第89話 職場見学
Aランク任務である鋼鯨の涙を無事採取し約一週間ぶりにギルドに帰って来た俺と熊八。
当初は様々な問題を抱えていたが終わってみれば狙っていた目標と大金を手に入れることに成功し、この上ない結果を残すことが出来た。
駆け出しの俺にしてみれば今回体験したことは何にも勝る経験値となったはずだ。
そして、仕事の後にはご褒美の食事が待っている。
あれほど高価な食材ならば美味しいに決まっているではないか。
鋼鯨の涙の見た目はただのゼリー状の物体だが、どんな味なのか想像もつかないので今から考えるだけでワクワクしてしまう。料理法は分からないが熊八なら最適な調理を施し、極上の一品へと昇華してくれることだろう。
と、そんなことを考えながら見慣れた道を進んでいくと俺達の本拠地であるギルドGGGが見えてきた。
「一週間とはいえ、ここにくると帰って来たって気がするな! アラタはどうだ? まだ、そこまで馴染んでないか?」
壺を抱えた熊八がまるで実家に帰って来たかのような安心した表情を浮かべながら話しかけてくる。
「ん~、そうだな~。今はまだ見慣れてないからそこまで感じるものはないかな」
そもそも転生してからまだ二週間も経っておらず、実家はおろか自分の家すらも無い状態なのだ。俺が安心して腰を落ち着かせる場所はこれから作っていく予定なのでギルドの建物を見ても特殊な感情は湧きあがらず、いたって通常運転だ。
そんな雑談を交えながら大きな木造の扉を開け建物内に入ると、そこは幾人もの冒険者らしき人物で賑わっており特に変わった様子はない。
熊八は左手にあるカウンターに歩み寄ると書き物をしていた受付のメイド、アイシャさんに声をかけた。
「おう、アイシャ! 今帰ったぞ! これ、今回の報告書だ」
「あら~、二人ともおかえりなさ~い! 任務はどうだったの~?」
アイシャさんは相変わらずの口調で報告書を受け取ると、にこやかに答えてくれる。艶やかな黒髪と整った目鼻立ち、豊満な胸を見ているとようやく帰って来たんだと実感が湧いてくる。
「それが目標はなんとか手に入れたんだがよぉ、予想外に異生物が現れちまってな。流石の俺も死ぬかと思ったぜ! ガッハッハ!」
「え~! 大変じゃないの~! よく無事だったわね~」
「いろいろ幸運が重なってな。詳しいことは報告書に書いてあるから後で確認してくれや」
「分かったわ~。それと、ニコルさん帰ってきてるわよ~」
「おっ! そうか。なら後で挨拶にいかねぇとな」
アイシャさんとの軽い会話を切り上げると、二階にある食堂へと向かう。
そここそが俺達の仕事場でありホームだ。
現在の時刻はお昼時を過ぎており、ランチタイムも一段落しているはずだ。ハルシアや猫たちは元気にしているだろうか?
軽快な足取りで食堂内に入っていく熊八は扉を開けるや否や開口一番、大きな声を発した。
「今、けぇったぞ! 今夜は御馳走だ!」
誰に向けて発したわけでもなくホール全体に響き渡る熊八の声に一早く反応したのは真っ黒な毛色をした黒猫、通称<クロ>であった。
「あっ! オーナーおかえりなさいにゃ! それとアラタさんも! 御馳走って何かにゃ?」
どうやらテーブルセッティングの最中だったようで真っ白なテーブルクロスを一旦置いて駆け寄ってくる。
熊八は普段、猫たちから『オーナー』と呼ばれているのか。
「おう! クロ! 御馳走ってのはこれだ。分かるか?」
壺の蓋を開けて中を見せているとウルウルとした大きな瞳で覗き込んでおり、不思議そうな顔をしながらクンクンと匂いを嗅いでいる。
その仕草はやはり猫っぽく愛嬌があった。
と、騒ぎを聞きつけたのかカウンター越しからひょっこり顔を出したのは姉弟子であるハルシア。真っ白なコックコートを着ており、ランチの後片づけをしていた様子で俺達を見るや否やパァっと表情が明るくなる。
「おかえりなさい! 熊八さん、アラタさん! 涙は採取できましたか?」
パタパタと小走りで近づき、熊八が抱えている壺が目に入ったのか全てを察したようだ。
「もしかして、その中に入ってるんですか? あれ? って、熊八さん怪我してるじゃないですか! ここも! こっちも!」
ハルシアは涙に対する興味よりも熊八の異変に真っ先に気が付き、先ほどまでの笑顔から慌てふためいた表情に変わり驚いている。
触りはしないものの、左腕の怪我や火傷をいくつも発見し目まぐるしく手を動かし騒いでいる。
「大丈夫だハルシア。大したことねぇよ。ちっとばかし痛むが何ともねぇ」
「ダメです! 治癒師ギルドには行きました!? 行ってないですよね!? 何があったのかは後でちゃんと聞きますから、今すぐ行きましょう! アラタさんは大丈夫ですか!?」
「あぁ、俺は何ともない」
「そうですか、良かったです! ほら、熊八さん行きますよ!」
「大げさだって! 寝てりゃ治る! それより飯に……」
「いーえ! 食事は先生に診てもらってからでも大丈夫です! いいから行くの!」
有無を言わさないハルシアの剣幕に押されたのか半ば引っ張られるように熊八は連れ出されてしまった。
「あっ、アラタさんはお留守番をお願いします。何か分からないことがあったら皆に聞いてくださいね。クロ、お願いね」
そう言い残しバタンと扉が閉じられると二人は治癒師ギルドなる場所に向かったようだった。残された俺とクロは去り際に熊八から渡された壺を持ち、呆気にとられている。
「行っちゃったな……。」
「行っちゃいましたにゃ」
残された俺は特にすることも行く場所も無いのでクロにこれからの予定を聞いてみることにした。
「クロはこれからどうするんだ? 今夜の営業には間に合うのかな?」
「僕は作業に戻って一仕事終わったら休憩するつもりだったけど、オーナーがあの様子だと今夜の営業はないんじゃにゃいかにゃ?」
「ん~俺も暇だからなぁ。そうだ、今のうちにキッチンを見てもいいか?」
「構わないにゃ。でも僕はウェイターでキッチンのことはよく分からないからブチとチャドに聞くといいにゃ」
ブチとチャドというのは斑猫のブチと茶トラ猫のチャドのことだったか。
あの二人はキッチン担当のようなので厨房内で作業していた二人に声を掛けてみた。
「二人ともお疲れさま! これからここで世話になるから少しキッチンを見させてもらってもいいか?」
俺の声に反応した二人は手を止め顔を上げる。
ブチは野菜の下処理を行っているのか、山のようにつまれた大根の皮を剥いている。
チャドは重そうな瞼をこらえながら調理器具を洗っていたところであった。
「おぉ、これはアラタ殿。帰還されたのですな。遠慮なくどうぞ」
「……ふあぁ。眠いにゃ……」
語尾ににゃがつかないブチは丁寧に答えてくれる。チャドはいつも眠そうにしているな。
「ありがとう。俺は勝手に見ていくから気にしないで二人は仕事を進めてくれ」
「承知しました。では、そのように」
厨房の中に入ると、まずその広さに驚いた。
カウンター越しに見えていた厨房内はそこまで広くないと思っていたが、死角となる場所には広々としたスペースがあり隅には食糧庫へと通じるエレベーターと同じ仕組みの滑車もある。
この世界には電気を流用した上水道やガスコンロなどはないため、大きな竈が5つ備えらえれており大口の鍋やフライパンが壁に掛けられていた。今は使う必要がないのか小さな火がチロチロと燻っている程度である。
流し台なども当然なく、お風呂のような水漏れしない大きな桶に水を溜め、飲み水用と洗い物用と分けて使用しているようだ。当然だが、蛇口はどこにも見当たらない。全て手作業だ。
注意深く見てみると底に栓がしてあり水が汚れたり交換するときに栓を抜いて排水しているようだ。
その排水先は竹のような植物で繋がっており、空洞の中を通って外に排水できる仕組みだ。
水を自由に使えないのは相当大変なことだろう。
料理を作るのに水は欠かす事の出来ない重要な役割を担っているので、この世界で料理を作るのは想像以上にキツイな。加熱調理をするのだって薪を燃やさなければならないし、火力の調節も難しい上に排煙の問題もある。
見れば見るほど使い勝手が悪く、一体どうやってあれだけの人数の料理を賄っていたのか不思議に思うほどだ。
そのうち見ることができると思うが重労働であることは想像に容易い。
すぐ手の届く範囲には棚に所狭しと積み上げられた食器の数々。大きな地震でもきたら一斉に崩れてしまいそうな絶妙なバランスで重なっており、見ているだけで不安になってしまう。この地域では地震は滅多にこないのだろうか? でなければ、こんなことにはなっていないハズだ。
けれど種類はとても豊富で真っ白な陶器の器や不思議な柄が描かれた器など実に大小様々な食器が目を楽しませてくれ、料理に合わせることは問題なさそうである。
壁にはお玉やトング、菜箸、包丁、木べらなど小さ目な器具が掛けられており、すぐ手に取ることが出来る。
重たく幅を取る寸胴や大鍋、ボウルやザルなどの器具は足元付近に収納されていた。
少し奥まった場所に進んでみるとそこはドリンクを作る場所のスペースなのか使用済みの空いたボトルや、形の異なる透明なグラスの数々が出迎えてくれた。
天井に固定された棚から逆さに吊るされるように保管されているワイングラスはどれも綺麗に保たれており、衛生的な問題はなさそうである。
後ろの壁際に積まれた大樽には蛇口のような栓が嵌め込まれており、中にワインが入っているようだった。横向きに何段にも重ねられよく持ち上げたものだと感心してしまう。
念のために周りの引き出しを開けてみたり扉を開けてみたが案の定、製氷機などという便利なものは見当たらなかった。それどころか冷蔵庫すらないので温度管理や保存が大変だ。
となると、飲み物は全て常温で提供しているのだろうか?
地球育ちの俺からしてみれば飲食店で食事をする際、冷たい飲み物が出てくるのは当たり前のことだが、このガイアでは夏場に生ぬるい飲み物が出てきても普通なのだろう。それは残念極まりないことだ……。
厨房内を端から端まで歩いていくと、どうやら両側から出入りが出来るよう設計されているようで動作環境はよさそうだ。更にカウンター越しにも料理を渡せるため、迅速な提供が期待できる。
これだけの環境ならばホールの人間はさぞかし働きやすいだろう。
問題はやはりキッチンだな……。
この環境に慣れている者からすれば当たり前のことだろうが、俺からしてみれば不便すぎる。ちゃんと、やっていけるか心配になってしまう。
そうして、一通りキッチン内を見終えた俺は今のうちに食器の場所や調理器具の場所を頭に叩き込むことにした。
空いた時間で食糧庫にも足を向け、ひんやりとした地下を見て回る。
実に多くの食材が低温で保管され特大の冷蔵庫の中にいるみたいだった。
初めて見る不思議な造形の食材を触ったり、匂いを嗅いだり、少し齧ってみたりするのは好奇心を刺激されとても面白い。
そんなことをして時間を潰していると、あっという間に時間が過ぎ去っていき体が冷えてきたので食堂に戻ることにする。
思いのほか長居してたのか、いつの間にか熊八とハルシアが帰ってきていた。
「あ、アラタさんどこに行ってたんですか? 熊八さんの容体なんですが、そこまで重症ではないらしく少しの処方で済みました。先生も熊八さんの回復力に驚いてましたよ」
「そうか。大事に至らなくてよかったな」
熊八の沽券に関わるため言わないでおくが、沖合で思う存分鋼鯨の涙を食べたおかげなのだろう。
船医も同じようなことを言っていたので間違いないはずだ。
「うっし! そんじゃあ早速、アラタのお披露目も兼ねた鋼鯨の涙を調理すっか! あまりの美味さに腰ぬかすんじゃねぇぞ!」
熊八の体も無事なようなので、当初の目的を始めるとする。
ここまでくるのに随分と時間が掛かったが、ようやくギルドの一員として認めてもらえるはずだ。