちかけたの。とっさに手を伸ばしたら、水がぶわって持ち上がって、その子を押し戻しちゃった。それを、たまたま通りかかった魔法学校の先生が見てたんだって」
「それで、学校に」
「うん。スラムから魔法学校に入ったのは、わたしが初めてだったみたい」
ルルは、膝の上の本を撫でた。古びた革の表紙。余白には、細かな書き込みがびっしりと並んでいる。
「学校の図書室がね、すごかったの。天井まで本がぎっしり詰まってて。わたし、毎日そこに通って、片っぱしから読んだ。火の本も、水の本も、雷の本も、全部。先生には、ひとつに絞りなさいって何度も言われたけど」
「絞らなかったんですか」
「だって、どれも面白かったんだもん」
ルルは、子供みたいに口をとがらせた。
「火の本を読むと、水のことも知りたくなる。水のことがわかると、風が気になる。ひとつだけなんて、選べなかった。そしたら、全部ちょっとずつ使えるようになってた。首席で卒業できたのも、たぶん本のおかげ」
健司は、思わず小さく笑った。
わからないことがあると、知りたくなる。ひとつわかると、次が気になる。研究室にいたころの自分と、同じだった。
「ケンジさんも、そうでしょ」
ルルが、健司の顔をのぞきこんだ。
「話してるとき、ときどき、すごく楽しそうな顔する。研究の話のとき」
健司は、答えに詰まった。
そんな顔をしていたなんて、自分では気づかなかった。あの村が燃えてから、自分が何かを楽しそうに話すことなど、もう二度とないと思っていた。
荷馬車が、大きく揺れた。
健司は、鉄格子をつかんだまま、しばらく黙っていた。
それから、もうひとつ、聞きたかったことを口にした。
「ルルさんは、どうして、僕を信じてくれるんですか。僕は、村を焼いたって、自分で言ったのに」
ルルは、すぐには答えなかった。
荒野を渡る風が、ルルの長い髪を揺らした。葡萄酒のような赤紫が、日差しの中できらきらと光った。
「スラムでね、たくさん悪い人も見てきたの」
静かな声だった。
「嘘をつく人。人のものを平気で盗る人。笑いながら、誰かを踏みつける人。そういう人の目は、なんとなくわかるようになった」
ルルは、鉄格子越しに、まっすぐ健司の目を見た。
金色の瞳だった。
「だから、あなたが本当に悪い人だとは、思えないの」
健司は、何も言えなかった。
喉の奥が熱くなって、言葉の代わりに、鉄格子を握る手に力がこもった。
「……あ、でも、勘違いしないでね」
ルルが、急に慌てたように付け足した。
「村のことを許したわけじゃないよ。ちゃんと、わかるまで聞かせてもらうから。王都に着いたら、王様の前で、本当のことを全部話すんでしょう?」
「……はい」
健司は、うなずいた。
「話します。全部」
ルルは、満足そうに笑った。
「それでね、もし放免になったら。行くところ、ないでしょう」
ルルは、道の先を指さした。
「王都の南のスラムに、さっき話した孤児院があるの。ルルの知り合いだって言えば、シスターがパンくらいはくれるよ。スープもおいしいんだから。アネットさんのには負けるかもしれないけど」
健司は、目を見開いた。
アネットの名前を、この子に話したのは、一度きりだったはずだ。
「約束ね」
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冷たい石の感触で、目が覚めた。
空が、白みはじめていた。いつの間にか、城門の前の石畳に横たわって眠っていたらしい。体じゅうが、こわばって痛んだ。
城門は、閉ざされたままだった。
門番が、交代していた。新しい門番は、健司のほうを見もしなかった。
誰も、出てこなかった。
健司は、ゆっくりと体を起こした。
約束ね。
夢の中のルルの声が、まだ耳に残っていた。
全部話しますと、うなずいた。その二日後に、自分は女神の前で、やっていませんと言った。
健司は、右の手首のリボンを握りしめた。
あと、二日。
二日後の日没に、ルルは火に焼かれる。あの若い兵士も。隊の百人も。自分がついた嘘のせいで。
ここで座りこんでいても、門は開かない。
健司は、震える膝に手をついて立ち上がった。
王都の南のスラムの、ちっちゃな孤児院。
シスターがひとりと、うるさい子たちがいっぱい。
ルルの知り合いだって言えば。
パンをもらいに行くつもりはなかった。どこに行けばいいのかなんて、わからなかった。何ができるのかも、わからなかった。それでも、この王都で思い浮かぶ場所は、そこしかなかった。
ルルが育った場所。ルルを知っている人が、いる場所。
朝もやの中、健司は城に背を向けて、南へ歩きだした。
城門の前で一夜を過ごし、夢でルルとの会話を思い出しました。
スラムの孤児院へ向かう決心をしましたね。
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