Scene 39 消失世界2
「接触はありませんでした。ただし車両を避けた際に頭部を強打しているようですので」
白衣を着た先生の声が、静かで真っ白な部屋に落ちる。いますぐにでも駆け出したい気持ちをぐっとこらえて、その声に耳を傾けた。
未羽が事故に遭ったと、彼はふるえる声でそう告げた。あたしは落ちた携帯電話を拾い上げて病院の場所を聞き、立ちつくすふたりを引っ張ってタクシーに乗せた。
渋滞を抜けてようやく病院に着いたころにはもうすっかり夜になっていた。病院に駆け込んだあたしたちを迎えてくれた先生は、まずは落ち着くようにと診察室に案内してくれた。
先生の口から語られたのは、事故の様子と未羽の容態。あたしと別れたあと、帰宅途中の未羽によそ見運転をしていた車が突っ込んできたらしい。幸いにも車は未羽を撥ねることなく住宅地の塀にぶつかったらしいけど、その衝撃で頭を強く打ったとのことだった。
ケガ自体は軽症。けれど頭を強く打ったことが気にかかる。二、三日入院をして、精密検査を受けてもらうと先生は落ち着いた声でいった。
「……よろしく、お願いします」
先生に力なく頭を下げる彼は、痛々しかった。夏希も同じく。
あたしもきっと同じような状態なんだろう。
先生が先に未羽の様子を見てくるということで、少しこの場で待つように言われた。用意されたイスに腰掛けるも、だれも口をひらかない。
チカチカと頭上で点滅する蛍光灯が、鼓動を押し上げて目の前をかすませる。握り締めた手にツメが食い込んでいても、痛みすら感じなかった。
未羽は無事だった。
だけど、未羽と最後にいっしょにいたのはあたしだった。
どうしてあの時間の電車に乗ったんだろう。未羽の言うとおり、どこかに寄り道をしていればこんなことにはならなかったのに。
後悔ばかりがこみあげてくる。内側で波立つものが耳鳴りを引き起こす。泣いたらいけないと思うのに、水はあたしの中で音を打ち鳴らしては攻めてくる。
「奈緒」
「こら、奈緒」
声をかけられたのは、同時だった。手を握り締められたのも。左右から手を取りあげられて、食い込んでいた指先をほどかれていく。
「おまえのせいじゃねえんだから、そんなにヘコむな」
「奈緒がいなかったら、俺はあそこから動けなかった。ほんとうに、ありがとう」
包み込むように握り締めてきた右手は、あたたかかった。
指をからめ取るように握ってきた左手は、つめたかった。
左右の違う温度が胸を締めつけていく。
「う、ん……」
声にならない声で頭をたてに振ったとき、診察室のドアが開いて声がかかった。
ひんやりとした薄暗い病院の廊下は、いやでもこの背筋をふるわせた。大丈夫だと、そうわかっていてもやっぱり不安が押し寄せて息が詰まる。
ぼんやりとほのかな明かりが点るいちばん奥の病室の前で、先生は足を止めた。その手が銀色のノブにかけられた瞬間、怖くて目を閉じてしまった。
小さな音を立てて、スライドしていくドア。ゆっくりと開いた目にうつったのは、閉じられたカーテンと真っ白なベッド。頭に包帯を巻いて、手や頬にガーゼを張りつかせた彼女はこっちを見ていた。
「みは、」
「お兄ちゃん!」
あたしの声は、彼を呼ぶやわらかな声にかき消された。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
何度も名前を呼んで、体を動かして、懸命に手を伸ばす未羽。ベッドから落ちそうになったところを、駆け出した彼が受け止めて抱きしめる。
「……みはね」
低くかすれた声は、にじんだ響きを持ってささやいた。彼の背中に腕を回して、めいいっぱいしがみついた未羽は嗚咽をもらしていた。
お兄ちゃんお兄ちゃんと、何度も何度も彼を求めるその声に痛むのは胸。未羽が無事でよかったとそう思えるのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
夏希がくちびるをかんで、顔をそらした。その気持ちは痛いほどよく分かった。目をそむけてしまいたい、この光景から。
兄妹が抱き合って無事を喜んでいる、そんな場面なのに、自分の中に満ちるのは黒い感情。これほどまでに、自分自身をいやだと思ったことはない。
あたしはさっきまであんなに未羽を心配していたはずなのに、これはいったいなに。漆黒の泥沼が、口を開けて呼んでいる。引きずりこもうと手を伸ばしている。
「――ねえお兄ちゃん」
そんなときだった。
未羽のビー玉のような目が、あたしをまっすぐにとらえたのは。
「あのひとは、だれ?」
彼にしがみついて、その顔を甘ったるく見上げた未羽があたしを指差す。その残酷な言葉は、この体を深い沼の底へと叩き落した。




