Scene 34 シークレット・ラヴァーズ2
熱っぽいまぶたの向こうに見えた空は、氷のかけらのような星を散らしていた。
「はあ……」
ため息とともに吐き出したものは白くかすんですぐに消えた。夏希と別れて、駅への道を急ぐ足はなんだか重たくてたまらない。
あした、あのひとに会う。会いたいといわれて、うれしくないわけがない。でも、その目的が見えない。
あたしはもうあのひとにとって必要のないものなのに。そんな態度を取られて、あんなにも痛かったはずなのに。ぐるぐると見えないものを探す思考の迷路はあまりにも複雑すぎた。
たどり着いた駅周辺はちょうど帰宅ラッシュの時間帯だったのか混み合っていた。スーツや制服でごった返す駅前の通りを突っ切ろうと足を速める。ところが。
「――っ!」
飲み込んだ息が呼吸を詰まらせて、心臓を押し下げる。どくんと脈打つもので目の前がくらむ。心の奥底、たゆたう水辺の中、花が浮かんでひらいていく。
甘いにおいをはなって、あのひとへと向かって。
通り過ぎようとした駅の入り口、開け放たれたガラス扉に寄りかかる姿。それは、あたしがあした会うと決めたあのひとのものだった。
なんでこんなところに、さっき帰ったはずなのに。
立ち止まりそうな足がふらふらと行き先を見失ってさまよう。人混みの中、視界のすべてをあのひとに奪われて、もう他に何も目に入らない。
気づかないで。そう思った。なのに。
気づいて、あたしを見て。そう声を上げる自分もいた。
あのひとの目は夜を深める空へと向けられていて、あたしのほうを見ようともしない。こんなにひとがいたら、気づくわけもない。それなのに、あたしはあのひとを見つけてしまった。
もう本当にどうしようもない。ふとこみ上げた笑いは白い息ととなって人混みにかき消されていく。そんなときだった。
「お兄ちゃん!」
鈴のような音色が、雑踏を抜けてこの耳に響いたのは。
スーツの鈍色、制服の紺、夜の群青、それが交差する世界。人混みの中で見えたのはあのひとに伸ばされた細い腕。あのひとの後ろから、しがみつくように腕を抱きしめた小さな体。
夜の黒をも跳ね除けて、きらきらとひかる甘い髪。あのひとを見上げたその顔はうれしさからなのか寒さからなのか赤く染まっていた。
「未羽……」
思わずつぶやいたその名前は、だれにも届くことなく吸い込まれて消える。言いなれたはずの音は、ぼたりと胸に落ちて水面を大きく広げた。
しがみついた腕を引っ張る未羽は、きっと遅れたことを謝っているのだろう。あのひとはそんな彼女を見下ろして、その髪をくしゃくしゃと撫でて頬をゆるめていた。
あたしを壁に追いつめたあのときとは、まったく違う顔をしたひと。ふたりの会話は喧騒にかき消されてこの耳まで届かない。それでも、その光景はいやでも視界に入ってくる。
動いていたはずの足は、いつのまにか止まってしまっていた。立ちつくすあたしは邪魔以外の何者でもなくて、通行人に何度もぶつかった。
未羽とあのひとが駅から立ち去っていく。顔を見合わせて、微笑みながら。それは仲のいい兄妹じゃなくて、恋人同士のように見えてならなかった。
消えていく。人の群れに混ざって、見えなくなる背中。
寄り添うように歩くふたりがにじんでいく。
重なるのは、あの夜のふたりの姿。夜の公園のブランコで眠ってしまったあのひとの手を包み込んだ未羽。目を覚ました彼が、いとおしいものに向けたとろけるほどやわらかい視線。
胸が悲鳴を上げていた。ずきずきと吐き気をともなう痛みがつま先から駆け抜ける。頬をつたうものは、風にさらされて流れた。
『俺はあいつと未羽を引き離す……!』
夏希の声が、よみがえる。
邪魔なのはだれ? それは、あたしたちじゃないの?
このまま、自分の気持ちを押し通すことは間違っていないの? もう無理じゃないの? 何をしても無駄な抵抗じゃないの?
あたしたちがしようとしていることは、本当に正しいことなの?
ふたりを見送った先にあるのは、深い夜。この首に巻きついたままの青がつめたくなっていくのを、ただ感じていた。




