Scene 40 消失世界3
『学校終わったら、すぐに来い』
濁ったフィルターを隔てた向こう側で、点滅する携帯電話。
ディスプレイに映し出された文字は、そう書かれていた。
呆然と電車に揺られて、バスに乗って、昨日来た病院の前で降りた。
学校は鐘が鳴ったのと同時に出てきた。
昨日、事故に遭った未羽はしばらくこの病院に入院することになるらしい。頭を強く打ったことが原因で記憶障害の疑いが出てきたからだった。
『あのひとは、だれ?』
未羽はあたしや夏希のこと、それだけでなくこれまでの生活のことまですべて忘れていた。失われていたその記憶に焼きついていたのはたったひとり――兄である、あのひとだけだった。
これ以上、未羽のそばにいると混乱させかねないということで昨日はあのまま帰宅させられた。病院に残ったのは彼と夏希だった。
生きた心地のしないまま、眠って起きて学校に行った。頭の中は真っ白で、何をどう考えていいのかもわからなかった。
目の前はかすんだように濁っていて、この目に映るものすべてが色あせて見えた。時たま脳裏をかすめるのは未羽のやわらかな髪やあたしを呼ぶ声。
『あのひとは、だれ?』
本当は病院に行くのが怖かった。未羽に会うのが怖かった。あんな目をした未羽があたしを他人だと呼ぶのがとてつもなく恐ろしかった。
これはきっと罰なんだろう。あの一瞬、ベッドに横たわる未羽が彼を求めたあのとき、あたしは間違いなく未羽を憎んだ。あの真っ黒で汚い感情を、彼女は見透かしたのかもしれない。
後悔は死ぬほどした。家に帰ってからも、学校にいたときにも。あんなことを一瞬でも思ってしまった自分を、どうにかしてやりたかった。
そして、望むならばもう一度。
未羽があたしを名前を呼んでくれることを、祈った。
「お、来たか!」
待合室を抜けて病室に向かうところで、夏希と会った。昨日の格好のままの彼は疲れも見せずに手を振っていた。
夏希にうながされるまま、病室には入らず待合室の席に腰を下ろす。自販機で適当に買ってきたジュースを目の前に置いて、彼は口をひらいた。
「未羽のことだけど、もう大丈夫だぜ」
「え、」
「記憶、戻ってるから。やっぱ、頭ぶつけたことによる一時的なもんだったみたいだな」
飲み干した空き缶をテーブルへ置いた夏希はあたしを見てにやりと笑った。いつものように子どもっぽい、あの笑顔で。
とたんに、何かが割れてあふれだすように目の前がにじんだ。黒ずんでいた世界の色も、フィルターがかかったようにかすんでいた景色も取り戻すように涙が落ちる。
「っとに泣き虫だな、奈緒は」
人目も気にせず、あたしの肩を引き寄せた夏希はなだめるように背をなでていく。押し殺せない嗚咽はその胸に吸収されて消えていった。
よかった。ほんとうによかった。もしあのまま未羽があたしを忘れたらと思うと、頭がおかしくなってしまいそうだった。
「昨日の夜のことは覚えてねえみたいだから、俺たちの関係もまだ未羽は知らない。だから、安心していいからな」
夏希に体をあずけて、そのやさしい声に耳をかたむける。大丈夫だと何度も何度も繰り返す彼は、やっぱりお人好しだ。自分だって同じ苦しみを味わったはずなのに。
「夏希」
「ん、なんだよ?」
忘れられたまま、それでもそばにいた夏希はどれだけつらい思いをしたのだろう。見上げたその顔には、そんなもの微塵も見えなかった。
「……ううん。ありがと」
「別に? 気にすんなよ」
夏希は本当に未羽のことがすきなのだと、そう思った。
すぐにくじけてしまうあたしとは、全然違う。
ひとはこんなにも強くだれかを想うことができるのだと、彼を見て思い知った。弱いあたしを勇気つけるように、ぽんぽんと叩かれた背中。夏希と笑い合っていると、あたたかいてのひらの感触が一瞬にして消え失せた。
「……っつ、いっ!」
振り返ると、そこには大きな影。夏希の手をねじ上げた腕の持ち主は、無表情のままあたしを見下ろしていた。
「痛えじゃねえか! てめえ!」
「うるさい。ここは病院だ」
「紘くん! 夏希をはなし、」
その腕を離させようと彼に手を伸ばせば、そのままつかみとられて席から無理矢理立ち上がらされた。
「え、ちょ、……っや!」
手に走った痛みに顔をしかめる間もなく、引きずられるように寄せられる。一瞬の出来事に、なにが起こっているのかわけがわからない。
「おまえ、奈緒に何するつもりだよ」
「昨日の話の続きをするだけだ」
「ほんとうだろうな」
「当たり前だろ。それより、未羽が探していたぞ。さっさと行ってやれ。――あと」
夏希の腕を離し、あたしを引き寄せた彼は言葉をにごした。警戒心むき出しのままにかみついていた夏希が、眉間にしわを寄せて彼を見る。
「あと、なんだよ?」
「……来週には退院できるらしい。だから家に戻ったらすぐに来い。おまえの分もメシ用意してやるから」
彼の腕から逃れようともがくあたしの目に入った、夏希の顔。一瞬、まるで火が消えたようにきょとんとしたあと、夏希はにやっと笑って席を立ち上がった。
「オムライス以外にしてくれよ。いくら未羽の好物だからって、もう食いすぎて飽きたっつの。――あと」
「あと、なんだ?」
足を進めた夏希が、すれ違いざまに彼へとこぶしを振り上げる。殴り合いでもするのかと息を飲めば、そのこぶしを受け止めるように彼がてのひらを掲げていた。
「奈緒を泣かすなよ。なぐさめんのは俺の役目なんだからな」
「いいから、早く行け」
乾いた音とため息と、遠のく靴の音。顔を上げれば、頭上で彼が笑っていた。




