Scene 41 きみは ぼくの
青いマフラーは、カバンの底で眠っている。
「な、んで、手を!」
「逃げられると困るから」
入院病棟を引ずられるようにして出て、ロビーを通り、病院の外へ。エントランスに立つと、空はもうすっかりオレンジに色を変えていた。
コートもマフラーも、防寒着は一切身に着けずに出てきたものだから肌寒い。吹きつける風は冷え切っていたけれど、彼の手のほうが何倍もつめたく感じた。
こんなときこそ、手袋をつければいいのに。未羽からもらったものをこのひとが大事に持っていることをあたしは知っている。
「手袋、持ってないんですか? こんなに、」
つめたいのに。と言いかけて、思わず口をつぐんだ。
ばかだ。これじゃあまるで、あの手袋に嫉妬しているみたいに思われる。手を引いて先を歩いていた彼は突然その足を止めてあたしに向き直った。視線を避けるようにうつむけば、もう一方の手も握りしめられて、胸が跳ねる。
「奈緒がいるのに手袋なんて必要ないだろう。俺の手袋はきみなんだから」
火がついた。全身に、一瞬にして。顔を上げられない。見えるのは足元ばかりで、腫れたまぶたがじんじんと痛んだ。
ひどいひと。
このひとは、ほんとうに意地悪なひとだ。
かつてあたしにくれたその言葉は、もう何の役目も果たさないというのに。利用価値のないあたしは、もうとっくに用済みになっているのだから。こんなセリフに惑わされてはいけない。
そう思うのに、どうしてこの胸は熱を帯びて花を色づけていくのだろう。この空のような、赤く燃えるあざやかな色に。
「離してください」
「いやだ」
さらに強く握り締められた。痛いくらいの力に、頭がどうにかなりそうになる。意識をしすぎて、汗ばんできたてのひら。けれど、離してもらえそうもなかった。
「もう、いいかげんに離してください!」
エントランスを抜けて、病棟を道沿いに歩いていると広場のようなところへ抜けた。リハビリ目的で設置されているらしいそこは、一見、中庭のように見える。
白い手すりに焼きついたオレンジが赤く焦げていく。背の低い植え木はもうすっかり枯れていて、乾いた葉がかさかさと音を立てていた。
「そんなに俺とつなぎたくないの?」
「つなぎたくない、です」
ふたたび足を止めた彼は、大きなため息をひとつ吐くとようやく手を離してくれた。緊張と混乱で汗ばんでいたてのひらは、風が通り抜けるたびにつめたく感じる。
さみしくなんてない。
離さないでほしかったなんて、思ってない。
なかばヤケになって、近くにあったベンチへと向かう。ところが、そでを引っ張られる感触がしてそれ以上前に進めなくなってしまった。
「じゃ、手はつながない。だけど奈緒はすぐどこかに行ってしまうから離さないでおくよ」
制服のそでをつかまれて、顔をのぞきこまれて、そんなことまで言われて。もう、ぐちゃぐちゃだ。跳ね上がっていた鼓動はいまやはじけんばかりに膨らんでいて、破裂寸前だった。夕焼け色に染まる花は灼熱の中、花びらをふるわせて伸びている。
こんなのはだめ。こんなのは困る。
彼の視線は全身になだれ込んであたしをつま先から沸騰させた。しぼったら水滴がでるんじゃないかと思えるくらい、妙な汗が止まらなかった。
「いま、心底困ってるだろう?」
まるで心のなかを見透かしたように笑う彼が、憎らしくてたまらなかった。
ベンチに腰を下ろしても、まだ彼はあたしのそでをつかんだままだった。普段、口数の多いはずの彼がなぜかまったく話しかけてこようとしない。まるであたしの出方をうかがっているように。
「……夏希を、未羽のところに行かせていいんですか」
続く沈黙に耐えきれなくなったのは、やっぱりあたしのほうだった。正直、彼が夏希を未羽のそばに近づけたのは意外な展開だったから。
このひとがいったい何を考えているのか、さっぱりわからない。ただ、夏希を行かせたときのあの笑顔が決して作られたものじゃないことは、だれの目から見てもあきらかだった。
「ここのところ未羽は落ち込んでいたし、夏希の様子もおかしかった。それにあれは未羽が望んだことだ。俺の出る幕じゃないよ」
「だけど、夏希を未羽から引き離そうとしていたんですよね? 本当は行かせたくなかったんじゃないんですか」
「奈緒は意地悪だね」
その笑顔に、どっちがと叫んでやりたかった。たしかに意地悪な物言いをしたのは認めるけど、これまでのことを考えたら当然のことだ。
このひとが未羽を置いてあたしを連れ出す理由が知れない。本当はいますぐにでも彼女のもとへ戻りたいはずなのに。
「いまからでも充分です。早く未羽のところに戻ってあげてください」
このひとと向き合っている自信がなかった。それにこんな場所じゃ、万が一未羽に見られてしまう危険性だってある。
未羽は何も知らない。
あたしの想いも、彼との関係も、夏希とのことも。
ぜったいに気づかれないようにしよう。
そう決めたばかりなのに。
「夏希が行ったから大丈夫。それに、俺は奈緒に会いたかった」
もたらされたその音は、あたしを真っ赤に染め上げていく。熱を放って、この胸を揺さぶって、水辺に振動を起こしては花をくすぐる。
どうして、そんなことばかりいうの。制服のスカートのすそを握り締めて、あふれそうな感情をぐっとこらえた。
「……あたしは、会いたくありませんでした」
早く離れなきゃ。早くここから逃げなきゃ。この声に、言葉に惑わされたら、また元に戻ってしまう。決意しかけたものが崩れてしまったら、もうどうなるかわからない。
冷静を装って吐き出した言葉は、予想以上につめたいものになった。
「だから?」
傷つけるつもりで吐き出したものは、あっさりとした言葉で返ってきた。その淡々としたものに、一瞬にして血が上る。
「っ、帰ります! 話すことなんてなにもありませんから」
「だから?」
「ふざけてるんですか!?」
立ち上がったとたん、つかまれたままのそでを引っ張られた。怒りにまかせて彼の顔をにらみつけたのに、その目はまっすぐあたしをとらえていた。
「だから、何なんだ?」
赤く燃え広がる空に落ちる闇の滴。彼の目に浮かぶは、夜の黒。吸い込まれてしまいそうな瞳に宿るのは、いつか見たあの日の獣。
「俺は奈緒を離す気もなければ、帰す気もさらさらない」
吹きつけた風は熱く、散った花びらは赤く降りそそいだ。




