【Act 1 前編プロローグ】1話 森の主
異物の臭いがする。
毛むくじゃらの巨体の蹄を土にめり込ませながら、その短く大きな鼻で地面に掘り返していた彼は、ゆっくりと柔らかいフカフカな土から頭を上げる。
これは小さき者の臭い。
重みで土を沈めながら足を踏ん張り、ブルルっと鼻から空気を抜く。
ボトボトと鼻に付いた土を落とし、再び大きく息を吸うと、土の香りに紛れた異物の臭いと共に、熟したグズグズになった果実のような臭いが鼻腔内の奥を刺した。
驚いた彼は大きく首を振る。
小さき者の臭いに、忌まわしきエルフ独特の臭いが混ざっている?
彼はイライラと土を踏みしめた。
蹄で簡単に潰れる小さき者は、チョロチョロと吠えながら自分たちに向かて来る弱き獣を連れ、当たればチクリと痛むトゲを投げてくる。
それだけでも鬱陶しいのに、更に自分たちの祖先よりも生まれて日が浅いくせに、小さき者の真似をして偉そうな振る舞いをするエルフまで居る。
その事実は彼が頭に血を上らせる理由として理に叶っていた。
最近、小さき者に仲間が何故か捕まる。
エルフのせいか。
怒りで血を湧きたてながら、ブッス、ブッス と荒く鼻を鳴らし瞳孔の開いた瞳であたりを睨みつけながら、ガサガサと枯れ草を踏みしめ脚を早める。
巨体を支える脚は短いが、確実に地面を踏みしめ加速していく。
勢いづいた巨体の横を風が音を立ててすぎ、目の前を塞ぐ腐った倒木は大きな蹄が バキリッと音を立て踏み付け、木が破片となって宙を舞う。
森の土の湿った臭いとは明らかに違う、怒りの原因であるその臭いが強くなる。
目の前、少し距離のあるその先に、臭いの元を見つけた。
小さき者の1団に、エルフの風貌が混ざっているのがわかると、彼の怒りは頂点に達した。
思考は怒りに支配され、彼はただの獣になり突進する。
森の主であるイノシシは、巨体を揺らしながら、突進する。
異変に気がついたのは、エルフの尖った耳。
金色の髪を揺らして、ピクピクと動く耳に小さな手を当てた。
「ユード。何か来る。……なんだか様子が変ね? どうしたのかしら。」
そう呟いた小さなエルフは、ワン! ワン! と興奮したように周りを走り回る犬に「静かにして。この駄犬共。」と悪態をつき、手を上空へ上げる。
何かをブツブツと唱えていた彼女は、すっと顔色を変える。
「……まずいわ……。森の主よ。精霊クラスに大きいって言っているわ!」
叫んだエルフの声に重なる様に、前方の森の奥から木をなぎ倒す様な音と共に地響きがなる。
土を巻き上げ、木をなぎ倒しながら突進してくる大きな獣、森の主であるイノシシの姿が現れた。
エルフは飛び上がって悲鳴を上げる。
「大きすぎるわ! 逃げたほうがいい!」
それを合図に、その場に居合わせた数人の鉄の鎧に身を包んだ男達は後方へと一目散に逃げだす。
ユードは、そんな彼らを気にする素振りもなく、はるか前方の巨大な森の主をじっと見つめながら、ヒザ下までの丈長の濃く染め上げられたチュニック*¹の裾を大きくめくり上げた。
生成りのタイツの上に重なるのは、黒光りする皮の脛当て(ボイルド・レザー製シュンバル*²)、ハーフパンツのような形の同じく黒光りする皮の装備(キュイス*³)。
ユードは慣れた手つきでキュイスに固定されていた鉄槌(メイス*⁴殴打用の武器)を外し、背中に担いでいた棍に取り付けると片手で大きく回転させ、先端を地面に軽く打ち下ろした。
軽快な動きとは裏腹に、地面に打ち付けられたメイスの先、金属製の球形の鉄に同じ素材の羽を4枚ほど取り付けた(フランジ)先端が、土煙を上げ、 ズシン と重い音を立ててめり込む。
「ユード!」
犬たちの吠え立てる音、周りの従者達の鎧の立てる音、その喧騒にかき消されることのない、耳慣れた声がユードを振り向かせる。
「マティ様、少し離れていてください。」
静かに、けれどよく通る低い声で話すユードの表情は見えない。だが、綺麗なブロンドの前髪が揺れ、その奥の瞳の薄いブラウンが僅かに光りを灯している。
マティ姫、と呼ばれた少女が、赤い髪を揺らしてコクリと頷くのを確認すると、ユードは再び森の主に視線を戻す。
「マティ!! ユード!!」
遠くから逃げろと言いたげに名を呼ぶ声がするが、マティはユードの側から少し離れた程度の移動にとどまり、手のひらを地面にペタリと付けた。
「おバカ! マティ! あんな巨大な精霊に俄仕込み程度の精霊をぶつけても無駄だわ! 逃げるのが得策って言ってるのに。あんた達はホント向こう見ずね!」
「おだまり。見てなさい!」
マティは近づいてくるエルフに担架を切ると地面に向けて呟いた。
「言葉は鎖。私と精霊を結ぶ。そして名前は首輪。……『つち』! ユードの援護をしてちょうだい! 」
マティの言葉に反応して、彼女の手の当たっていた地面が水面の様に波立つ。その泥の波紋の中心に、一瞬だけ契約の印である、細工の施された美しい金色のトルクの光が浮かび上がり、すぐに消えた。
「ほら! 無理だってば!」
「相変わらずお小言は大人な並だな。黙って見てろと言たはずだが?」
エルフに引っ張られて後方に移動させられながら、軽口を叩くマティの表情は固く、視線はユードから目を離れない。
ユードは、トンっと肩にメイスの柄を担ぐと、脚を大きく開いて構える。
突進してくる森の主は、近づくほどその大きさが規格外なのがわかる。
メイスを構えるユードの頭上を遥かに超える大きさで、今まさに大きな口を開いてユードに襲いかかる。
ユードは肩に担いでいたメイスのグリップを手の血管が浮き出るほど握りしめると地面と水平に振り切る。
メイスは ヴォンッ っと空気を切りながら軌道を描き、獣のこめかみに ボカン と当たると メリリッ と嫌な音を立てて沈んだ。
横からに一撃を食らった森の主は頭を激しく横に揺らし、その脚は衝撃に耐えかねて土を大きく掘り返しながら止まった。
ユードはこめかみにヒットしたメイスを支えに回転しながら飛び上がると森の主の背にドカリと乗る。
それと同時に森の主の足元の土から根がうねうねとミミズの様な動きで森の主の脚をからめ取り、森の主は頭を土にめり込ませるようにして前方に沈んだ。
ユードはタガーを森の主に当てると、素早くその首を斬り割いた。
「えっぐ……」
あんぐりと口を開けたエルフは、100年は超える経験の中でも遭遇したことのない、おそらく自分よりも長く生きたであろう精霊クラスの森の主の死を目の当たりにして、思わず呟く。
切り裂いた口から吹き出す、重く照りのある血しぶきがボトボトと周りを、そしてユードを汚ごす。
喧騒は静まり、森の主の咆哮が響いた。
悶絶する間もなく倒れた森の主から飛び降りたユードは、粘り気のあるどす黒い血が飛び散った、生成りのフリルの付きの前掛けでタガーを拭きながら、マティ達の側に戻ってくる。
「マティ様。タガーが……」
困った様子のユードが、テラリと光沢のある血糊の付いたタガーを不満そうに見せるが、小さなエルフがペチンとそのタガーを持った手を弾く。
「……当たり前でしょ! そんな血みどろの前掛けで拭いても綺麗になんてならないわよ!」
マティの横で怒っているエルフが清潔な布をユードの腹のあたりに押し付けると、その布をマティがため息を付きながら横から奪う。
「……お前はすぐに汚すな。少しは返り血を浴びない戦い方を覚えたらどう?」
マティが布を持った手をユードに向けて掲げると、ユードは掲げるその手が届く範囲に身体を屈めた。
毛の混じった白い肉片が頭からポロリ地面に落ち、プンっと鉄の錆びた臭いが立ち込める。
マティは見上げるユードの髪に光が反射してキラキラと輝くのをうっとりと見ながら、返り血だらけの頬に手を添えて、布を当てる。
「せっかくの私のかわいいエルフが、台無しだ。」
チュニック¹ :ウエストを紐などで絞り、腰から下をフレア状に広げたタイトなシルエット(ブリオー)。
ボイルド・レザー製シュンバル*² :膝の下から足首までを守る、半円筒形の「脛当て」。ズボンの上から、革紐、または皮ベルトでふくらはぎの後ろを縛って固定する。
キュイス*³ :ハーフパンツ型。ボイルド・レザーを数枚重ねた「腿の革板」を、太ももの前面から横にかけてを補強されたもの。「腿の革板」の側面に、メイスを差し込むための頑丈な革のループ(環)がリベットで打ち付けられている。
メイス*⁴ :柄の先端に金属製の重い頭部(鎚頭)を持つ、打撃に特化した近接武器。
一部文字修正(2026.10.05.)




