Scene 38 消失世界1
「なにしてるんだ?」
後ろから聞こえた声に、花がふるえた。呼吸も心臓も空気もなにもかも、花を揺るがすその振動は心の奥底に響いていく。
どうして。こんな時間にあのひとがあらわれるの。
約束まで、まだ時間があったはずなのに。
「……なにって、いちゃいちゃしてたに決まってんだろ。なあ、奈緒?」
いつまでも振り向けずにいるあたしの腕を夏希が引いた。しゃがんでいる不安定な体勢のせいで、そのまま腕に抱え込まれる。
「な、!?」
「……しっ、おまえはだまってろよ」
彼は小さな声でそうつぶやいた。こんなことをしたってもう何の意味もない。当てつけにもならない。そう訴えたかったのに、夏希の手に口をふさがれてしまって何も言えなかった。
「目立つぞ、奈緒を放せ」
「行かせないっていったよな、俺。いくらなんでも都合が良すぎるんじゃねえの?」
ワントーン下がった低い声で話すふたりは、まるで知らないひとのようだ。混雑する駅の中。喧騒、雑踏。この場所にだけ重い空気が流れる。
「もう奈緒にかまうなよ。俺はおまえの望むとおり未羽をあきらめてやるからさ」
そんな言葉じゃ、彼には響かない。
昨日、駅前で腕を組んで歩くふたりに入りこむ余地なんてなかった。ほんとうははじめから、あの夜から、わかっていたことだったのかもしれない。あたしを利用しようとしたこのひとが、こっちを向いてくれるなんてありえないのだと。
きっと、どこかでわかっていた。
もう終わりにしなきゃいけないのだと、わかっていたのに。
「おまえは未羽だけ見てろよ! 未羽のために、他の人間を傷つけていればいいだろ!」
それでもあがきたかった。夏希もあたしも。
この気持ちが消えてしまわないかぎり、あきらめたくなかった。
いつまでも、花は咲きつづける。
だれにも見えない深淵の花園で、つめたい水にひたされなから。
汚いといわれようとも、手に入れたかった。
自分の想うひとが、自分を想ってくれるそのときを夢見たかった。
でも、それも今日で終わる。
「未羽しか見えてないおまえに、俺たちの気持ちの何がわかんだよ!」
「夏希……」
悲痛な叫びは、駅に響く。通り過ぎるひとたちがあたしたちを見ていたけれど、そんなことはかまわなかった。届いてほしいのは、目の前にいるこのひとなのだから。
あたしの体を抱きかかえた夏希の腕がふるえていた。思わずその背中にしがみついて、彼を思い切り抱きしめる。あたしたちは同じ気持ちなんだと、伝わるように。
「――俺は、」
真後ろで一歩、踏み出す音がした。かすれた声が耳に入る。もう何も聞きたくなかった。このまま耳をふさいでしまいたかった。
夏希の背中に回した腕に力をこめたそのとき。
突然鳴り響いた電子音がつめたい空気を引き裂いた。
駅構内に響くのは、着信音。
聞きなれないそのメロディは真後ろから響いているようだった。
「いいから、出ろよ」
「……悪い」
夏希が彼に促して、着信音が消える。抑えた声で電話を受けた彼は、体を強張らせて硬い返事ばかりをしていた。いったい、だれと話しているのだろう。
ただようおかしな空気に胸騒ぎを覚えて、夏希の腕をすり抜ける。彼のほうへ体の向きを変えると、目の前を携帯電話が落下していった。
カシャン、と音を立てて駅のコンクリートを跳ねるアクアブルー。偶然落としてしまったにしては、あまりにも不自然だった。
「紘く、ん?」
目に入ったのは、くちびるを薄く開いたまま動きを止めた彼の姿。その顔からは血の気が失われていて、視線は遠くをさまよっているようだった。
いったいどうしたのだろう。
ありえないほど動揺した様子の彼に、夏希が立ち上がって駆け寄る。
「紘、どうした?」
さっきの剣幕から一転。心配そうな声を出した夏希にようやく彼の視線が戻る。それでもその表情は呆然としていて、見開かれた目が大きく波立っていた。
「……みはね、が」
「なんだよ。未羽がどうしたんだよ!? おい、紘!?」
ふるえる声が刻んだのは、妹の名前。
夏希が彼に詰め寄ってその襟をつかんで体を揺さぶる。
「未羽が、事故に……」
混雑する駅から、音が消え失せた。色を失くした世界に響くのは、真下に転がる携帯電話から聞こえるだれかを呼ぶ声だけだった。




